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6-9 真名(第6章エピローグ)

 白牙村の柵の前で、最後の魔物が崩れ落ちた。


 黒い身体が輪郭を失い、淡い光を帯びながら魔素へと還っていく。


 それを見届けるように、辺りを覆っていた瘴気もゆっくりと薄れていった。薄墨色の靄は風に流される朝靄のように形を失い、森の中へ溶けていく。


「おおおおっ!」 歓声が上がる。柵の内側では、白牙村の獣人達が武器を掲げていた。即応隊の面々も声を上げた。


 戦いは終わった。


 柵の門が開き、白牙村の長が出てきた。真っ直ぐカリンの前まで歩いてくる。


「助かった」「間に合ってよかったよ」


 二人はがっしりと腕を組んだ。歓声がさらに大きくなった。


「カリン姐さん!」「やった!」「酒だ酒!」「朝だ馬鹿野郎!」「関係ねぇ!」


 あちこちから笑い声が上がった。村は生き残った。十二分の成果だった。


 一方で、柵の内側では、別の戦いが進行していた。


「次の方!」 エストが声を上げる。負傷者が次々と運ばれてくる。命に関わる傷は少ないが、放置できるものでもなかった。治癒術でエストの両の手が淡く輝く。


 その隣では巫女が妖精達と共に村人達を診ていた。「瘴気に中てられたようですね」 巫女が印を結ぶ。淡い光が身体へ染み込み、顔色の悪かった村人の表情が少しずつ和らいでいく。


