7-5 大海嘯地帯 その3
どす黒い瘴気の中から、ぬっと腕が突き出された。
「ピッ!」 トウジの肩にいた妖精が大慌てでトウジの襟の中に潜り込む。
樹皮のような体表を持ち、人の腕を無理矢理引き伸ばしたような異様な形状の手。その手が、トウジとザルグへ向かって振り下ろされる。
「っ!」「ちぃ!」 二人は左右へ飛んだ。
――轟音。地面が砕け、土と岩が吹き飛ぶ。
見た目以上に重い。まともに受ければ終わる。
振り下ろされた腕が、そのまま横薙ぎに払われた。空気が唸る。トウジが身を沈め、ザルグは後ろへ飛ぶ。長い腕が二人の間を通過した。
「速ぇぞ!」 ザルグが怒鳴る。「だね!」
魔物は、払った腕を地面につき、どす黒い瘴気の中から這いずるように全身を現わした。
手足は異様に長く、身体は細い。全身を覆う樹皮のような外殻の上に纏うのは、千年の風雨に晒されたような朽ちた長袍だった。頭部も頭巾に覆われているが、その奥に顔はなかった。
眼窩、鼻孔、口腔、それらの場所に樹皮の窪みだけがぽっかり開き、その全てからどす黒い瘴気が絶え間なく噴き出している。この魔物の中身そのものが瘴気で出来ているような光景だった。
「気味悪ぃぜ……」 ザルグが吐き捨てる。
トウジは答えない。辺り一面に広がる瘴気を見つめる。
覚悟を決めて息を大きく吸った。
「……?」
甘くない。鉄臭くもなく、腐葉土の匂いもしない。以前感じた酩酊感もない、まったくの無味無臭……。
「――ッ!」
胃がひっくり返った。吐き気に頭痛、視界が揺れる。味でも匂いでもない、何かが、頭の中へ直接流れ込んでくる。
魔物が襲い掛かる。巨体とは思えない速度で地面を滑り最短で迫る。
――狙われた。貫手が迫る――死。
だが、横からザルグの大剣が叩き込まれた。
樹皮状の腕から火花が散り、辺りに衝撃を伝播する。腕の軌道がわずかに逸れる。
トウジは慌てて地面を蹴った。今のいままで居た場所へ腕が突き刺さる。
「戦闘中だ! ボヤッとすんな!」 ザルグの叱責が耳朶を打つ。「ごめん!」「後で聞く!」 ザルグが笑いながら大剣をさらに振り抜いた。
トウジを狙った直後の硬直した姿勢、その脚へ重い一撃が入った。
今度こそ樹皮が裂け、黒い瘴気が噴き出した。
だが魔物はそれを意に介さず、ザルグの方を向き、咆哮を上げた。
「グォオオオオオオオオオ!!」 周囲の瘴気が沸騰する。「来る!」 左腕の痛みに顔をしかめながらトウジが叫ぶ。
瘴気の中から、中型の魔物が現れる。一体、二体、三体。それらが一斉にザルグに向かう。
「おいおい!」 ザルグが顔をしかめる。「今度ぁこっちかよ!」
それを見て魔物自身は、中型達を壁にするように後退していく。
「……は?」 ザルグが目を瞬かせた。
普通なら突っ込んでくるはずだ。だが来ない?! 時間稼ぎ? いや、消耗狙いか!
突出してきた中型を一匹真っ二つにする。次の一体をいなしながら、もう一体をけん制する。
「おいおい……」 ザルグの笑みが引きつる。「こいつぁ……ちぃとまじぃかもな」
イリスは目を閉じたまま精霊網へ意識を沈めていた。
正直なところ、酷い出来だった。穴だらけで、途切れ途切れ。エイラが構築する精霊網とは比べものにもならないシロモノ。
大海嘯地帯は精霊魔法の運用には最悪の土地だった。地脈は乱れ、水脈は歪み、気脈も荒れている。
精霊達が落ち着いて留まれる場所などほとんど無い。
小さな森と草原に岩場。点々と残された僅かな精霊域を妖精達で無理やり繋いでいるような状態だった。
「うぅ……」 額に汗が滲む。
エイラの精霊網はもっと温かい。森の息吹。精霊達の気配。妖精達の声。そうした生きた情報に満ちていた。
しかしここでは、彼女達の感情や囁きは薄く、その代わりに、彼女達が見聞きした魔素の情報ばかりが鮮明に伝わってくる。
魔素の濃淡。流向。滞留。点と点を結ぶように集められた観測情報は、一枚の地図となってイリスの意識へ広がっていく。
それはまるで、大地の血流を覗き込んでいるかのようだった。
近くに二つ濃い瘴気の塊が見える。おそらく前方と後方で魔物が出現している場所だろう。
そのさらに先、少し離れた場所に巨大な魔素の渦が見えた。魔素と瘴気が異常な密度で集積している。しかも、脈打つように濃度が変動していた。どくん。どくん。どくん。まるで心臓だった。
「トウジ達かな……」 ぽつりと呟く。
「嬢ちゃん」 横から声が掛かった。グロザだった。腕を組みながら周囲を睨んでいる。「何かわかったか?」「うーん……」
イリスは少し迷う。
「トウジ達のいる辺りがすごく変」「そりゃ見りゃわかる」「そうじゃなくて」
イリスは言葉を探した。
