再会、その先にある想い。
あの日と同じ上下黒の格好で、古びた倉庫の前に倒れているのは、屋上で見た彼だった。酔っ払いが寝ているのと思うのか、誰も彼に近づこうとしない。
「ちょっと、大丈夫?」
具合が悪いのかと思い、近づいて声をかける。
彼の服には血が滲んでいた。足元にも、いくつか赤黒い滴が落ちている。肩はわずかに上下しているので、とりあえず生きているようだ。
「ねぇ、ちょっと。救急車呼ぼうか」
「俺に、構うな」
彼は目を閉じたまま、低い声で言った。喋れるのなら、とりあえずは大丈夫みたいだ。こんな時、何をすればいいのか分からない。救急車を呼ぶべきなのは分かっている。でも、彼は「構うな」と言った。
とりあえず何かできることはないかと鞄を探り、ミネラルウォーターを取り出した。キャップを開けて口元に運ぶ。すると、素直に口を開けて飲んでくれた。
「あと、今はこれしかないけれど、飲んで。痛み止めだよ」
鞄の中にあった市販の解熱鎮痛剤も開いた口の中に押し込む。
彼の目がうっすらと開いた。
「お前は、あの時の……」
「とりあえずはこの鎮痛剤で我慢して。あなた、保険証とかも持っていなさそうだし。どこかに善意で治療してくれる医者とかいないの?」
「そんなものはいない。それよりも、何故、俺のことを助ける」
「あの時、死なせてくれなかったのに、あなたが死ぬのってズルいじゃん」
「俺は、絶対に死なない。こんなもの、かすり傷だ。すぐに治る」
彼はポケットから一本の鍵を取り出した。
「これでシャッター横のドアを開けろ」
彼が凭れかかっている倉庫を指さした。
「え? ここに住んでいるの?」
「そうだ。明かりのスイッチは入って左の壁」
これが家なの? どう見ても倉庫にしか見えない。それもかなり古い倉庫だ。鍵を受け取り、シャッター横の古びた鉄のドアの前に立った。錆びたドアノブに鍵穴らしきものがある。そこに鍵を差し込み、回すとカチリと音がした。
ドアノブをゆっくり回して重いドアを開く。倉庫内から、ムッとした熱気が押し寄せてきた。
彼はゆっくり立ち上がり、倉庫の中になだれ込んだ。私は慌ててスイッチを探し、照明をつけた。
建物の中も実に殺風景な倉庫だった。空気の密度が濃い。無造作に積み上げられたコンテナ、段ボール。パイプベッドが一つ、置かれてる。
「見た目ほどひどい怪我じゃない。すぐに治る」
彼はそう言ってベッドに転がった。彼の言う通り、既に出血は止まったようで、床に血は落ちていなかった。
「あなた、誰かに命を狙われているの?」
「おまえ、家はないのか。早く帰れ」
私の質問に答えるつもりはないらしい。仕方なく、彼の質問に答える。
「あるけれど、まともな家じゃないから……」
聞いて欲しいわけじゃなかった。なのに、気がつけば家のことを話していた。
「父親にはよく殴られてた。今はどこにいるのかも知らない」
そこで一度、言葉が止まった。
「母親と二人になってからも、殴られたり、ご飯をもらえなかったり……家に知らない男が来ることもあった」
こんなこと、誰にも話したことがない。
それでも私は、母親に愛されようとしていた。いい子にして、怒らせないようにして、それでも愛してもらえないなら、自分がもっと頑張ればいいと思っていた。
「でも、もう分かった。どんなに頑張っても、無理なものは無理なんだって」
名前さえ知らない相手に、何を話しているんだろう。
「私、ずっと親に愛されようとしてたんだよ」
「……」
「親の愛は無条件だっていうけど、違うと思う。子供の方が無条件なんだよ。殴られても、ご飯をもらえなくても、それでも親のことを嫌いになれなかった……」
彼は何も言わなかった。
「馬鹿みたいだよね。でも今は違う。だから、家には帰らない。それにさ、私より先にあなたが死んだら悔しいから。あなたが良くなるまで、ここにいる」
ひとしきり話した後、そう言い切ると「好きにしろ」とぶっきらぼうな声が返って来た。
気がつけば朝になっていた。窓から日差しが入っている。
「ここって、エアコンもないの? 暑くて死にそうだった」
古いタイプの扇風機が一つあるだけ、天井付近に空け放した窓がいくつかあるけれど、涼しいとか快適とかは程遠い。
「そういえば、あのあと大変だったんだよ。ニュース見た?」
「知らねぇな」
「死んだ人のお父さんが、TVに出ていたよ。あなたが殺した人、血まみれの姿をあちこちにアップされて、気の毒だった。だいたい、なんであんなことをしたの? 仕事って言ってたけど、殺し屋なの? どうしてもやらなきゃいけないの?」
「本当ならば、あの場所から飛び降りたおまえの死体が、見ず知らずの奴のスマホに収まって、あちこちに出回っていただろうな」
