第65話 防衛戦
魔物の軍勢が、ついに進軍の速度を上げた。
無数の醜悪な咆哮が重なり合い、大地を激しく震わせる。
先頭を走るのは、巨大な棍棒や錆びついた大斧を振りかざしたオークたちだった。その後ろからは、ゴブリンや狼に似た獣型の魔物が、我先にと押し寄せてくる。
そこに陣形も隊列もなかった。
ただ、人間の要塞を喰らい尽くそうとする飢えと殺意だけが、無数の魔物を前へ進ませていた。
「来ますッ!」
城壁の上で、守備兵の誰かが叫ぶ。
兵士たちは弓を握り締め、震える指で矢をつがえた。投石用の石を抱えた者たちも、迫り来る黒い波から目を離せない。
しかしカレンは、まだ手を上げなかった。
「……まだですよ。撃たないで。」
よく通る声が、城壁の上に張り詰めた空気を切り裂く。
「敵を空堀へ引きつけます。弓も石も、今は温存してください。」
「ですが、あの数が押し寄せれば……!」
フローレンスが息を呑みながら言う。
カレンは眼下の地形を見つめたまま、短く答えた。
「大丈夫です。今、撃てば火計が台無しになります。」
魔物の先頭集団が、要塞の正面まで迫る。
やがて最前列のオークたちは、進路を横切る巨大な空堀に気づいた。
そこで、足が止まった。
だが、ここを越えなければ要塞を攻略することは叶わない。
「グオオオッ!!」
停止していた魔物たちは、自らを鼓舞するかのように大きな咆哮を上げながらなだれ込んでいく。
この空堀の構造には仕掛けがあった。
北側、魔物が入る方の傾斜は比較的になだらかで進入しやすくなっており、南側は急勾配で登りにくい出口だった。
入りやすく出にくい。
押し寄せる群れの中、前列が越えるのに四苦八苦し、後続が詰まり堀の中は大渋滞となった。
苛立ちを含んだ甲高い『ギャアッ!』という叫声と、混乱した巨獣の『グルォオオ!』という重い咆哮が複雑に絡み合う。
互いを踏みつけ、押し合いながら上げる濁った不協和音は、もはや狂った獣たちの阿鼻叫喚そのものだった。
さらに後方から押し寄せる魔物たちが、立ち止まろうとする前列を背中から押し込んでいく。
空堀は、瞬く間に叫声と怒号で埋め尽くされていく。
「今ですか!?」
術戦士隊の一人が、カレンへ声を上げる。
だが、カレンは首を横に振った。
「まだです。もう少し引きつけたい。」
兵士たちの顔から血の気が引く。
空堀の中では、すでに何十体もの魔物が身動きを取れなくしていた。しかし、その後ろからは、なおも無数の魔物が堀へなだれ込んでくる。
やがて、堀の底に敷き詰められた枯れ草と薪が、魔物たちの身体でほとんど見えなくなった。
カレンはその瞬間を見逃さなかった。
「……今です。」
彼女は城壁の端に待機していた術戦士隊へ向き直る。
「空堀に火を放ってください。」
「はっ!」
術戦士たちが両手を掲げた。
次の瞬間、数発の火球が朝の空気を裂いて飛んでいく。
火球は堀の底へ落ち、松脂を塗り込んだ薪へ触れた。
——ボウッ!!
低い唸りとともに、炎が走る。
枯れ草を一瞬で呑み込み、松脂を塗った薪へ燃え移った火は、空堀の底から爆発するように広がっていった。
「ギャアアアアッ!!」
炎に包まれた魔物たちが絶叫する。
堀の中で折り重なっていた魔物たちは逃げ場を失い、燃え上がる仲間を踏み越えようともがいた。しかし、後ろから押し寄せる群れがその動きを妨げ、火勢はさらに大きくなっていく。
黒い煙と肉の焼ける臭いが、城壁の上まで届いた。
守備兵たちは、自らが五日間かけて掘り、薪を運び、松脂を塗り込んだ空堀を見つめていた。
赤黒い火柱は、王都へ向かう魔物の軍勢の前に、初めて立ちはだかる壁となっていた。
カレンは燃え盛る堀を見据え、次の命令を待つ兵士たちへ告げる。
「ここからです。持ち場を離れないでください。」
だが、炎が空堀の全てを覆うよりも早く、何体かの魔物が内側の斜面へ取り付いていた。
焼け焦げた身体を引きずりながら、獣型の魔物が堀をなんとか登ってくる。
「ギャアアアアッ!!」
その先に待ち受けていた黒い鉄条網へ、魔物は勢いのまま飛び込んだ。
鋭い棘が肉へ食い込み、獣型の魔物は激しく暴れながら網へ絡め取られる。
後続のゴブリンたちも、逃げ場を失ってその背へ折り重なった。
さらに後ろから現れたオークが、鉄条網ごと仲間を押し潰す。
絡みついた網と仲間の背を踏み台に、ようやく網を越えた巨体の前には、丸太柵が立ち塞がっていた。
オークは怒りに任せて棍棒を振り下ろす。
だが、丸太柵はびくともしない。
鉄条網に絡まり、丸太柵に阻まれ、空堀からは炎が噴き上がる。
それでも魔物たちは押し寄せる。
だが、その進軍速度は明らかに鈍っていた。
目の前の要塞は、もはや力任せに押し通せる場所ではなかった。
足止めされた魔物たちを見下ろし、フローレンスは驚きに目を見開いた。
「なんだ……これは!? いったい、どこで学んでこられたのですか!?」
カレンは額の汗を手の甲で拭った。
「……必死で考えながらやっています。陸曹教育隊では魔物との戦い方までは教えてもらえませんので……。」




