7-1 交易隊
朝の陽射しが防護柵の向こうから差し込んでいた。
木槌の音が響く。遠くでは子供達の笑い声。家畜の鳴き声。焼きたての麺麭の匂い。アイラ村は今日もいつも通りだった。
真名を知って、何かが変わったわけではなかった。無かった記憶が突然蘇る、そんな劇的なことも起こらず、むしろ、何も変わっていないと言ってもよかった。
あの布に書かれていたことよりも、エイラの、ほっとしたような柔らかな笑顔、それを思い出すと胸の中が温かくなった。
「トウジー!」見張り台の下から声が飛ぶ。
顔を上げると、柵の上に登った青年が大きく手を振っていた。
「カリンが呼んでる!」「今行く」
木材を肩へ担ぎ直し、トウジは立ち上がった。
そのまま見張り台の近くまで歩いていく。防護柵の外では数人の村人が補修作業をしていた。
その中心で腕を組んでいた大柄な女性が振り返る。
「遅い」「呼ばれたばかりなんだけど」「口答えするな」額を軽く小突かれた。「あたっ!」
周囲の村人達が笑う。「功労者形無しだな」「ねーちゃんには勝てん」「ちげーねぇ」
トウジが真顔で答えると、更に笑いが広がった。
村へ戻ってからというもの、こんなやり取りが毎日のように続いていた。すでにすっかりアイラ村の一員に戻っている、それが少しだけ心地良い。
「今日は東側の見回りだ」「分かった」「ついでに採集もな」「それも分かった」「昼までに戻れ」「うん」
カリンが満足そうに頷いた。
その様子を少し離れたところから見ながら、エストは小さく息を吐いた。
「本当に普通ですね……」隣でイリスが笑う。「真名が分かっても、急に人格は変わらないよ」「そういう意味ではありません」
エストは苦笑した。
もっと何か、思い悩むのではないかと思っていた。過去を知りたいと言い出すのではないかとも。
だがトウジはいつも通りだった。朝になれば働き、子供達と話し、困り事があれば真っ先に動く。何も変わらない。ただ……。
エイラの言葉を思い出す。――『……トウジ……どうか無事でいて……』 誰の思いを受け止めた言葉だったのだろうか……。胸の奥が少し痛んだ。
「エスト?」「いえ」問いかけたイリスへ微笑み返す。
その隣ではシュクリが黙ってトウジを見ていた。 耳がぴくりと動く。
「シュクリ?」「……同じ」「何が?」 シュクリがイリスを見上げる。
「シュクリと」ぽつり。それだけ言って口を閉じる。
イリスだけが苦笑した。
「余計に分からなくなったんだけど」
それは本音だった。
真名があった……でも、それはまた一つ謎が増えただけ……。
「もう……」
見張り台の上から声が響いた。「東!」 村人達が一斉に顔を上げる。
見張りの青年が身を乗り出していた。
「人影!」
緊張が走る。が……。
「交易隊だ!」
その声に、村中が一気に活気づいた。
「交易隊? 珍しいね」 トウジがつぶやく。
「いや、最近はそうでもねぇんだ」 答えたのはカリンだった。腕を組みながら、防護柵の向こうへ目を向ける。
「前は年に数回ありゃ良い方だったがな、今は月に一度は来る」
「そんなに?」 トウジが驚いたように聞き返す。
外縁だ。国家の管理も及ばない危険地帯。そう頻繁に商人が来る場所ではない。
「交易路が整備されたからな」にやりと笑う。「――って、トウジ。お前のおかげだよ」
「え?」 本人だけが本気で分かっていない顔をした。周囲の村人達がどっと笑う。
「その反応だと思った」「絶対分かってねぇと思った」「何のこと?」
きょとんとしているトウジを見て、カリンが呆れたような顔をした。
「白牙村へ即応隊出した時だ」「うん」「大八車、使っただろ」
確かに、森の中の道幅が妙に広かった。倒木も少なく、荷車の轍まであった。
「近隣の村々への道は、かなり手を入れた」「へぇ、そうなんだ」
反応が薄い、薄すぎる。村人達が一斉に吹き出した。
「他人事かよ!」「お前の金でやったんだよ!」「え?」
カリンがとうとう笑い出した。
「里親様から聞いてるだろ!」「あー……」「功労者様がこれだよ~」「だから反応薄すぎだろ!」
再び笑いが起こる。トウジは少し困ったように頭を掻いた。
そんな様子を見ていたエストは小さく息を吐いた。
「やっぱり、この人はこうなんですね……」「今更?」 イリスが笑う。「ええ」
防護柵の向こうに隊商の姿が見え始めた。
大八車が四台。荷を満載した馬車が二台。獣人と人族が半々ほど。隊列の前後と左右には武装した獣人達が配置され、村が近づいても周囲を油断なく警戒していた。
