告発者の眠れない夜── ヴィオレッタ視点
同室のセレスティアの寝顔を見ている。
消灯から一時間。あの子は先に寝た。寝息は静かで規則正しい。起きている時のあの子は隙がない。笑っていても、話していても、どこかで周囲を観察している目をしている。だが眠ると——ただの子供の顔になる。
小さい。八歳なのに、私より背が低い。銀色の髪が枕に広がっている。月明かりの中で見ると、人形みたいに綺麗な顔。
時々——首を押さえて呻く。
眠りながら、首に手をやる。まるで首を斬られる夢でも見ているみたいに。苦しそうに顔を歪めて、小さく唸る。それが収まると、また静かな寝息に戻る。
八歳の女の子が見る夢じゃない。
最初は気のせいだと思った。だが何度も見た。月に二、三回は起きる。満月の夜に多い気がする。
あの子は何を見ているのだろう。
◇
私は宰相派から命令を受けている。
「セレスティアの情報を集めろ」
お父様が「やれ」と言った。手紙で。あの冷たい文字で。「お前の同室者はアルヴェイン公爵の令嬢だ。何をしているか、誰と話しているか、どんな手紙を書いているか、全て記録して送れ」
だから従った。従うしかない。
モンテヴェルデ侯爵家は宰相家に借金がある。政治的な借り。祖父の代に失った領地の一部を、宰相の口利きで取り戻した。その代償として、私たちの家は宰相の命令を拒否できない。
私が学園に入ったのも、成績で一位を取れと言われるのも、セレスティアの傍に配置されたのも、全てお父様の——いいえ、宰相の意思だ。
誰も私自身を見ていない。
◇
セレスティアの私物を調べた。最初の頃は。
お父様の命令通りに。あの子がいない時に、引き出しを開け、衣装棚を確認し、机の上の手紙を見た。
何もなかった。
教科書。フリーデリケからの花の絵。ヴォルフがくれたらしい兎の木彫り。普通の八歳の令嬢の持ち物。政治的な文書も暗号も密書もない。
拍子抜けした。こんなものを報告しても意味がない。お父様は「もっと調べろ」と返事をよこした。
だが——ないものはない。
セレスティアが私の行動に気づいているのかどうか、分からなかった。最初は。
でもある日、気づいた。あの子の引き出しの中身が変わっている。以前はもう少し雑然としていた。今は綺麗に整理されている。まるで「見られてもいいもの」だけを残しているかのように。
あの子は知っている。私がスパイだということを。
知っていて——何も言わない。
◇
泣いた夜があった。
お父様の手紙を読んで。「成績が四位だと。一位を取れと言っただろう。イザベラに勝てないなら、お前に価値はない」
価値がない。
その言葉が刺さった。深く。
消灯後、毛布を被って泣いた。声を殺して。同室のあの子に聞かれたくなかった。弱いところを見せたくなかった。
あの子が起きた。
「ヴィオレッタさま、おきてる?」
眠そうな声。でも——起きたんじゃない。ずっと起きていた気がする。私の泣き声に気づいて、わざと「今起きた」ふりをしたのだ。
私のプライドを守るために。
水を持ってきた。「わたしがのどかわいたから」と言って。嘘よ。私のために持ってきたくせに。自分のためだと言い換えて、私が受け取りやすくした。
八歳の子供が、そんな配慮をするか?