 その様子を少し離れた場所から眺めながら、トウジとシュクリは周囲を警戒していた。


 村から若干離れた小高い場所で、二人とも武器はまだ手に持っていた。


 トウジは森へ目を向ける。


 もう瘴気の気配は薄い。あの甘ったるい匂いも、気にならないぐらいにはなっていた。


「大丈夫そう」 シュクリが呟く。「だね」 トウジも頷いた。


 だんだんと東の空が白み始める。発光色で彩られていた外縁の森が、普通の森へ姿を変えつつあった。




 精霊網を伝わる感情の揺らぎが、少しずつ落ち着いていく。


 緊張あるいは焦燥、警戒。それらが薄れ、安堵や達成感へ変わっていくのが分かった。白牙村の魔物は討伐できたらしい。


 イリスはようやく肩の力を抜いた。


「終わったみたいね」 エイラが微笑む。「はい」 イリスも頷いた。


「どうやら無事だったみたいです」


「よかった」


 エイラはそう言って、労わるように大樹へ軽く手を添えた。


「お疲れ様」 エイラが言う。「エイラもお疲れ様でした」 イリスは小さく頭を下げた。


 思った以上に疲れていた。精霊網への接続自体は難しくない。けど、あれほど広範囲へ意識を向け続ける経験は初めてだった。


「帰ってくるのは、たぶん昼過ぎになると思うわ」 エイラが言う。


「後始末もあるでしょうし」「そうですね」「だからイリスも少し休んでおきなさい」「はい」


 返事をしながらも、イリスはすぐには立ち上がらなかった。聞きたいことが残っていた。


「エイラ」「なにかしら?」


 イリスは少しだけ言葉を選ぶ。


「トウジは……なんなのでしょうか」


 イリスは大樹へ手を添えたまま呟いた。


「アイラ村へ来ても、分からないことばかり……」


 妖精達との親和性。失われていた言葉。すでに身についていた所作。調べれば調べるほど、聞けば聞くほど謎が増えていく。


 エイラはそんなイリスを見て、くすりと笑った。


「おめでとう、イリス」「?」


「あなた、私と同じところに立てたわ」


「エイラ……」 もう、と言いたげな視線を向ける。


 だがエイラは少し愁いを帯びた表情を浮かべて、大樹の幹へ手を添える。


「私達はね」 静かな声だった。「長く生きるの」


 祭祀場の中を、大樹を渡る光が揺れる。


「長い時間をかけて学ぶ」


「知識を集める」


「記録を残す」


「そして次の世代へ渡していく」


 エイラの指先が樹皮をなぞる。


「一人では届かないものも、百年、二百年、千年、積み重ねていけば、いつか届く」


 イリスは黙って聞いていた。


「だから私達は知ろうとする。分からないことを減らそうとする。未来の誰かが困らないように」


「なのに」 エイラが少しだけ肩を竦めた。「分からなかったのよ、トウジのことが」


「家族も、生まれた場所も、覚えていなかったわ」


 大樹の枝が、風に揺れ、さわりと音を立てた。


「自分の名前すら、知らなかった」


 イリスが、はっとして顔を上げる。


「そんなあの子に、私は何も教えてあげることができなかった……」


「だから私は」 エイラは微笑んだ。


世界樹ヘイムルートに尋ねたの」


 イリスが少し驚いた。「エイラ……」


「ええ……今思えば褒められたことじゃないわね」


 少し物憂げな笑顔を浮かべる。


「セレイナに怒られるかもしれない。女王でもないのに勝手に世界樹ヘイムルートを使った、って」


 イリスは思わず苦笑した。そんなことはない。母ならきっと許しただろう。いや。許すだけではない。たぶん同じことをした。エイラ自身も、それを分かっているはずだった。


「それで何が分かったんですか?」


 エイラはしばらく答えなかった。


 大樹の光だけが静かに脈打っている。


「空白」


 小さくそう言った。


「え?」「何も返ってこなかったの」


 イリスは言葉を失う。


 世界樹ヘイムルートには、無数の記録と記憶、長い時を積み重ねてきた知の集積がある。その世界樹ヘイムルートが、空白を返した。


「だからね」


 エイラは少しだけ遠くを見る。


「余計に放っておけなくなってしまったの」


「記録から、こぼれ落ちていた小さな命が……」


 その声は、慈しみに溢れていた。


「育てた、なんて言えないわね」


 小さく首を振る。


「あの子は一年もここにいなかったもの」


「ただ……落ちていた子を拾っただけ」


 エイラは笑った。


「歩けなかった子が、歩き出すまで少しの間……見ていただけ」


 イリスは黙ってエイラの横顔を見ていた。


 エイラは大樹へ額をつけるようにして続ける。


「それでもね」


「無事でいてほしいと思うし」


「帰ってくれば嬉しいし」


「危ないことをしていれば心配になる」


 そして少しだけ笑う。


「だから困るのよね」「?」「今も」


 エイラは精霊網の向こうを見つめた。


「ちゃんとそこにいるかどうか、気になるんだもの」




 午後になって、即応隊がアイラ村へ戻ってきた。


 幸いにも欠員はなく、怪我人もいなかった。


 唯一、巫女だけがぐったりしていたが、それが魔物のせいではないことは村人達の誰もが知っていた。


「おつかれさま……でした」 大八車から降りた巫女が魂の抜けたような顔で手を振り、祭祀場へふらふらと歩いていく。


「おつかれ」「おつかれさまです」 村人達が慣れた様子で声をかける。


 どうやらいつものことらしい。


 一方、「乗って戻りゃ良かったじゃねぇか」 カリンが悪戯っぽくエストに笑いかける。


「十分堪能しましたから」 エストが即答した。


「そんなに嫌だったかい?」「もちろん」「そこまでかい」「そこまでです」


 カリンが豪快に笑う。シュクリが小さく頷いた 「一度で、十分」


「そのとおりです……」 エストが疲れた顔をする。