「しっかりした隊商ですね」 エストが呟く。「外縁じゃあれが普通なんだろうね」 イリスが答える。
やがて隊商が村へ入ってきた。ようやく人心地ついたような、弛緩した空気が流れる。
その姿をなんとなく見ていたトウジの視線が、隊列の中央で止まる。
「あ」 顔がぱっと明るくなった。「おっちゃーーーん!!」 腹の底から響くような大声だった。周囲がぎょっとする。
トウジはそのまま駆け出した。「おい!? トウジ!?」 カリンが驚いて声をかけた。止める間もない。
隊商側も即座に反応した――チャキン、チャキッ。剣が抜かれ、槍が下がる。警護の獣人達が一斉に前へ出た。
「止まれ!」「誰だ!」「近付くな!」 完全に不審者扱いだった。
だが、その中心にいた巨体だけは違った。
周囲の獣人より頭一つ抜き出る体躯に、灰色混じりの毛並み。幾つもの古傷を帯びた岩のような肩に太い腕。その獣人が目を細めて、駆け寄る少年の顔を見る。
一瞬、ぽかんとしたが……「おおぅ!」 牙を剥いて笑った。
「トウジか!」 どわははは、豪快な笑い声が外縁へ響き渡った。「おっちゃん! ラグナぶり!」
トウジがグロザに駆け寄る。巨腕が伸び――がしっ。「ぐえっ」
トウジの頭が鷲掴みにされ、そのまま、ひょいっと持ち上がった。
「おおー!」 周囲からどよめきが上がる。
「なりはでかくなったがよぉ!」 豪快な笑い声。
ぶら下げられたトウジは少し困った顔をしている。「おっちゃん首、首」
「昔とあまり変わってねぇってか、えっ?!」
「ラグナで、変わったって言ってた!」「そうだったか?!」
グロザの笑い声が辺りに響く。周囲の獣人達も笑っている。が、一部の獣人達だけは笑っていなかった。
「お、おい……」 槍を構えた若い獣人が隣へ囁く。「あいつ、ラグナにいたやつか?」「そうか?」「団長に飛びついたぞ」「知り合いか?」「いやでも人族だぞ?」
「お?」 隊列後方から別の獣人が顔を出した。大柄な狼獣人。
「おまえ、トウジか!?」「副団のザルグさん?!」「おう! オヤジには聞いてたが、大きくなったなぁ!」 ザルグも破顔する。
「おっ!」「あいつ!」「トウジ!」「トウジか!」 荷車の間から次々と顔が出てくる。あっという間に囲まれる。
「背ぇ伸びたな!」「飯食ってるか!」「団長が見違えたってたが」 再び大笑い。トウジは完全に囲まれていた。
新兵達はぽかんとしている。
「な、なんなんだあいつ」「団長と副団長に頭叩かれてるぞ」「怒られてるのか?」「いや歓迎されてるだろあれ」「どっちなんだよ……」
「――ゴホン」 軽い咳払い。若い獣人達が一斉に振り返った。「んげっ!」 誰かが情けない声を上げた。新兵達の背筋が凍る。「でたっ!」
自由交易都市ラグナの南市場露店街。一瞬で四人まとめて地面へ転がされた。その隣に立つ小柄な獣人少女には、神速の蹴りで二人沈められた。そして――
「やっほー」ひらひら。満面の笑みで手を振る少女。若い獣人達の顔が引き攣る。
若い獣人達が揃って二歩下がる。
「おい」「近寄るな」「目を合わせるな」「でも怖ぇだろ!」
ひそひそ声。
イリスが首を傾げた。「なんか失礼なこと言われてない?」「聞いた」 シュクリが即答した。エストは困ったように苦笑している。
その様子を見ていた副団長が腹を抱えて笑い出した。
「ぶはははは!」「なんでお前らビビってんだよ!」「副団長は知らねぇから言えるんですよ!」「オヤジから聞いたよ!」「じゃあなんで笑ってんですか!?」「面白ぇからだ!」
若い獣人達が絶望した顔になった。
未だトウジを掴んだままのグロザが三人へ視線を向ける。
「よう、嬢ちゃん達か」 牙を見せて笑った。「ラグナぶりだなぁ」
三人は揃ってぺこりと頭を下げた。「お久しぶりです」「久しぶりー」「……ども」
グロザは満足そうに頷く。「元気そうで何よりだ」
ぶら下がったままのトウジが口を開く。「おっちゃん」「なんだ」「そろそろ下ろして」「おっと、忘れてた」
どすん。
トウジは軽く首を回した。グロザは極太の腕をグルグル回しながらトウジをしげしげと見る。
「まだ振り回せそうだなぁ」「やめて」「もうちと重さが必要じゃねぇか?」「振り回される自信はある」「がはははは!」
豪快な笑い声が響く。周囲の傭兵達も笑う。村人達も笑う。そして新兵達だけが困惑していた。