また私の質問に答えず、彼は言った。一呼吸おいて、彼は続ける。
「良かったな。無残な姿を晒さずにすんで」
「ちょっと! 良かったって何よ。こっちはね、散々悩んで、苦しんで、どうしようもなくて、あそこに行ったって言うのに!」
カッとなって声をあげる。
「何があっても生きろ。世の中には生きたくても、クズみたいな奴に無残に殺される人間だって存在するんだ。世の中は理不尽と絶望と矛盾で出来ている。それでも、生きろ。分かったか」
彼は冷静に、説き伏せるように、ゆっくりと口を開いた。
人を殺したあなたが生きろなんて、よく言うよと思った。おかしな人。あの時、一部始終を見たから口封じに殺されるかも、などと思っていた。けれども、どうやらこの人は、私を殺すつもりはないらしい。 おまけに、突き放すこともしない。私の生い立ちを黙って聞いて、生きろと言われた。
「じゃあ、これからもここに来てもいい? それならとりあえず生きる」
「変なガキだな。勝手にしろ」
「じゃあ、勝手にする。あ、そうだ。これ……この前の忘れ物」
ポケットに入っていた薬莢を取り出した。
「お前にやる」
「へ?」
「あの時、結局は死ななかったんだろう? これがあれば死なない。お守りだ」
彼は初めて、にやりと笑った。
「なにそれ、馬鹿馬鹿しい」
そう言いながらも、薬莢をポケットに戻した。
「ここに来るのは勝手だが、学校には行け」
「嫌だよ、あんな場所」
「全てのものには波動がある」
「はぁ? なに、波動って?」
彼が何を言いたいのか、意味不明だ。首を傾げる私をよそに彼は続ける。
「誹謗中傷を送る人間も、照明のライトも、この倉庫も、最終的には素粒子だ。そして素粒子には粒子としての性質だけじゃなく、波としての性質もある」
「へえ……」
「物理で習わなかったのか?」
「そんなこと習ったっけ?」
「じゃあ勉強しろ」
「……結局それ?」
「学校には行け」
「話が戻ってるじゃん。あのさ、波動って……全てのものには波があるってこと? それが共鳴したり、対立したりするの?」
「詳しいことは知らん。勉強しろ。学校は嫌いでもいい。でも知識は武器になる」
「うん、まぁ、そこまで言うならわかったよ」
本当に変わった殺し屋だ。
でも、もしも全てのものに波動があったなら、この人と私の波形は相反していないんじゃないかな。本当にそんなことがあるのかは知らないけれど、ただ、私はそう思いたかった。
それからは用事もないのに、彼の傍をウロウロしていた。いや、正確には学校が終わると、倉庫に行って時間を潰した。
彼は留守が多かったが、鍵の隠し場所を聞いていたので、勝手に掃除をしてみた。相変わらず暑かったけれど、転がっている段ボールの上に、教科書とノートを置いて宿題をしたり、本を読んだりもした。
ある日、掃除をしていると、一枚の写真を見つけた。彼が女の人と写っている写真だ。背景はどこにでもある普通の公園。女の人はキラキラした笑顔なのに、彼は相変わらずの無表情だ。いや、少しだけ嬉しそうにも見える。今より少し若い。
その時、ちょうど彼が帰って来た。
「お前、またいるのか」
私の姿を見て小さく溜息をついた。
「この女の人は誰? 家族?」
目の前に写真を突き出し、聞いた。
「俺が姉妹の写真を大切にしまっておくと思うのか」
「じゃあ、彼女……」
「そうだ」
「彼女……いるんだ」
そう声に出すと、何故だか、心がちくりと痛んだ。
「この世にはいない」
ぼそりと答えが返ってきた。
「亡くなったってこと?」
彼は何も答えない。私から、写真を奪い取って元の場所に返した。いつもそうだ。都合の悪いことは一切答えない。私はまだこの人の名前も知らないのだ。
居心地の悪い、気まずい空気が流れる。
その時、コンコンと控えめなノックがして、勝手にドアが開いた。
「相変わらずな生活だね」
入って来たのは、彼と同じ20代後半の男。彼は突然の来訪者に対して特に警戒する様子もない。
「この人、誰?」
私は怪訝な顔で聞いた。
「ああ、初めまして。僕は彼の友人です」
彼より先に、来訪者が口を開いた。
「ふぅん。あなたに友達がいるなんて驚いたよ」
絶対に友達なんていないと思っていた。
「ただの腐れ縁だ」
彼がぶっきらぼうに言うと
「幼馴染なんだ。こいつに女子高生の友達がいるなんて、思わなかったな」
友人は微笑んだ。冷徹な彼とは正反対の、陽だまりのような笑顔だった。
「何の用だ」
彼が鋭い目で睨みつけると、
「生存確認来ただけだよ。生きているなら問題ないな」
じゃあと言って、彼の友人は出て行った。