 結局、帰路はエストも歩いて戻ってきた。その方がよほど快適だった。


 村の広場では、即応隊の面々が武器の手入れや大八車の点検を始めていた。


 直ぐに次の呼集がかかってもおかしくない。終わったら次の準備、は当然だった。


「おかえりなさい」 イリスがやって来た。即応隊と共に戻ってきた二匹の妖精が、うれしそうにイリスの周囲をくるりと回る。


 まるで報告を終えたよと言わんばかりだった。


「おつかれ」 トウジが手を上げる。「そっちはどうだった?」


「順調だったよ」 イリスは笑う。「エイラがすごかった」「?」「祭祀の村が伊達じゃないってよくわかった」


 それだけでトウジは納得したようだった。「そうか」 トウジが少しうれしそうだった。


「私はまだまだだなって思ったよ」 少し悔しそうに言う。だが、その表情はどこか楽しそうでもあった。


 イリスの視線がトウジへ向く。


「そうだ」「?」「エイラが呼んでた」「里親様が?」「うん」


 イリスは頷く。


「片付けが終わったら祭祀場へ来てくれって」


 トウジが首を傾げた。「なんだろ」「さあ?」 イリスはわざとらしく肩を竦める。


 そのまま視線を横へ向けた。


「エストも」「はい?」「シュクリも」 シュクリが顔を上げる。「よかったら一緒に来てって」


 二人は黙って頷いた。イリスはその様子を見て、少しだけ微笑む。


 二人は、何かしらを感じとったようだった。


 当の本人だけが、何も分かっていない顔をして作業を続けていた。



 祭祀場で案内されたのは、最初に通された広い板張りの部屋だった。


 中央の祭壇の前に五脚の床几。そして今回は、その脇に八足台が一つ置かれていた。


 トウジ達が腰を下ろして待つことしばし、板戸が静かに開き、エイラが入ってきた。


 両手に何かを抱えている。


 丁寧に八足台へ置かれたのは、衣だった。


 エイラは四人の向かいへ座る。


「白牙村、お疲れ様」 柔らかな声だった。「怪我人もなく帰ってきてくれて安心しました」


「ありがとうございます」 トウジが頭を下げる。


 エイラは微笑んだ。


「今日は、トウジへ返すものがあります」


「返す?」 トウジが首を傾げた。「ええ」


 エイラは立ち上がる。


「この子は一人で抱えがちだから……」 視線がイリス、エスト、シュクリへ向く。「トウジのことを少しでも知っていて欲しいの」


 そう言って八足台から衣を取り上げ、トウジの前へそれを持って来た。


「あなたが、ここへ来たときに着ていたものです」


 差し出されたのは麻で織られた小袖だった。かなり大きい。 


 トウジが見てもそれは分かった。


 十二歳だった当時なら身体がすっぽり隠れてしまうほどの大きさだ。


 首元には黒ずんだ染みがあり、襟の一部は解れ、縫い直された跡も見える。


「……」


 トウジは受け取り、布を撫でる。


 だが、思ったほど表情は動かなかった。


「よく覚えてませんけど……」 小袖を見つめる。「これを着てたんですね」「そうよ」 エイラは静かに頷いた。


 だが、その後の言葉が続かない。エイラはなにかを迷っているようだった。


 しばらくして、意を決したように懐へ手を入れる。


 小さく折り畳まれた布が現れた。


「これが、その衣の襟に縫い込まれていました」


 トウジの手へ渡される。


「……?」


 布を開く。イリス達も思わず身を乗り出した。


 そこには黒い文字が並んでいた。


「文字……なの?」 イリスが眉を寄せる。


 見たことがない。どの文字体系とも違う。曲線は少なく、直線が多い。まるで幾何学模様を組み合わせたような形だった。


「言葉を表しているようには見えますね」 エストが布面を見ながら首をひねる。


「記号?」 シュクリも首を傾げる。


「はじめてみる形よね」 イリスも戸惑いを隠さない。


 エイラは、何も言わずに、その様子を見ている。


「――トウジ?」 全員の視線がトウジへ向く。


 トウジは布を吸い寄せられるように見つめていた。唇が微かに震えていた。


 揺れる吐息のような声が零れる。



武功成就ぶこうじょうじゅ


八玄統二郎頼信やつはるとうじろうよりのぶ



 左胸の奥が苦しい。呼吸が詰まる。


 ぽたり。


 涙が布へ落ちた。


「え……」


 止まらない。次から次へと溢れてくる。悲しいのか、嬉しいのか、それすら分からない。


 きしむような疼きが胸の奥をかきむしる。


 食い入るように見つめる文字が滲む。何度も何度も瞬きをしながら、それでも目を逸らせなかった。


「……よかった」


 エイラの声は、どこまでも優しかった。


 トウジは涙に濡れた顔を上げる。滲んだ視界の中でエイラは微笑んでいた。


「あなたに」 そっと言葉を紡ぐ。


「ちゃんとした名前をつけてあげられていた」


 ぽつり、涙が一粒、エイラの頬を伝った。


 手の中の布へ視線を落とす。


 見慣れない文字――八玄統二郎頼信


「やつはる……とうじろう……よりのぶ。……とうじろう」


 ぽつりと呟く。その響きはどこか懐かしくて、遠かった。


 トウジはゆっくりと顔を上げる。


「里親様……どうして……?」


 エイラは静かに首を振る。


「読めたわけではないの。誰かの思いが、願いが、それから伝わってきたの」


「……トウジ……どうか無事でいて……」


 エイラの微笑みを見つめるトウジからまた涙がこぼれる。


 何か言おうとして、言葉が出なかった。


 トウジは布を手にしたまま立ち上がる。


 イリスが目を瞬き、エストが息を呑む。シュクリは小さく首を傾げた。


 トウジは、微笑んだままその様子を見守るエイラに向かって深々と頭を下げた。


 左胸に、布を抱くように押し当てながら。

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