063 大海嘯地帯 その6
樹皮の魔物は、どす黒い瘴気の中に立っていた。
上半身をゆらり、ゆらりと揺らしている。
胸に穿たれた大穴。その奥で赤黒い魔核が脈打つように明滅していた。
周囲では魔物達が現れ、その咆哮と地響き絶えない。だが、不思議なことに樹皮の魔物の近くだけは静かだった。
他の魔物は一匹も近付こうとしない。まるで何かを恐れているかのように。
トウジはその前まで歩み寄る。襟元から妖精が半分だけ顔を出し、恐る恐る巨大な魔物を見上げている。
樹皮の魔物は動かない。ただこちらを見ていた。頭巾に覆われている顔からは、瘴気が流れ出していた。
「おまえ、いったいなんなの?」 トウジが問う。その声には一抹の憐憫が含まれていた。
左胸が脈打つ。魔核が明滅する。
どくん。守れ。どくん。守れ。どくん。守れ。
「……そればっかじゃん」 思わず呟く。
そのつぶやきを拾ったのか、魔核が大きく揺らいだ。
懐の妖精が身じろぎしたのがわかった。視界が歪む。世界が軋む。
「――っ?」
巨大な門。その向こうで街が燃えている。
炎が辺り一面に広がっていた。夜空を焦がすほどの業火が乱舞していた。
城壁はすでに崩れ、建物が今にも焼け落ちそうになっている。
人々が逃げ惑う。泣き声、怒号、悲鳴。そこでは阿鼻叫喚が繰り広げられていた。
巨大な門扉を閉めようと何人もの人影が必死に押していた。
閉じろ。早く。間に合え。必死になった叫びが聞こえる。
門の前にいた人々が一斉に顔色を変えた。
誰かが叫ぶ。
何を言ったのかは聞き取れない。だが、恐怖だけは伝わってきた。
全員がトウジの向こうを見ている。
振り返ると、黒々とした瘴気の奔流が、辺りを覆いつくす勢いで、全てを呑み込みながら迫ってきていた。
左胸の奥が締め付けられる。それは恐怖ではなく――絶望。
成す術がなく、抗いようもなく、ただ守れなかったという感情だけが、トウジの頭の中に流れ込み続けてくる。
どくん。再び魔核が脈打った。
守れ――。
その思念は、何百年に渡って積りに積もった怨嗟を込めて、辺り一面の草原に響き渡った。
イリスの顔色が変わった。
「瘴気が!」 思わず悲鳴のような声が漏れる。エストが即座に振り向いた。
「どうしました?!」
イリスは精霊網へ意識を集中させたまま答える。
「わからない!」「わからない?」「瘴気は増えてないの!」
焦ったように首を振る。
「でも中が変!」「中?」「魔素が……違う!」
言葉にできないのがもどかしい。だが確かに感じる。
瘴気そのものは増えていない。なのに、瘴気の内部で何かが膨れ上がっている。
熱を持つように、圧力を増すように、大地の下で巨大な何かが目覚めようとしているかのようだった。
トウジと樹皮の魔物がいる場所を中心に、その領域がじわじわと広がっていく。
精霊達が落ち着きを失い始めていた。妖精達も怯えている。
「こんなの初めて……」 イリスの声が震える。 「どうなるの?」
誰も答えを持ち合わせていないだろう。ただ一つ、それは良くないことだけはわかった。
「……あれ?」 イリスが顔を上げる。
精霊網の端。探知範囲のぎりぎりのずっと気になっていた線。
瘴気の濃い大地の中に、不自然なほど真っ直ぐ伸びる瘴気の薄い帯。それが今ははっきりとこちらへ向かってきていた。それも、驚くほど速く。
「なに……これ?」 これも理解できない。
何者かが、強引に道を切り開いてこちらへ向かっている。
その間にも状況は悪化していた。
隊商周辺へ取り付いた魔物達が一斉に荒れ狂い始める。
狼型が吠え、猪型が地面を抉り、昆虫型が羽音を狂乱状態で響かせる。
「押し返せ!」 グロザの怒号が響き、巨大なバルディッシュが唸りを上げる。
数体の魔物がまとめて吹き飛ぶ。
ザルグも大剣を振るう。「どけぇぇっ!」
樹皮や甲殻が砕け散る。
それでも減らない。倒した先から押し寄せてくる。むしろ増えているようにすら見えた。
