1-7 ホローム村(第1章エピローグ)
夜明け前の空は、まだ群青を残していた。
村を焼いていた炎はようやく勢いを失い、崩れた家々の隙間から細い煙が立ちのぼっている。
焦げた木の匂い、湿った土の匂い、そして、戦いの残り香のように漂う、薄墨色の靄。
広場の中央で、トウジは深くしゃがみ込んでいた。
肩が上下する。四日四晩、魔物の首魁と斬り結んでも息一つ上がらなかった身体が、わずか数時間のことで音を上げていた。肺が焼けるように熱い。身体の奥から、悲鳴が滲み出していた。
どくり。どくり。
心臓とは違う鼓動が、身体の内側で脈打っている。
左手へ視線を落とす。
いつの間にか、腕に数条の黒い筋が浮かび、わずかに熱をもって淡く疼いている。
指先でそっと触れる。こすってみたが、もちろん消えなかった。
脳裏に焼きついて離れないあの光景が思い浮かぶ。
左腕の疼きを感じたあの時――泡立ち、渦巻く薄墨色、己の周囲に生まれた瘴気、眷属たちから噴き出した瘴気を、喰らうように飲み込んでいった黒い奔流。
夢じゃない。幻でもなかった。
そして訪れた、空白。
気づいたときには、あれほど満ちていた瘴気が消えていた。
……いったい何が起きた?
「トウジ」
顔をあげると、エストが駆け寄ってくるところだった。
甲冑にはいくつもの傷が走り、額には煤がついている。
それでも、その瞳にははっきりと安堵の色が浮かんでいた。
「無事で……」
そこで言葉が途切れる。
泣きそうになるのを、必死にこらえているように見えた。
彼女の視線がトウジをすり抜け、背後へ向かう。背中越しに、時折しゃくりあげるような声が聞こえた。助かった幼い女の子は、まだ泣き止んでいないようだった。
エストは小さく頭を振った。
それから、そっと笑みを作る。
少しだけ無理をしたような、けれど優しい笑顔だった。
「……よかった」
唇からこぼれた声は、消え入りそうに小さい。
ほんの少しだけ、涙声にも聞こえた。
「――縮地、使えるんならもっと早く教えとけや!」
どん、と背中に衝撃が走った。
「うおっ!?」
振り向くより先に、太い腕が肩へ回される。
オルドだった。
豪快に笑いながら、残った片手で頭をぐしゃぐしゃとかき回す。
「俺様を驚かせたバツは高くつくぜ!? 心臓止まるかと思ったわ!」
「……しゅく、ち?」
「なんですか、って顔すんな! そりゃこっちのセリフだ!」
口調は荒い。
だが肩を叩く手つきは、ひどく優しかった。
生きていることを確かめるように。
ゆっくりと足音が近づいてくる。
聖騎士たちへ次々と指示を飛ばしながら、足取りは重そうだった。
エストが静かに脇へ退く。
老師はトウジの目の前で立ち止まると、トウジの左腕へ視線を落とし、わずかに目を細める。
「……トウジ」
低い声が落ちる。
「わしは、おぬしを見誤っておったのかもしれぬ」
「え……?」
いったいなんのことだかわからなかった。
エストが、怪訝な表情をしており、オルドは、ムスッとした顔だ。
問い返そうとした。
が、広場に響き渡る先ぶれの声に阻まれた。
「――総司令閣下が到着されます!」
オルドの手を借りながら、なんとか立ち上がる。あたりに散っていた聖騎士達も三々五々、後ろで整列し始めた。
村の入口から、甲冑の擦れる音と統制の取れた足音が近づいてくる。
朝靄を割って現れたのは、重装の騎士たちを従えた一団だった。
先頭に立つ男は、白銀の外套を翻している。
貴族然とした柔和な表情はそのままに、背筋は槍のように真っ直ぐで、踏み込む一歩ごとに場の空気が張り詰めていく。
「ヴァルグレイ殿、お疲れ様でした。首尾よく運ばれたようで、なによりです。で、状況は?」
低く、よく通る声だった。
老師が軽くうなずくと、後ろに控えていた聖騎士の一人が前へ進み出る。
「眷属を主体とする魔物の一団は討伐完了。村は制圧済みですが、建物の損壊、負傷者多数。死人は出ておりません。瘴気は……既に浄化済み。当方の損害は軽微。」
総司令の鋭い視線が、焼け跡を一巡する。
負傷者、救助された村人たち、崩れた建物、そして広場の中央にいるトウジたち。
「……上出来の部類ですかな。」
短い言葉だった。
周囲の聖騎士たちの肩から緊張が抜けていくのがわかった。
「以後、この場は我々が引き継ぐ」
総司令が背後の幕僚たちへ視線を送る。
「負傷者の搬送。周辺警戒。残留瘴気の確認を怠るな」
「はっ!」
総司令の後ろに控えていた騎士たちが一斉に散っていく。
総司令は、トウジ達をぐるりと見渡し、にこやかな表情で呼ばわった。
「死者を出さぬ戦いぶり、まことに見事である。大義であった!」
張り詰めていた空気が、ようやくほどけていく。
前線を張った聖騎士たちが帰営の準備をしている。エストも当然そちらに加わり、老師は、幕僚とその祐筆たちに質問攻めにあっていた。
とりあえず、終わった。
首魁の討伐戦からほぼ一週間、闘いづくめだった。しかも、異例のことが多く起こりすぎて、考えるのを止めたくなる。
夜明けの光が、焼け跡をゆっくりと照らし始める。
トウジは深く息を吐いた。
身体はまだだるいが、立っていられないほどではなくなっていた。
「無茶しすぎなんだよ。またぶっ倒れるじゃねーだろうな?」
オルドの呆れた笑い声。
「本営までまた担いでいってくれますか?」
手を差し伸べてみると、オルドはその仕草を見なかったようにクルリと背を向けた。
「甘えんじゃねぇ……」
「ケチなんだから」
「トウジ」
「はい?」
「後でちょっと、話、しようぜ」
オルドらしいな、と思った。
「……はい」
見上げた大きなオルドの背中。その向こうで、朝日が昇りはじめた。
目に差し込む朝日は眩しかった。
それでも左腕の疼きは消えなかった。




