この先にあるものは。
この気持ちを、恋だとか愛だとかは言いたくはないけれど、確実に彼が気になっていた。そうなると、やっぱり気になるのは彼女のこと。
彼がいない時、そっと写真を引っ張り出して何度も眺めた。私とは正反対の柔らかな笑顔。きっと、お似合いの二人だったんだろう。そう思うと、苦しくて、やりきれなくなった。
「ずるいよ。貴女はずっとそうやって、黙ったまま微笑んで。いつまでも想われ続けて」
写真に向かって呟いた。写真を持った手を大きく振りかぶった時、背後から声が聞こえた。
「おい、何をやっているんだ」
いつの間にか帰って来た、彼が背後に立っていた。
「だって、私があなたをどんなに想ったって、この人には敵わないんでしょ」
「は?」
「私はあなたが好きなの。でも、あなたはこれからもずっと、彼女を想い続けるんでしょ?」
彼は突然、そっと私を抱きしめた。行き場をなくした私の右手にはまだ、彼女が写った写真が握られている。
「これは、そのままにしておいてくれ。ケリがつくまでは」
彼は私の手からそっと写真を取って、元の場所に戻した。
「ケリって?」
「聞きたいか」
私から身体を話して、彼は静かに話し始めた。
彼の生い立ちは、決して恵まれたものでは無かった。
あれは彼が18歳の時、定時制の高校に通いながら、職を転々していた頃だった。彼には一つ年上の彼女がいた。
彼女の方も、裕福な暮らしとは無縁の生活で、アルバイトを掛け持ちしながら、奨学金をもらって大学に通っていた。
「最初に会ったのは、コンビニだった」
彼はそう言って、少しだけ目を伏せた。
「俺は客で、あいつは店員。別に、特別な出会いじゃない」
客に絡まれていた彼女を助けたこと。
それがきっかけで、少しずつ話すようになったこと。
彼女が深夜のアルバイトを終える日は、家まで送ったこと。
「あいつは大学に通っていた。奨学金をもらって、バイトを掛け持ちして……俺よりずっと真面目だった」
そこで、彼はほんの少し笑った。
都会の片隅で、ひっそりと生きてきた二人は、ひっそりと愛を育んでいた。
彼女のアルバイトが終わる時間には、いつも迎えに行った。
「別に頼まれたわけじゃない。俺が勝手に行っていただけだ」
そう言いながら、彼は少し笑った。
「あいつは、毎回『ありがとう』って言った。毎回だぞ。昨日も送ったのに、今日もありがとうって」
そんな彼女の話をする時だけ、彼の声は少しだけ柔らかかった。
事件が起きた日のことを、彼は何度も何度も思い返したという。
その日は、警備員のアルバイトが長引いた。
いつものように仕事が終わったら、彼女の働くコンビニへ行くつもりだった。
けれど、時計を見ると、いつもより遅い。
『アルバイトお疲れ様。疲れているきみに送ってもらうのは申し訳ないから、今日は一人で帰るね』
スマホに届いていた彼女からのメッセージには、そう書かれていた。
「俺は……それを見て、安心したんだ」
彼はそこで言葉を切った。
「いつも送ってたから、今日は一人でも大丈夫だと思った」
その夜、何度電話をかけても、彼女は出なかった。
それでも彼は、深刻には考えなかった。
大学のレポートでもやっているのだろうと思った。
「明日になれば、普通に会えると思ってた」
しかし翌日、彼女は近所の河川敷で発見された。変わり果てた姿だった。
彼女が亡くなった事実。発見された場所。詳しい状況。
けれど彼が覚えているのは、そんなことではなかった。
「あの日、俺が送っていれば……」
彼は俯いた。
「そればかり考えた」
彼女を殺害した犯人は程なく捕まった。
犯人は三人組の男。あの夜、車で彼女に近づきナンパをしたが、あっさりと断られたので、無理矢理車へと押し込んだという。そして、何の罪もない彼女を殺害して、遺棄した。
犯人は三人とも、当時はまだ未成年。
彼らは「殺すつもりはなかった」と主張し、殺人罪ではなく傷害致死で裁かれた。
犯人の身内が大金を払い、有能な弁護士をつけたこともあって、刑は彼が納得できるものではなかった。
そして、三人はそれぞれ社会へ戻っていった。
「やつらは飯を食って、友達と笑って……普通に生きてる」
彼の拳が、膝の上で強く握られた。
「あいつはもう、何もできないのに」
それ以上、彼は何も言わなかった。
私は、その手を見ていた。
指先が白くなるほど、強く握りしめられていた。
彼は、それから必死に働いた。
昼も夜も関係なく働いて、金を貯めた。
それだけでは足りなかった。
裏の世界に入り、銃の扱いを覚えた。