瘴気の圧が高まるにつれ、魔物達の動きは明らかに狂暴さを増していた。
ただ殺意だけを撒き散らしている。
すでに戦える傭兵全員を前線に投入し終わっている。予備兵力はゼロ。
エストは静かに息を吐いた。そして腰の剣を抜く。
白銀の刃が陽光を受けて輝いた。
「エスト?」 イリスが振り向く。
「ここを離れます」 その声は落ち着いていた。
エストは隊商の最前列へ向かって歩き出す。
「イリス」「う、うん」「異変があったらすぐ教えてください」「わかった!」
エストは頷き、隊商間際まで迫っていた狼型へ視線を向けた。
剣をフォム・タークに構え、 「ここから先は通しません」 そう宣言した。
トウジは辺りを見回した。胸元にいる妖精の怯えが手に取るように感じられる。
瘴気の圧が上がっている。目には見えないが、大気そのものが重くなっていた。
草が震え、瘴気が揺れる。樹皮の魔物の胸で赤黒い魔核が脈打つ。
どくん。どくん。どくん。守れ。守れ。守れ。
相変わらずそればかりだった。
トウジは小さく息を吐く。そして少しだけ困ったような顔をした。
「おまえが何かを守ろうとしてるのはわかるけどさ」
妖精を見る。
震えている。それでも逃げないでここにいる。
――その向こう。精霊網の先にいるイリス。さらにその先。戦っているグロザ、ザルグ、そしてエスト。さらには、傭兵団、隊商の人達やアイラ村の里親様、カリンや子供達の顔まで浮かんできた。
守れ。守れ。その声が一瞬だけ途切れる。
樹皮の魔物が揺らいだ。まるでトウジの言葉を聞いたように。
「俺にだって」 トウジは樹皮の魔物を見上げる。
「守りたいものはあるんだよ」
返事はない。
その巨大な身体から溢れ出る瘴気だけが強くなる。
守れ。守れ。守れ。
もはや祈りだった。執着だった。呪いだった。何百年も繰り返された後悔だった。
トウジは苦笑する。
「うん」
ゆっくりと頷く。
「ありがとう」
その言葉は樹皮の魔物へ向けたものだった。
守ろうとしたこと、戦ったこと、諦めなかったことを否定はしない。
でも、終わらせなければならない。――でも、どうやって……。
「……あ……そうか」
今ならできる気がした。
――とくん。
左胸の奥に鼓動が打ち、わずかに遅れて左腕が脈を打つ。黒い筋が灼けるように熱を帯びた。
剣を収め、代わりに左手を前へ伸ばす。
樹皮の魔物のぽっかりと開いた胸、赤黒い魔核へ向けて、掴み取るように。
左腕の黒い筋が淡く黒く光る。どこまでも深い闇のような光の粒が腕を走った。
パチン――。
弾けるような音と共に、トウジの周囲で瘴気が膨らみ渦を巻いた。
トウジの作り出した瘴気の渦に向かって風が吹き始める。
樹皮の魔物から溢れ出していたどす黒い瘴気が、まるで帰る場所を見つけたかのようにトウジへ向かって集まり始め、草原が一斉にトウジへなびき、その上に広がっていた瘴気そのものが、吸い寄せられるように流れ始めた。
樹皮の魔物の魔核が激しく明滅する。
その巨体が初めて揺らいだ。
一歩、後ずさる。
表情のないはずのその顔に、驚愕の色が浮かんだように見えた。
「えっ!?」 イリスは思わず声を上げた。
高まっていた瘴気の圧が急激に下がっていくだけでなく、瘴気の流向が反転していた。これまで周囲へ拡散していた瘴気が、今は樹皮の魔物とトウジがいる場所へ向かって吸い寄せられている。
「なによこれ!?」
トウジいるあたりの瘴気は、渦を巻きながら激しく揺らいでいるのがわかる。
精霊達が怯えて逃げ回る。妖精達が騒ぐ。
理解できない。
こんな現象は見たことがなかった。
「もうっ!」
思わず頭を抱える。
「なんなのよトウジ!」
グロザも異変を感じていた。
振り下ろしたバルディッシュが狼型を吹き飛ばす。
「……あ?」
魔物達の様子がおかしい。先程までの狂気が薄れている。
牙を剥き、血走った目で襲い掛かってきていた連中が、どこか落ち着きを失っていた。戸惑っている風にすら見える。――どういうことだ?
