7-6 大海嘯地帯 その4
それは初めての体験だった。
風が顔にぶつかる。飛んでいるわけじゃない、なのに景色が流れる。
いきなり右。次は左。今度は急停止。
「ぴぃっ!?」
身体が前へ放り出されそうになる。妖精は慌ててトウジの襟を掴んだ。
怖い。速い。忙しい。でも……。
トウジと呼ばれているニンゲンは平気そうだった。
輪郭の中に真っ赤な灯火を灯している。エイラかあさまやイリスかあさまと少し似ていて、でも違う。
ここにいると暖かい。危険な真っ黒の中でも安心できる。だから、もう少しだけ頑張ろうと思った。
前を向く。――真っ黒! が迫っていた。
「ピィーッ!!」
妖精は悲鳴を上げながら襟の奥へ潜り込んだ。
長い腕が風を裂く。トウジは身を沈めたその上を樹皮の腕が通り過ぎた。
そのまま横へ転がる。ほぼ同時にザルグの大剣が魔物の脇腹へ叩き込まれた。
鈍い衝撃音と供に砕けた樹皮が飛び散る。
「どうする? 副団!」 トウジが距離を取りながら叫ぶ。ザルグは魔物の反対側へ回り込む。
最大の一撃を狙って巨体の死角を奪う。
「わっかんねぇがっ!」
大剣が唸る――ガキィンッ! 火花が散る。今度は長い腕に割り込まれ、防がれた。
「長丁場は不利だ!」 ザルグが牙を剥く。額から汗が流れている。呼吸も乱れてきた。
「腹ぁ括るぜ!」「わかった!」 トウジの元気な声が返ってくる。
魔物が大きく顎を上げる。眼窩、鼻孔、口腔。その全てから噴き出す瘴気が膨れ上がった。
――召喚!
トウジはすでに魔物の背後に回り込んでいた。走り込んだ勢いのまま膝裏へ剣を突き立てた。
ザクッ、メキッ。樹皮が裂け黒い瘴気が噴き出す。
「グォッ――!」 召喚の咆哮が途中で途切れ、膨らみかけた瘴気が弾け霧散する。
巨体が揺れ、片膝が折れる。魔物が大きく仰け反った。
「よっしゃぁぁ!」 ザルグが吠える。
大きく開いた胸元。裂けた長袍の奥に赤黒く脈打つ魔核を視認する。
どくん。どくん。どくん。
そこに向かって、ザルグの大剣が唸りを上げる。
全身全霊。渾身の一撃。その刃が魔核へ迫る。
ニタァ
トウジは見た。見た気がした。
噴き出す瘴気の向こう。頭巾の奥の窪みしかないはずの顔に、会心の笑みを。
バキンッ!! 「グォオオォ!!」「ちぃっ!」
魔物の倒れ込み方が早すぎた。ザルグの大剣は魔核をかすめ、そのまま胸部を破――。
ヌ"シッ……ズズズ……。
巨体が倒れると同時に、トウジ達の頭上に巨大な圧がのしかかった。大地が震える。
「――ッ!?」 トウジの左胸の奥を、何かに握り潰されたような激痛が貫いた。
心臓ではない、もっと奥。触れられたことのない場所を直接抉られるような痛み。
胸元へ潜り込んでいた妖精の、声にならない悲鳴が頭へ流れ込んでくる。
魔物を中心に、辺り一面の瘴気へ波紋が伝播していった。大地そのものが脈打っているようだった。
風が止まり、草原が沈黙する。
飛び退ったザルグが、大剣を構えたまま辺りを見回す。
「なんだってんだ!?」
トウジは服の上から左胸を鷲掴みにした。それでも視線だけは倒れた魔物から逸らさない。
左腕も疼いていた。痛みとも、熱とも違う。黒い筋の奥で何かが蠢いている。
「グォオオオオオオオオオッ!!」
仰向けに倒れた魔物が咆哮を放った。召喚。瘴気が沸騰し、周囲のいたる所で黒い靄が噴き上がる。
どす黒い瘴気の中。
まるで地面の下から湧き出したかのように、中型・小型の魔物達が一斉に姿を現した。
狼、猪、昆虫、様々な魔物達。十や二十では利かなかった。仰向けに倒れた魔物を中心に、大小の魔物が現れ、それが波のように広がっていく。
「この数ぁ……!」 ザルグが歯噛みする。
十数匹の魔物が一斉に襲い掛かってきた。
「冗談じゃねぇぞ!」 大剣が唸り、一体を叩き潰す。だがすぐに別の魔物が飛び掛かる。さらにその後ろ、その奥。「きりがねぇ!!」
「副団!」
魔物の群れを切り裂くようにトウジが飛び込んできた。その背後では狼型が二体まとめて吹き飛ばされている。
トウジの顔にも余裕はなかった。
「やばい!」
ザルグは即答した。
「引っ張んぞ!」
一瞬だけトウジが目を丸くする。だが次の瞬間には頷いていた。
「うん!」
無茶をする男だ。だが馬鹿ではない。押し切れない時は退く。
二人は背中を預け合った。トウジが左。ザルグが右。
迫る魔物を切り伏せながら、隊商の方角へと突破を開始する。
「オヤジならなんとかしてくれんだろ!」 ザルグが叫ぶ。
「他力本願!」 トウジが思わず叫び返した。「今さらだろうが!」 ザルグが豪快に笑う。笑いながら狼型の首を飛ばした。
まだ諦めてはいない。まずは生きて戻る。話はそれからだった。
「――うそっ!?」
イリスが思わず声を上げた。
精霊網の中で異変が起きていた。トウジがいるあたりで魔素と瘴気が一気に膨れ上がった。
今まで点だったものが面になって、増え続けている。
「どうした?」 グロザが問う。
イリスは精霊網へ意識を集中させたまま答えた。
