公爵家の宣言
家族会議から五日後。
貴族院。
レグナシオン王国の立法と協議を担う最高機関。大公爵から男爵まで、議席を持つ貴族が一堂に会する半円形の大議場。天井のステンドグラスから差し込む光が、白い石壁を染めている。
セレスティアはここにいない。八歳の令嬢に貴族院の傍聴席はない。だが——ナターシャ経由で、議場の動きは逐一把握していた。
ナターシャの情報源は複数ある。公爵家の書記官。貴族院の下級事務官。そして、議場の壁際に立つ給仕係の一人。情報の網はセレスティアの知らないところまで広がっている。
今、公爵邸の書斎で報告を待っている。窓の外は曇天。嵐が来そうな空だった。
◇
貴族院の議場。
定例会議の最後に、公爵ライナルト・フォン・アルヴェインが発言を求めた。
議長が頷く。「アルヴェイン公爵閣下、発言をどうぞ」
公爵が立ち上がった。四十七歳。灰がかった銀髪。深い皺の額。だがその背筋は鉄柱のように真っ直ぐだ。百二十の議席の視線が集まった。
「諸卿にお伝えすべきことがある」
低く、響く声。
「我が末娘セレスティアは、昨年の魔力覚醒試験において、光属性と判定された。測定値は二千八百四十」
議場が揺れた。既に噂としては広まっていたが、公爵自身の口から公式に確認されたのは初めてだ。
「歴代最高の数値だと聞いている」
中央のやや後方から声が上がった。ライデンベルク侯爵。中立派の重鎮。六十代の白髪の貴族で、風見鶏として知られるが、発言の影響力は大きい。
「その通りです」公爵は認めた。「記録上、過去五百年で最も高い魔力を持つ光属性の使い手です」
二千八百四十。その数字が議場に重く落ちた。
通常の貴族の子弟は、覚醒時の魔力量が三百から五百程度だ。才能があると言われる子でも八百。千を超えれば「天才」と呼ばれる。二千八百四十は——規格外と言うほかない。
「アルヴェイン公爵」
別の声。低く、滑らかで、絹のような声。
宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ。
公爵の斜め前方に座っている。五十代半ば。痩身。銀灰の髪を撫でつけた、鋭い顔。微笑んでいる。宰相はいつも微笑んでいる。
「それほどの魔力を持つお嬢様の教育を、どのようにお考えですか。貴族院として、その安全管理について伺いたい」
安全管理。
公爵の目が微かに細くなった。
「宰相閣下のご懸念はもっともです。だからこそ——今日、この場で申し上げます」
公爵は議場を見渡した。百二十の目が見つめ返す。
「セレスティアの魔力教育は、アルヴェイン公爵家が全責任を持って行います。既に王立学園のオスヴァルト教授に指導を依頼しているほか、元宮廷魔術師の専門家を家庭教師として招聘する準備を進めています。教育計画は書面にまとめ、貴族院に提出する用意があります」
議場が静まった。
宰相の微笑みが——ほんの一瞬、固まった。
◇
宰相が立ち上がった。
「アルヴェイン公爵のご姿勢は立派です。だが——一つ確認させていただきたい」
宰相の声は穏やかだった。穏やかすぎた。嵐の前の凪のような穏やかさ。
「二千八百四十という魔力量。これほどの力を持つ者が、一貴族家の管理下に置かれることに、不安を覚える諸卿もいらっしゃるのではないでしょうか」
議場のあちこちで頷きが見えた。宰相派の議席だけではない。中立派にも、その言葉に同調する者がいる。
「歴史を紐解けば、強大な魔力を持つ者が暴走し、多くの犠牲を出した事例は枚挙に暇がありません。百二十年前のシュトゥルム事件。二百四十年前のヴァルトブルクの惨劇。いずれも、適切な管理が行われなかったために起きた悲劇です」
「したがって、王家として提案いたします。アルヴェイン家の教育に加え、王家からも専門の監察官を派遣し、セレスティア嬢の魔力の推移を定期的に確認する体制を——」
「不要です」
公爵の声が宰相の言葉を断ち切った。
議場が凍った。宰相の提案を正面から拒否する。それも、一言で。
「公爵閣下」宰相が目を細めた。「王家の提案を一蹴されるのですか」
「王家の提案ではない。宰相閣下個人のご提案でしょう」
議場が騒めいた。
宰相の目が一瞬——ほんの一瞬——鋭くなった。微笑みの奥に刃が光った。だがすぐに穏やかな表情に戻る。
「もちろん、正式には国王陛下のご裁可を仰ぎますが——」
「であれば、陛下のご裁可を待ちましょう」公爵は淡々と返した。「貴族の子の教育は、その家に第一の権限がある。これは王国建国以来の慣習法です。公爵家はその権限と責任を全うする。それ以上でもそれ以下でもありません」