キラリ。
遠く、地平線の向こうに銀色の光が瞬いた。
ひとつ。ふたつ。いや、複数。やけに小さい。だが、それは見間違えようがないものだった。
「……奴らか」
グロザが大きく息を吐く。肩の力が少しだけ抜けた。
「ザルグ!」「あぁ!?」
大剣を振り回しながら副団長が怒鳴り返す。
「もうひと踏ん張りだ!」「あ?」
ザルグが振り返る。グロザがニヤリとしながら指差した先をみる。
遠くに銀色が動いていた。
「あぁ……」
ようやく理解した。
「そういうことか」 ニヤリと笑う。「石頭ども、遅ぇじゃねぇか」
エストもまた異変に気付いていた。
目の前の猪型を切り伏せ、返す刃で昆虫型を牽制する。
途中で、瘴気が変わった。戦場そのものが変質していったのが分かった。
そして真っ先に思い浮かんだのは。
「トウジ……」
またなにか無茶をしたんじゃ……。
確信はなかったが、そう思えてならなかった。
バンッ!
遠方から乾いた破裂音。
バンッ! バンッ! バンッ!
同じような音が連続して鳴り響く。
何かが空を裂いて飛んでくる。やがて甲高い飛翔音が聞こえ、それが大きくなり……。
戦場の各所で爆発が一斉に起こった。
土が舞う。瘴気が吹き飛ぶ。魔物達がまとめて吹き飛ばされる。
「なっ!?」
イリスが目を見開く。エストも振り返った。
爆煙の向こう、薄れた瘴気の中へ草原をかき分けた銀色の鎧が何体も駆けてくる。
影は小柄だが、速度は凄まじい。
「ドワーフ……?」
エストが呟く、と間もなく、銀色の一団が戦場へ雪崩れ込んだ。
「押し返せぇぇぇぇ!」 「おぉぉぉ!」
怒号が響き、戦斧がうなり、槌が空気を圧縮した。
ドワーフ自慢の弩砲が火を噴き、爆ぜた光の中で魔物が吹き飛んでいく。
それは鋼鉄の急流となって、瞬く間に魔物の絨毯を折りたたんでいった。
「ええええっ!?」
イリスが素っ頓狂な声を上げる。
エストもさすがに驚きを隠せない。
グロザは肩を竦めた。
「ったくよぉ」 バルディッシュを振り抜く。「いいとこ持っていかれっちまうな」
ザルグも豪快に笑った。
「ちょうど腹が減ってきたところだったぜ」
戦場に、新たな戦力が到着した。
トウジの周囲で瘴気が渦巻いていた。
荒ぶり蛇行する、黒い奔流。
意思を持った獣の群れのごとく樹皮の魔物から溢れ出す瘴気へ喰らいつき、呑み込み、引き裂いて、喰い散らかす。
樹皮の魔物は動かない。いや、動けなかった。
ただ、トウジだけを見ていた。魅入られたようにその場に立ち尽くしている。
トウジはゆっくりと歩く。
一歩、また一歩。距離が縮まる。
樹皮の魔物の胸で魔核が明滅を繰り返す。
守れ。守れ。守れ。
しかし、その思念も次第に弱くなっていく。
トウジは立ち止まった。
魔核まであと数歩のところで左手を宙に掲げ、樹皮の魔物を見上げた。
トウジの瘴気が左手を伝い、巨体の周りを下から上へと駆け巡っていく。
一抹の逡巡の後、樹皮の魔物は片膝を付き、トウジに深く跪いた。
それは、トウジの手に自らの魔核を委ねているようだった。
「うん、わかった」 トウジは頷く。「もう大丈夫だから」
トウジはそう告げると、左手で剣を抜き、魔核へ軽く当てた。
ぱきり。
小さな音を立て、元々ひび割れていた魔核は光を伴いながら崩れていく。
それから間もなくして、樹皮の魔物の巨体もまた、輪郭からほどけるように光へ変わった。
樹皮が崩れ、長袍が風に散る。どす黒い瘴気さえも淡い光へ変わり、草原へ溶けていった。
やがて最後の光が消える。
トウジの周囲で渦巻いていた瘴気も、いつの間にか静まり、魔素へと静かに戻っていった。
――さわりと、草を揺らす風の音だけが、その場に残った。