「瘴気が……増えてる?」「増えてる?」「――違う。増殖してる!」
その言葉にグロザの表情が険しくなる。「ちっ」
「あっ!」 イリスが声を上げる。「トウジがこっちに向かってる!」
「生きてんのか」 グロザの少しだけ安堵した声。
「走ってる! 一直線!」
精霊網の中で、トウジに張り付いている妖精の位置が猛烈な勢いで近付いてくる。そのさらに後に、追いすがるような大量の瘴気。
「魔物に追われてる?!」
「おい」 グロザが古参兵へ声を掛ける。古参兵は何も言わず、背負っていた武器を外しグロザへ差し出す。
それは巨大なバルディッシュだった。
だが普通ではない。柄は異様に短く、代わりに刃が馬鹿みたいに大きい。斧というより巨大な包丁のような形状だった。
「え……」 エストが思わず声を漏らす。「それは……バルディッシュ、ですか?」
「あぁ」 グロザが受け取り、軽く振る。ぶぉん、と鈍い風切り音。「使うのは久しぶりだがな」
肩に担ぐ。その顔には苦笑が浮かんでいた。
「まったくよぉ」 遠くの草原を見る。「バカ共が……土産持って帰ってくるような律義者かよ」
口ではそう言いながら、その目はどこか楽しそうだった。
隣の古参兵が苦笑する。「うちの伝統ですかね」「違ぇねぇ」 グロザが笑う。
そして振り返った。
「すまんが、ここは任せるぜ」
エストが頷く。「わかりました」
イリスも精霊網から目を離さないまま答えた。
「トウジ達は?」「俺が迎えに行く」
グロザが巨大な刃を肩へ担ぎ直し、ゆったりと歩き始めた。「おめぇら、第二線張っとけや」
声を掛けられた古参達が、武器を構え、隊商の前に横一線となった。
それからしばらくして、草原の向こうから魔物の群れを引き連れた二つの影が飛び出してきた。
見えた! ――隊商。荷車、人影、見慣れた傭兵達。
まだ遠い、が確かに見える。
「おらぁ! 走れ走れぇ!」 ザルグが怒鳴りながら脱兎のごとく駆ける。トウジも続く。
その背後にどす黒い瘴気を纏った魔物達が幾層にもなって波のように押し寄せている。
既に足の速い狼型は追い付きつつあった。
横から飛び掛かる。トウジが振り向きざまに剣を振る。狼型の首が飛ぶ。
次が来る。
「チッ!」 ザルグが一瞬だけ反転。大剣が唸る、と飛び掛かってきた狼型ごと地面を抉り飛ばした。
「足、動かせぇ!」「うん!」
返事をしながらトウジは後ろを確認する。
魔物の群れ。そのさらに向こうに、樹皮を纏った巨体が、長い手足を揺らしながらゆっくりと追ってきていた。
遠目にも、胸のあたりで赤黒い魔核が明滅をしているのがわかった。
――こっちを見た?!
左胸に差し込むような痛み。「ぐっ……!」
膝が落ちかける。体勢が崩れる。
並走していた狼型が飛んだ。
――だめ!
気付いたら飛び出していた。
「ピィーッ!」
身体中の光をかき集める。小さな灯火を精一杯、眩しいくらいに光らせる。
狼型がこちらを見、大きな口を開く。鋭い牙。真っ黒な穴。
怖い。怖い。怖い。
「ピィーッ!!」
ぱしっ。
いきなり温かかった。さっきまでと同じ温かさ。
トウジが助けてくれた。大きな手が包み込んでくれている。
身体が激しく揺れた。草原を転がる振動。狼型の唸り声が頭上を通り過ぎる。
あっ……トウジの真っ赤な灯火がすぐそばにあった。ものすごく大きくなっている。近い、近い……。
『助けてくれた』
いきなり灯火がしゃべった。
――?
妖精がいきなり懐から飛び出し、飛び掛かってきた狼型の前へ躍り出た。
その光に気付いたトウジは、咄嗟にその小さな身体を掴み取る。
草原へ転がる。牙が頭上を掠めた。
魔物の注意を逸らしてくれた。助けてくれた。
そう思った瞬間――ふわっ。思考よりも、もっと深い場所。そこへ掌でそっと押さえられたような触感。
「――ッ!?」
跳ね起き、次の狼型の咢を躱す。妖精を懐へ押し込み、手放した剣を拾い上げる。
一閃。狼型の首が飛んだ。だが確認する暇はない。再び走り始めた。
「大丈夫か?!」 ザルグが声をかける。「うん、転んだ!」 トウジの間の抜けた返事にザルグが笑う。「ったくよぉ!」
トウジは、走りながらも先ほど感じた頭の中の違和感を探る。
なにか耳鳴りのようなものがする。いや声?
最初にわかったのは、直ぐ近くからに感じる震えるような小さな声だった。
『コワイ、オオキイ、クロイ、コワイ』 妖精? その感情の揺らぎに既視感があった。懐の中に視線を落として、すぐに戻した。
そこへ、洪水のように感情が流れ込んできた。
飢餓。怒り。憎悪。殺意。逃亡。混乱。痛恨。恐怖。獣の本能そのもののような感情の奔流。
魔物? ナグルの湿原、古戦場跡で感じたときよりも、もっと明瞭でむき出しの思い。
――その向こう。
別の何かが響いていた。それだけは感情ではなかった。
巨大で重く、狂おしいほど強い、意思。
――守れ。
どくん。左胸の奥が脈打った。
誰だ、これ?
――守れ。
どくん。
はっきりと分かった、樹皮の魔物だ。
――守れ。
それは魔物達すべてを貫く、一つの叫びだった。