◇
採決は行われなかった。公爵の声明は「報告事項」であり、議決を必要としない。宰相の「監察官派遣」も正式な議題ではなく、「提案」にとどまった。
だが——この日の議場で起きたことの意味は、採決よりも重かった。
議場を出る時、公爵の背中に声がかかった。
「ライナルト」
振り返らなかった。宰相の声だと分かっていたからだ。
「お嬢様を——大切に」
公爵は足を止めなかった。背中で受け流し、議場を出た。
◇
公爵邸。書斎。
セレスティアは父の帰りを待っていた。
夕刻。馬車の車輪の音が正門前で止まった。玄関の扉が開く音。書斎に入ってきた父の顔を見て——安堵した。
顔色が悪くない。むしろ——落ち着いている。
「おかえりなさい、おとうさま」
「ただいま」
父が椅子に座った。ヘルマンが茶を運んでくる。二人きりになった。
「報告は聞いているだろう」
「はい。ナターシャから。おとうさまが宰相の提案を一蹴されたと」
「一蹴というのは大げさだ。慣習法に基づく正当な反論をしたまでだ」
「宰相は——どんな顔をしていましたか」
「笑っていた。いつも通りに」
「おとうさま。宰相は必ず次の手を打ってきます」
「分かっている」
「貴族院での声明だけでは足りません。中立派を味方につける必要があります。特に——ライデンベルク侯爵」
父が目を上げた。
「ライデンベルク侯爵は今日の議場で発言していたと聞きました。中立を保っている方ですが——宰相の『監察官派遣』が全貴族家の自治権を脅かすと気づいたはずです」
「お前の読みは正しい。ライデンベルクは風見鶏だが、自分の家に火が及ぶとなれば動く」
「おとうさまが直接、お話しになれますか」
父は茶を一口飲んだ。
「ライデンベルクとは若い頃に面識がある。先代侯爵の葬儀に参列した縁だ。だが——政治的な接触は、慎重に行わなければならない。宰相の耳に入れば、『反宰相連合の結成だ』と警戒される」
「はい。だから——偶然を装うのがいいと思います」
セレスティアは小さな手で膝の上を叩いた。考えをまとめる時の癖。
「来月、王都で秋の収穫祭がありますよね。貴族の社交の場です。その場で、おとうさまがライデンベルク侯爵と『たまたま』お話しになる。政治の話はしない。ただ——娘の教育について、ご理解を求める。父として」
父が——笑った。
珍しいことだった。公爵ライナルト・フォン・アルヴェインが声を出して笑うことは滅多にない。
「お前は八歳だったな」
「はい」
「時々忘れそうになる」
「忘れないでください。わたしが八歳だからこそ、学園にいられるのですから」
父は笑いを収め、真剣な目になった。
「ライデンベルクの件は私が対処する。お前は学園に戻れ。ヘルマンの調査報告はもう少しで届く。グレーテル・シュタインの身辺は——問題なさそうだ」
「グレーテル先生のこと、楽しみにしています」
「楽しみ……か」
父の目が遠くなった。
「あの女は厳しいぞ。フェリクスが『王国最高の実戦指導者』と言ったのは伊達ではない。お前が泣いても容赦しない」
「泣きません」
「……そうだろうな」
父は窓の外を見た。曇天が薄れ、雲の隙間から夕日が覗いていた。
「セレスティア」
「はい」
「今日、宰相と剣を交えた。これから——もっと激しくなる」
「はい」
「だが一つだけ、はっきりしたことがある」
父がセレスティアを見た。
「貴族院の中立派は、宰相の独走に不満を抱えている。声に出さないだけだ。今日、私が声を上げたことで——いくつかの目が、こちらを見た」
「おとうさま。わたしも、学園の中で——同じことをします」
父が頷いた。
「各自の戦場で戦え。それがアルヴェイン家のやり方だ」
◇
翌朝。学園に戻る馬車の中。
ヴォルフが手綱を操り、ナターシャが隣に座っている。いつもの配置。
窓の外を流れる秋の景色を見ながら、セレスティアは考えた。
公爵家の宣言。第一手は成功した。だが宰相は必ず反撃する。
次の戦場はどこか。貴族院か。学園か。それとも——まだ見えない場所か。
拳を握った。
「ナターシャ」
「はい、お嬢様」
「学園に着いたら、ヴィオレッタさまに話があるの」
ナターシャの目が動いた。意味を察した顔。
「ヴィオレッタ様に……ですか」
「うん。そろそろ——あの子と、本音で話す時が来たと思う」
馬車が学園の門に向かって走っている。秋の風が窓から入り込み、銀色の髪を揺らした。




