第5話 北の山2
濃霧の向こう側から、空気を直接引き裂くような咆哮が響き渡る。
次の瞬間、白い霧を切り裂いて『地獄の猟犬』が音もなく躍り出た。牛ほどもある巨躯の黒い獣。赤く濁った瞳、口元から滴り落ちる粘着質の唾液、そして剥き出しになったナイフのような牙――まさに地獄の名の通り、殺意の塊のような魔獣だった。
その魔獣が迷うことなく、無防備に立つ魔王の背後を目がけて飛びかかっていく。
「きゃあっ!? 来たわ! あなた、危ない!!」
シャロンは悲鳴に近い叫び声を上げると同時に、身体を翻して一直線に駆け出した。反射的に白銀の聖剣を振り抜き、空中から襲いかかってきた魔獣の側面へと斬りつける。
「はああああっ!!」
ガキンッ、と肉と金属が激しくぶつかり合う重い衝撃音が森に響く。
『地獄の猟犬』の巨体から繰り出される凄まじい圧力に押し戻されそうになりながらも、シャロンは必死に刃を押し返し、剣の柄を固く握りしめた。
「……くっ、なんて馬鹿力なの……! 下がって!! 私が……私が食い止めるから!!」
しかし、当の魔王は逃げる素振りすら見せず、静かに立ったまま微動だにしない。
「ちょっと、何してるのよ!? 下がれって言ってるじゃない!!」
襲い来る魔獣の爪撃を剣の腹で受け止めながら、動こうともしない魔王の佇まいに、シャロンは半ば絶望に近い叫びを上げる。
「危ないわ、早く! 早く私の後ろに下がって!!」
目前で繰り広げられる命懸けの死闘。シャロンは息を荒らげながら必死に猛攻を弾き返しているが、すぐ背後に立つ男の緊張感のない立ち姿に対し、恐怖と激しい苛立ちが入り混じった感情が爆発しそうになっていた。
だが、魔王の視線は眼前で戦うシャロンや魔獣ではなく、さらに深い森の奥へと向けられていた。
「……まだ来るぞ。」
「え……!?」
次の瞬間、森の奥からさらなる不気味な咆哮が響き渡った。ズズ……と地響きのような振動が足元の土を揺らす。霧を破り、もう一頭の同質の『地獄の猟犬』が、目を血走らせて猛スピードで走り込んできたのだ。
一頭だけでもギリギリの拮抗状態だというのに、さらにもう一頭。
まさに、絶体絶命。
それでもシャロンは歯を食いしばり、聖剣を強く握り直すと、新たに迫りくる巨大な影を睨みつけた。
「……っ! 分かったわよ……! 来るなら、まとめて相手になってやるわ!!」




