8歳の決意
実技試験の翌日。
セレスティアは授業を欠席した。体調不良という名目で。実際に体調は悪かった。闇の漏出後、魔力が不安定になり、微熱が続いている。だが本当の理由は別だ。
考える時間が必要だった。
ナターシャの部屋。窓は閉め切り、扉に鍵をかけた。
「報告します。昨日の実技試験後、ルシアン殿下はカスパルと接触しています。面会室ではなく、寮の裏手で短時間。内容は不明ですが、殿下の表情は興奮していました」
「イザベラさまの動きは」
「イザベラ様は、昨夜から今朝にかけて、誰とも接触していません。自室にこもっています」
イザベラが報告していない。だが賭ける余裕はない。
「リディアさまは」
「リディア様は何も言っていません。ただ、今朝の授業で——お嬢様が欠席したことを、何度も窓の方を見て気にしておられました」
「ナターシャ。帰省する」
「帰省、ですか」
「おとうさまに会わなければならない。手紙では間に合わない。直接話す」
「内容は——」
「わたしの魔力のこと。もっと詳しく。それと——この国で起ころうとしていること」
ナターシャの目が真剣になった。
「全てを、お話しになるのですか」
「全てじゃない。でも——今まで隠していたことの、もっと多くを」
◇
帰省の許可は、ヴォルフ経由で即日取れた。
馬車の中。ヴォルフが手綱を操り、ナターシャが隣に座っている。
窓の外を流れる学園の塔を見つめながら、セレスティアは考えた。麦が緑に揺れていた。春の田園が広がって、馬蹄の音が遠くに消えていく。ナターシャが隣で小さく目を閉じていた。
◇
公爵邸。
馬車が正門をくぐった。見慣れた館。銀の装飾が施された正面玄関。庭園のバラはまだ蕾だ。
玄関でマルガレーテが出迎えてくれた。
「お嬢様、おかえりなさいませ。お顔の色が——」
「マルガレーテ。おとうさまは」
「書斎にいらっしゃいます。お嬢様が帰省されると聞いて、お待ちです」
書斎の扉を叩いた。
「入れ」
父の声。低く、落ち着いた声。この声を聞くと、背筋が伸びる。
扉を開けた。
書斎。壁一面の本棚。重厚な机。窓から差し込む午後の光。机の向こうに、父ライナルト・フォン・アルヴェインが座っていた。
四十七歳。灰がかった銀髪に白いものが増えた。深い皺が刻まれた額。だが目は鋭いままだ。合理的で、冷徹で、だが娘を見る時だけほんの僅かに柔らかくなる目。
「セレスティア。座りなさい」
椅子に座った。机を挟んで父と向かい合う。五年前、三歳の時にもこうして座った。あの時は「夢の話」をした。母の毒のこと。
今回は、もっと多くを話す。
「おとうさま。わたしの魔力のことを、もっとお話しなければなりません」
「覚醒試験では、光属性と記録されました。でも——わたしの魔力は、光だけではありません」
沈黙。
「闇属性も持っています」
「光と闇の両属性。聖魔力です」
「……知っていた」
セレスティアが息を呑んだ。
「フェリクスから報告を受けている。三年前に、お前の魔力波動を調べた時に——『通常の属性分類に当てはまらない反応がある』と。フェリクスはヨハン先生の研究を参照し、聖魔力の可能性を示唆していた」
「おとうさまは——ずっとご存知だったのですか」
「確信はなかった。だが可能性は視野に入れていた。覚醒試験で光属性のみと記録された時、誰かが細工したのだと推測した。オスヴァルト教授だろう」
「おとうさま。学年末の実技試験で——闇が一瞬、漏れました」
父の指が机の上で止まった。ペンを持っていた手が、微かに力を込めた。
「目撃者は」
「ルシアン殿下とイザベラさま。ルシアン殿下はカスパルに——つまり宰相に伝えた可能性が高いです」
「時間がない、ということだな」
「はい」
長い沈黙があった。
父が立ち上がった。窓辺に歩き、庭園を見下ろした。背中がセレスティアに向けられた。大きな背中。公爵の背中。
「セレスティア」
「はい」
「お前は三歳の時から、私の想像を超える子だった。母の薬のこと。内通者のこと。全て——三歳の子供には不可能な洞察だった」
「おとうさま——」
「理由は聞かない」
父が振り返った。
「お前がどうしてそれほどの知識を持っているのか。理由は聞かない。聞いても答えられないだろう。あるいは——答える準備ができていないだろう」
「私が知るべきは、事実だけだ。お前は聖魔力を持っている。宰相はそれを知りつつある。排除に動く可能性がある。それが事実だ」
「はい」
「そして——お前は、受け身ではいたくないのだろう」
「はい。もう守られるだけでは、間に合いません。宰相はいつまでも手を打ち続けます。こちらも——攻める必要があります」
「八歳の娘が攻勢に出る、と」
「八歳だから、できることがあります。子供だから、見えるものがあります。おとなには入れない場所に、わたしはいます」
父は黙って聞いていた。
「おとうさま。お願いがあります」
「言いなさい」
「家族会議を開いてください。おにいさまとフェリクスおにいさまも呼んで。わたしたち全員で——これからのことを話し合いたいです」
父の目が、一瞬だけ揺れた。
「……分かった。エドヴァルトに早馬を出す。フェリクスも呼ぶ。一週間後だ」
「ありがとうございます、おとうさま」
「礼を言うのは早い」
父が机に戻り、座った。
「セレスティア。一つだけ聞く」
「はい」
「お前は——この国で何を起こそうとしている」
何を起こそうとしている。
その問いに、セレスティアは正面から答えた。
「宰相の支配を終わらせます」
書斎が静まり返った。
父は長い間、娘の目を見つめていた。
そして——頷いた。
「分かった。手を貸そう」
それだけだった。
だが——娘が書斎を出る時、父の声が背中にかかった。
「セレスティア」
「はい」
「今夜は母と食事をしなさい。リリアーナが心配している」
その声だけが、公爵ではなく父の声だった。
◇
その夜。
母と夕食を摂った。リリアーナは体調が良く、食卓に着くことができた。毒が排除されてから五年。母の顔色はすっかり回復している。
「セレスティア。学園のお話を聞かせて」
「はい。フリーデリケちゃんっていうお友達がいて——」
花の話をした。お菓子の話をした。ヴィオレッタの花言葉の知識の話をした。リディアの故郷の海の話をした。
政治の話は一切しなかった。
母の前では、ただの八歳の女の子でいたかった。
母が微笑んだ。柔らかい、温かい微笑み。
食事の後、自室に戻った。窓の外に月が出ていた。学園から見る月と同じ月だが、ここから見ると少しだけ大きく感じた。
しばらくその月を見ていた。母と過ごした食卓の温かさが、手のひらにまだ残っていた。遠くで梟が鳴いた。灯りをゆっくり消した。