「瘴気が生きてるって感じ?」「感じかよ」「ごめんね、初めての手触りだからうまく説明できなくて」「気にすんな」 グロザが肩を竦めた。
エストはそのやり取りを聞きながら結界を維持している。負傷者の治療に隊商の保護。やるべきことは多い。だが視線だけは時折前方へ向いてしまう。
そんなエストの様子に気付いたグロザが、声をかける。
「心配か?」「当然です」 グロザが頷く。「あそこが要諦だろうからな」
「信頼しているんですね」 エストがグロザを見つめる。グロザはニヤリと笑った。「トウジも、だぜ?」「きっと無茶しますよ?」「あんたが、後で頭、叩いてやってくれや」 グロザがエストを見る。「ええ、そうします」
エストは小さく息を吐き、そして再び前方へ目を向けた。
イリスは精霊網のさらに奥を見ていた。
「……?」
探知範囲のギリギリ、大海嘯地帯の奥に奇妙なものが見えた。
瘴気が薄い? いや、違う。瘴気が細く切り裂かれているような線がそこに現れていた。
「なんだろう……?」 目を凝らす。だが遠すぎて上手く掴めない。
ただその線はゆっくりとこちらへ近付いて来ていた。
「おうりゃ!」 ザルグの気合と共に大剣が振り抜かれた。
中型の胴体が真っ二つになる。黒い体液を撒き散らしながら、その身体は瘴気へと還っていった。
その横をトウジが駆け抜ける。狙うのは樹皮の外殻を持つ巨体の魔物。
一気に肉薄し、地面を蹴る。脚を蹴り、膝を蹴り、そのまま胴体を駆け上がる。
巨体が反応するより早く、トウジは剣を突き出した。
狙いは顔。正確には、目鼻口の窪みから噴き出している瘴気だった。
「――ッ!」
剣先が突き刺さると、魔物の咆哮が途切れた。周囲で膨れかけていた瘴気が霧散する。
「いいぞ!」 ザルグが叫ぶ。「とにかく召喚を阻害しろ!」「うん!」
短く返事をすると、トウジは即座に飛び退いた。
トウジを狙って、樹皮の腕が振り下ろされる。
だが当たらない。トウジは既に魔物の背後へ回り込んでいた。
脚。膝。足首。同じ場所を何度も斬る。深い傷にはならないが、それでも構わない。この細い脚ならば奪えるかもしれなかった。
魔物の注意がトウジへ向く。
長い腕が振るわれる。追い、踏み潰そうとする。だが、その全てが僅かに届かない。
苛立つように瘴気が顔から噴き出した。
「トウジに首ったけってか」 ザルグが笑う。
「ここまで使えるようになってるとはよ、うれしい誤算だぜ!」
魔物の死角から踏み込む。「どっせぇぇい!!」
大剣が横薙ぎに唸る。それは切る、というよりも叩き付けるに等しい一撃だった。
――バキンッ!
巨大な刃が魔物の腹部へ食い込み、樹皮が砕ける。
「グォォォッ――!」
悲鳴とも息継ぎとも怒号ともつかない声が響いた。
巨体がくの字に折れ曲がる。朽ちた長袍の隙間から、砕けた樹皮片が雨のように零れ落ちた。
「トウジ!」「――うん!」 結果を見る前から動いていた。
横合いから飛び込む。剣を振り上げる。狙うのは首。一刀で落とすつもりだった。
「せいっ!」 大上段から剣を落とす――魔物は咄嗟に頭を逸らした。
刃が空を切るが、ボロボロの頭巾から朽ちた長袍、その全てを切り裂いた。
裂けた布が風に舞う。魔物がのけぞるように後ろに下がった。
そして、二人はそれを見た。
「……なんだ?」 ザルグが眉をひそめる。
長袍の下。砕けた樹皮の奥。胸部の中心に赤黒い光があった。
鼓動するように、どくん、どくん、どくん、と明滅を繰り返していた。生きた心臓のように瘴気を脈打たせている。
その光を目の当たりにしたトウジの左腕が再び激しく疼いた。
「――ッ!」 黒い筋が焼けるように熱を帯びる。
魔物の核。
そう直感した。
「出るもんが出たぜ!」 ザルグが吠えた。「わかってる!」 トウジは即座に反応する。
地面を蹴る。縮地ほどではないが、ここ一番の踏み込み。一直線に魔物の懐へ飛び込んだ。
狙いは胸――赤黒く脈打つ核! 迷いなく剣を突き出す。
魔物は姿勢を崩したまま両腕を上げた。抱き抱えるように、守るように胸部を覆う。
ギィィィン!! 剣先が樹皮の腕に弾かれた。
そのまま魔物は後退する。長い脚がもつれそうになりながらも距離を取る。
「決まりだな!」 ザルグが牙を剥く獰猛な笑みを見せた。
「ようやく見つけたぜ!」 大剣を肩へ担ぎ直す。その視線は胸部から離れない。
そこが、弱点。だが――簡単すぎやしねぇか?
ザルグの笑みが僅かに薄れる。
「……トウジ」
トウジは次の一刀のために踏み出そうとしていたが留まる。
「ん?」「ちっと気ぃ付けろ」「?」「なんか臭ぇ」
トウジは首を傾げ、魔物を見る。
頭巾の奥、どす黒い瘴気が噴き出すその顔が、歪んで見えた。
笑っているようだった。




