寡黙な剣の独白── 護衛騎士ヴォルフ視点
俺は言葉が得意じゃない。
剣で語る方がずっと楽だ。剣には嘘がない。振れば斬れる。受ければ止まる。言葉みたいに裏の意味を持たない。
だから俺みたいな男が、小さなお嬢様の護衛に選ばれた時は、正直困った。
◇
孤児だった俺を拾ってくれたのが公爵家だった。
八歳で公爵家の馬車を襲った。飢えて、寒くて、何も持っていなかった餓鬼が、石を投げた。馬車の護衛に首根っこを掴まれて、あっけなく捕まった。
殺されると思った。
だが公爵閣下は馬車から降りてきて、泥だらけの俺を見て言った。「食事をやれ」と。
あの日のパンの味は、二十年経っても忘れない。
公爵家の下働きから始まり、十二で剣の訓練を許された。教えてくれたのがエドヴァルト様だった。まだ十二歳の若様。剣の腕は未熟だったが、俺みたいな元浮浪児に対しても対等に接した。
「お前、筋がいいな。名前は?」
「ヴォルフです」
「狼か。いい名だ。俺の稽古相手になれ」
エドヴァルト様は剣の師匠であり、俺にとっては兄のような存在だった。
十六で騎士見習い。十八で正騎士。二十で公爵閣下に呼ばれた。
「ヴォルフ。末の娘の護衛を任せる」
末の娘。セレスティア様。当時五歳。
五歳の令嬢に二十歳の騎士をつける。異例の措置だった。だが公爵閣下は理由を説明しなかった。「守れ」。それだけだった。
命令だから守る。最初はそう思っていた。
◇
お嬢様は——おかしな子だった。
三歳なのに目が違う。子供の目じゃない。何かを見てきた人間の目だ。戦場帰りの兵士の目に似ている。
初めて会った日、お嬢様は俺を見上げて言った。
「ヴォルフ」
名乗っていなかった。まだ誰も俺の名前を教えていなかった。
「ヴォルフ。よろしくおねがいします」
目が——泣きそうだった。なのに笑っていた。
三歳の子供が、初対面の騎士に泣きそうな顔で笑う理由が分からなかった。
今も分からない。だが、あの目を見た瞬間に何かが決まった気がする。この子を守る。命令だからじゃなく、俺が守りたいから守る。
◇
五歳で王都に行った時のことだ。
馬車で王都の大通りを走った。お嬢様は窓の外を見ていた。
処刑広場の前を通った。
大した場所じゃない。石畳の広場に木製の台が組んであるだけだ。普段は何もない。だが処刑の日には群衆が集まり、罪人の首が落ちる。
お嬢様が——凍った。
顔から血の気が引いた。目が見開かれた。唇が震えた。小さな手が自分の首に触れた。
まるで——あの台の上で、自分の首が斬られたことがあるかのように。
五歳の子供が、処刑広場を見てそんな反応をするはずがない。だがお嬢様はそうなった。
俺は何も聞かなかった。聞く必要がないからじゃない。聞いたら、お嬢様が壊れそうだったからだ。
だから前に立った。お嬢様の視界を塞いだ。
「前だけを見てください」
あの小さな手が、俺のマントを掴んだ。震えていた。全身で。
俺は何もできなかった。剣では守れない種類の恐怖だった。俺に斬れるのは人間と魔獣だけだ。お嬢様の心の中の敵は、俺の剣では届かない。
馬車がその広場を過ぎ去るまで、ずっと前に立ち続けた。マントを掴む手が少しずつ力を緩めていった。顔色が戻るまで、俺は何も言わなかった。
だから隣にいることにした。それしかできないなら、それだけは完璧にやる。
あの日から、俺の剣の意味が変わった。
公爵閣下の命令だから守るんじゃない。この子が震えなくていい世界を作るために、俺の剣がある。
◇
学園に入ってからは、門の外で待つ日が増えた。
お嬢様は学園の中にいて、俺は外にいる。中で何が起きているのか、俺には見えない。聞こえない。
だが——帰ってくる時の顔で分かる。
笑っている日は良い日だ。お嬢様の笑顔は不思議だ。三歳の頃から、笑い方がどこか大人びていた。本当に楽しい時の笑顔と、取り繕った笑顔がある。俺にはその違いが分かる。
目が死んでいる日は悪い日だ。何かがあった日。誰かに傷つけられた日。あるいは、あの処刑広場の時のような目——過去の何かに引きずり込まれた日。
悪い日は、黙ってお嬢様の隣を歩く。何も言わない。何も聞かない。ただ、いつもより半歩近くに立つ。
お嬢様はそれに気づいている。気づいて、少しだけ歩く速度を落とす。俺の歩幅に合わせるように。
それが俺たちの会話だ。言葉のない会話。
◇
学園で何があったか、断片的に知っている。
ナターシャ——お嬢様の侍女から、必要な情報は共有されている。同室のヴィオレッタ嬢がスパイであること。厨房に宰相派の人間がいること。侍従カスパルが王太子を監視していること。
俺は政治のことは分からない。暗号も陰謀も理解できない。
だが分かることがある。
お嬢様の靴に砂が入っていたことがある。門の外で待っている時、お嬢様が靴を軽く振ってから履き直すのを見た。何も言わなかった。だが翌日、学園の使用人の顔を全て確認した。誰がどの時間にどこにいるか。護衛とはそういう仕事だ。
お嬢様の制服にスープの染みがついていたことがある。帰りの馬車で、お嬢様は何も言わなかった。だが襟元の染みは見れば分かる。
俺は何も言わなかった。言葉は俺の武器じゃない。
代わりに、お嬢様の手紙をヴォルフ便で運んだ。公爵閣下への密書を。銀の月章の封蝋を。
俺にできるのは、お嬢様と公爵閣下を繋ぐ橋になることだ。
剣だけが護衛じゃない。お嬢様が、それを教えてくれた。
◇
実技試験の日があった。
門の外で待っていた。いつもより帰りが遅かった。空が橙色から紫に変わった。
お嬢様が出てきた時、顔が白かった。手が微かに震えていた。
処刑広場の時と同じ——ではない。もっと複雑な表情。恐怖と決意が混ざった顔。何かが起きた。何か重大なことが。
お嬢様は俺を見て、一瞬だけ目を閉じた。深呼吸を一つ。それから目を開けて言った。
「ヴォルフ。帰りましょう」
「はい。お嬢様」
馬車に乗った。いつもの席。お嬢様は窓際に座り、俺は向かいに座る。
走り出した馬車の中で、お嬢様が呟いた。
「ヴォルフ」
「はい」
「おうちに帰りたい」
八歳の子供の言葉だった。
俺の胸が——締まった。
「帰りましょう。公爵閣下がお待ちです」
「うん」
お嬢様は窓の外を見た。夕暮れの街並みが流れていく。街灯が一つ、また一つと点いていった。石畳が光を映していた。
俺は何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ——姿勢を正した。
この子を乗せた馬車を、安全に家まで届ける。
それが俺の仕事だ。
それだけは、誰にも負けない。
◇
その日、俺はどこにいるだろう。
お嬢様の隣だ。
前に立つか、後ろに立つかは知らない。だが隣にいる。雪でも嵐でも、どんな場所でも。
言葉はいらない。
俺の剣が、全てを語る。それで十分だと思っている。