気づいたら話していた。お父様のこと。宰相のこと。侯爵家の借金のこと。言うつもりなんてなかった。スパイが標的に家庭の事情を話すなんて、最悪の行為だ。
でも止まらなかった。
あの子が黙って聞いていたから。「大丈夫」とも「可哀想」とも言わなかった。ただ聞いていた。それが——楽だった。
最後にハンカチを差し出された。暗闇の中で。白いレースのハンカチ。
「泣いていいよ。誰にも言わないから」
あの言葉を聞いた時、胸の奥で何かが崩れた。
泣いた。あの子の前で。声を殺さずに。
◇
あのハンカチは——まだ返していない。
洗って返そうと思った。何度も。でも返せなかった。
引き出しの奥にしまってある。お父様への報告書の束の下に。スパイの道具の中に、あの子のハンカチが一枚だけ混じっている。
変なの。
◇
あの子が嫌がらせを受け始めた時、最初は見て見ぬふりをした。
靴の砂。教科書の破損。スープ。落書き。
スパイとしては好都合だった。「セレスティアが学園で孤立している」と報告すれば、お父様は喜ぶ。宰相も喜ぶ。
でも報告しなかった。
なぜだろう。分からない。いや——分かっている。
報告したくなかったのだ。あの子が傷ついていることを、あの子を傷つけたい人間に教えたくなかった。
渡り廊下で、三人があの子を詰めていた。
「ずるしたんじゃないの」「公爵家だからって偉そうに」「聖女気取り」
あの子は笑っていた。微笑んで「ごめんなさい」と言っていた。
自分が悪くないのに謝っていた。
何かが——切れた。
気づいたら声が出ていた。
「何をしているの」
でも止まらなかった。
「あの子は努力してるのよ。あなたたちが怠けてるだけでしょう」
三人が黙った。当然だ。侯爵家の私に正面から逆らえる家格じゃない。
あの子たちが去った後、セレスティアが私を見た。
あの目。泣きそうなのに笑っている目。初めて会った時の——いいえ、あの夜にハンカチを差し出された時と同じ目。
「ヴィオレッタさま。ありがとうございます」
「勘違いしないで。あなたを助けたんじゃない」
あの子は言った。
「わたし、ヴィオレッタさまが同室でよかった」
胸が痛かった。
◇
夜。消灯後。
セレスティアの寝顔を見ている。
また首を押さえている。眉が寄っている。何かの夢。悪い夢。
手を伸ばしそうになった。あの子の手を、握りそうになった。
止めた。
私はスパイなのだから。
お父様の命令で、この子を監視しているのだから。
でも——。
◇
あれは演技なのだろうか。
あの夜のハンカチ。水を持ってきたこと。愚痴を聞いてくれたこと。嫌がらせを黙って耐えていたこと。
全部、計算なのだろうか。公爵家の令嬢が侯爵家のスパイを手懐けるための。
分からない。
でも——あの夜のハンカチの温かさは本物だった。
あの子の手が震えていなかった。差し出す手が、真っ直ぐだった。
計算で差し出されたハンカチは、あんなに温かくならないと思う。
◇
お父様は私を道具にしている。宰相も私を道具にしている。
誰も私自身を見ていない。「モンテヴェルデ侯爵の娘」としてしか必要とされていない。
イザベラだって同じ。あの子は宰相の娘として完璧に振る舞っている。でもあの目——時々、虚ろになる目。あの子も使われているのだ。自覚した上で、黙って動いている。
私は黙っていられない。怒りが溢れる。だからこそ、操りにくいのだろう。お父様がいつも苛立つのは、そのせいだ。
セレスティアは違った。
「ヴィオレッタ」と呼んでくれた。家名ではなく、私の名前で。
「ヴィオレッタさまとおはなしするのがすきだよ」と言った。
「わたしなんかに」と返した時、あの子は「うん。わたしなんかに」と笑った。
自分を卑下しながら笑える子。変な子。
変な子だけど——私のことを「ヴィオレッタ」として見てくれた、たぶん最初の人。
◇
裏切るなら。
もし私が誰かを裏切るなら。
あの子じゃなくて、宰相とお父様の方を裏切りたい。
そう思った。
でも——もし裏切った先に、セレスティアが笑っているなら。
あの夜のハンカチみたいに、「泣いていいよ」と言ってくれるなら。
悪くない、と思った。
◇
今夜も眠れない。
セレスティアの寝顔を見ている。月明かりの中の銀色の髪。
また首を押さえた。小さく呻いた。眉が歪んだ。
今度は——手を伸ばした。
あの子の手に、そっと触れた。指先だけ。
セレスティアの顔が——少しだけ、緩んだ。眉の歪みが消えた。呻きが止まった。
効果があるのかどうか分からない。偶然かもしれない。
でも——。
もう少しだけ、このまま。
あの子の手は小さくて、温かくて。
ハンカチと同じ温度だった。
そう思った夜、私は初めてぐっすり眠れた。




