表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/54

2-1 聖騎士

 トウジは村の広場の端に座っていた。


 短い時間だったが、本営への帰還前に数刻の仮眠を取って、さきほど起きたところだった。


 崩れた石垣の残骸に背を預け、ぼんやりと空を見上げる。夜は、もう完全に明けきって、午前中の光が辺りを照らしている。柔らかな斜光が無残な広場の様子を際立たせ、未明のできごとを思い出せた。


 空気は冷たい。


 広場では、エルン王国騎士団が動いていた。戦闘の事後処理だろう、淡々と――だが、どこか張り詰めた空気がまだ残っている。


 その向こうで、村人たちが少しずつ戻り始めていた。


 南の森へ避難していた者たちだろう。慣れない場所で夜を明かし、不安と寒さに耐えていた顔が見える。


 家の前に立ち尽くす老人、崩れた屋台を黙って見つめる男、子どもの手を引いて、焼け跡を歩く女。


 誰も泣いていないのは、泣く気力すら残っていないのか。あるいは、まだ現実が心に追いついていないのか。


 トウジは、その光景を黙って見ていた。


 胸の奥に、小さな安堵がある。村人たちを見ていると、胸の奥が少し軽くなる。ただ、それだけで十分だと思いたいのに、心の底に別の感触が沈んでいた。


 視線を落とす。


 左腕。


 あれから、まだそこにある、皮膚の下を這うように走る数条の黒い筋。細い血管のようにも見えるが、色はあまりにも濃い――まるで墨を流し込まれたような黒。今も、かすかに脈打っている。


 とくり、とくり。


 心臓の鼓動とは、微妙に拍がずれている。


 指先でそっと触れてみる。痛みはない、熱もなくなっている、腫れもない。だが、確かにそこにある。消えない。夢ではなかった。


 昨夜、自分の中で何かが変わった。


 その証、なのだろうか。


 ――喰っていた。ふいに、昨夜の光景が脳裏によみがえる。


 黒い靄、瘴気――それが自分の周りに沸き、渦を巻き、瘴気が瘴気を飲み込んでいった。あれは本能だった。飢えにも似た衝動。そして魔物達の恐怖。怯え。怒り。断末魔。それらが一瞬だけ自分の中を通り過ぎていった。


 あれは一体なんだったのだろうか……。思い出した瞬間、胸の奥が不意にざわつく。


 無意識に、左手を握りしめ胸に当てていた。


「はぁ……」


 吹っ切れぬ思いを吐き出し、顔をあげた。


 広場の中に、見覚えのある姿が映った。


 昨夜の母娘だった。


 母親は両手に荷物を抱え、娘は母親の服の裾を握りしめながら、慎重な足取りで広場を横切っている。崩れた荷車を避け、黒ずんだ地面を踏まないように。一歩ずつ、丁寧に。娘の方はまだ眠そうだった。

 目をしょぼつかせ、母親の裾をぎゅっと掴んでいる。昨夜の怯えきっていた顔とは少し違う。


 それを見ただけで、胸の奥が少し鎮まってくる。


 母親がトウジに気づいた。一瞬、足が止まる。それから、深く頭を下げた。


 言葉はない。


 娘が顔を上げた。眠たげな目が、こちらを見つめ、そして無表情のまま、小さく手を振った。トウジは思わず口元を緩めた。


 小さく手を振り返す。


 娘はすぐに視線を逸らし、あくびをひとつして、母親と一緒にまた歩きはじめた。


 二人の背中が路地の向こうへ消えていく。


 その姿を見送りながら、トウジは息を小さく吐いた。


 守れた……んだな。


 胸の奥のざわつきは、ほとんど無くなっていた。


「少しいいだろうか?」


 不意に声がした。


 振り向く。


 総司令へ復命していた聖騎士の人だった。整った鎧姿に、鋭い目。


 おそらく、この場の聖騎士の中では最も位の高い人物なのだろう。


 男は何かを言いかけて、口を閉じた。


 視線が、トウジの左腕へ落ちる。


 言葉を選んでいる。いや、選びきれずにいる。


 そんな沈黙だった。


「ロアン」


 聞き慣れた声が割って入った。


 エストだ。


「お話し中すみません。帰営の準備が整い、全員待機しております。最終点呼をお願いします」


「あぁ、そうだったな。すまん。また改めて」


 ロアンは短く言い残し、足早に去っていった。


 鎧の擦れる音が遠ざかる。


「誰?」


 トウジが問うと、エストは視線をロアンの背に向けたまま答えた。


「小隊長の一人です。私の同僚ですね」


「エストぐらいできる人?」


 少し冗談めかして言うと、エストは小さく息を漏らした。


「先任ですし、私以上ですよ」


 その声音は淡々としている。


 だが、どこか言葉を選んでいる気配があった。


「なんだったんだろうね?」


「……さぁ」


「敵意はなさそうだったけど」


「あった方が良かったですか?」


「わかりやすいよね」


 トウジが肩をすくめる。


 エストは一瞬だけ、目を細めた。


「聖騎士にとって、瘴気は払うものです。浄化すべきものです」


 静かな声だった。


「それを操る者がいるとしたら……どう受け取るべきか、判断をしなければなりません」


 朝の冷気より、その言葉の方が少し冷たく感じた。


「エストは?」


 問い返す。


 エストがこちらを見る。


 琥珀色の瞳が、真っ直ぐだった。


「私は」


 一拍。


 ほんのわずかな沈黙。


 けれど、その間に迷いはなかった。


「もう決めてます」


 それだけ言って、エストは踵を返した。


「そろそろ出立します。準備をお願いします」


 足音が遠ざかっていく。


 甲冑の音が、朝の空気に溶けていく。


 トウジは、その背を見つめたまま動けなかった。


 もう決めている。その言葉の意味を、聞けなかった。聞くのが、少し怖かった。


 左腕の黒い筋が、また小さく脈打った。


 とくり。


 朝の静けさの中で、その音だけがやけに大きく響いた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