私が初めて会った時に、彼が撃ったのは犯人の一人だった。彼はあの事件に関わった三人全員を射殺するつもりらしい。すでに二人を射殺して、残るのはあと一人だという。
「あいつらに、あの時のことを思い出させてやる」
そう言った彼の顔には、怒りよりも疲労の方が強く見えた。
復讐だけを目標にして、何年も生きてきた人の顔だった。
「それが終わったら?」
私が聞くと、彼は黙った。
「……考えてない」
その答えを聞いた時、私は初めて気づいた。
彼には、復讐の先にある人生がなかった。
こんなことをしても、亡くなった彼女が喜ぶとは思えなかった。けれど、それを彼に伝えるのは、とても陳腐なような気がした。
「彼女を忘れてとは言わない。ううん、ずっと覚えていてあげて。でも、彼女を想うあなたを私が引き受けちゃダメかな」
「ガキが偉そうなことを言うな」
頭上から降ってくる低い声。
もう一度抱きしめられて、私の心臓の鼓動が、彼のそれとシンクロして伝わった。
もしも、私達を素粒子レベルまで細かくしたら、二人の波動は呼応して、波形は重なり合っているはず。
やっと見つけた、都会の中で見つけた、私の居場所。
彼となら生きて行けると思った。
数日後。
これが最後だと彼は言った。
「気を付けてね」
私に背を向けて、彼は軽く右手を上げた。
出かけたままの彼が、帰ってこない。胸騒ぎがした。彼の姿を探して街をうろつく。
ふと足を止め、街の中に設置された大型ビジョンを見上げると、ニュースが流れていた。
『事件現場近くの防犯カメラには、銃を持った男の姿が映っていました』
画面に粗い映像が映し出された。
黒い服。
大きなケース。
見間違えるはずがなかった。
彼だった。
『警察によりますと、男はライフル銃を所持しており、現場で別の男性と銃撃戦になったとみられています』
私は息を止めた。
『別の男性も銃を所持しており、何らかの理由で二人が撃ち合いになったものとみられています。二人はその場で死亡しました』
画面には、規制線の張られた路地が映し出された。
『警察では、死亡した二人の身元の確認を進めるとともに、事件の詳しい経緯を調べています』
私は大型ビジョンを見上げたまま、動けなかった。
最後の一人。
彼がずっと追い続けていた男。
彼の復讐は、終わっていた。
私は、とぼとぼと倉庫に戻った。翌日も、その翌日も彼は戻って来なかった。
あの日、私に背を向けて、彼は軽く右手を上げた。あれが、彼の最期の姿だった。
ここにずっといるわけにもいかない。結局、あの家に帰るしかないのか……。私の人生は振出しに戻った。あの地獄のような日に戻るくらいなら、死んだほうがましだ。
『おまえは生きろ』
いるはずのない、彼の声が耳を掠めた。
私を置いて先に逝ったのに。ずるいよ。私にだけ生きろだなんて。無理だよ。一人でどうしろって言うのよ。
でも、もしも私が死んだら、誰が彼を思い出すのだろう。たまに見せた、不器用な笑顔を誰が思い出すのだろう。きっと、私しか知らない彼の姿があるはず。それを思い出せるのは私だけだ。
途方に暮れていると、開くはずのないドアが、ガチャリと開いた。
「こんにちは。また会いましたね。ここにいると思いました」
入って来たのは、以前に会った彼の友人。戸惑う私をよそに彼は続けた。
「あいつから伝言を預かっています。『何があっても生きろ。他人がもっと優しかったらとか、環境が違っていたらとか、どうにもならないことを嘆くよりも、現実を受け入れて、ただ前に進め』と。あいつはこうなることが分かっていたようだ。まぁ、あれだけの事件を起こしたのですから、仕方がない。同情するべき点はありますけど」
目の前にいる男は、彼が犯した罪や事情も全て知っているような口ぶりだった。
「あの、彼の名前。まだ聞いていなかったんです。教えてもらえませんか?」
彼は「僕からは言わない方が良いですね」と言った。
「え?」
「あいつらしいです。きっと、敢えて言わなかったんじゃないですか。あいつが、キミに思い出して欲しいのは、名前じゃなくて、生きざまなんですよ。ああ、それと、もう一つ頼まれたことがあります。あなたの身元は僕が引き受ける。それがあいつとの約束ですから」
「え?」
「僕についてきてもらえますか。準備はすべて整っています」
ポケットの中で、空の薬莢がカサリと音を立てた。私の世界が終わる時はきっと、寿命を全うした時だ。
どんなに苦しくても、ただ、生きろ。約束も、希望も、目標もなくても、お前が生まれてきた意味は、きっとある。ポケットの中でお守りがそう告げた。
了




