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6-1 北帰行

 巡察から戻ったのは、まだ午後の早い時間だった。


 聖環院の窓の外では、ナグルの喧騒が遠く低く響いている。その部屋で、報告書へ向かうエストの表情は重かった。


「……どう書けば……」


 エストは報告書を睨みつけた。


 湿地巡察報告。瘴気異常の発生。鎮静までの経緯。


 そこまでは問題ない。


 問題なのは、その“後”だ。


『神官マルヴォロス様が一番近くで見ていらっしゃったので』


 巡察神官からその部分の報告を一任された。押し付けられた、と言ってもいい。


「“瘴気が広域にわたって自然散逸したように観測された”……って、そんな曖昧な書き方……」


 エストは額を押さえた。


 実際のところが分からないのだ、本当に。


「……トウジが、消した……?」


 ぽつりと漏れた言葉に、自分で眉を寄せる。


 少なくとも以前とは違う気がした。かつてトウジが瘴気を消した時は、明らかに自身を削っていた。顔色、呼吸、左腕に浮いた黒い筋。あの疲れ切った様子が記憶によみがえる。見ているだけで痛々しかった。


 だが今回は違う。疲弊は、ほとんどなかった。それが逆に薄気味悪かった。


「んー……」


 気の抜けた声が背後から降ってきた。


 振り返ると、いつの間に入ってきたのか、イリスが椅子の背に頬を乗せていた。


「ノックしてください……」「したよー?」「してません」「細かいなぁ」


 イリスは机の報告書を覗き込み、ふむ、と小さく唸った。


「まあ、たぶんだけど」「……はい」「トウジが“消した”っていうのとは、ちょっと違うかなぁ」


 エストは目を細める。「聞いてたんですね?」 それには応えず、イリスは続ける。


「あそこ、普通の瘴気じゃなかったでしょ。百年物だし」


「……百年物、ですか?」


「古い瘴気ってね、なんか……歪むの」「歪む?」「不揃いっていうか、偏るっていうか。うまく言えないけど」


 イリスはそこで少し言葉を切った。珍しく、言葉を選んでいるようだった。


「……不均等……になる? 瘴気が?」


 エストがそう言うと、イリスは曖昧に肩をすくめる。


「まあ、そんな感じ」


 断定しなかった。


「で、そこにトウジが入っていったから――いきなり崩れた」


「崩れた?」


「うん、急に。だから周りも散った。たぶん」


「たぶん、って……」「わたしもあんなの初めて見たし」


 あっさり言う。だが、その碧の瞳は少しだけ真剣だった。


「正直、説明できるほど分かってないよ。あんな静かに崩れるなんて普通ないし」


 エストは宙に視線を彷徨わせる。


「……トウジが係わると、なんで……」 


「そうなんだよね、ヘンだよね」


「イリスは、何か分かるんですか」


「分からないからちょっと嫌になるんだよ」


 イリスは窓の外へ視線を向ける。


「ただ……今日は、湿地全体があの子を見てた感じはした」


 エストの喉が、小さく鳴った。


「見てた……」「うん」


 イリスはそれ以上を言わなかった。


 だが、その沈黙の方が余計に不安を煽る。


 エストは無意識にペンを握り直していた。


 ――書けるわけがない。こんなもの。


 しかも、本人へは知られてはいけない。


 トウジには、自分が自身を削って瘴気を消した記憶がない。だからこそ危うい。


「……エスト?」「っ、なんでもありません」


 慌てて顔を上げる。


 イリスは少しだけ目を細めたが、追及はしなかった。


 代わりに、ぱん、と手を叩く。


「よし。わたし沐浴いってくる」


「はい?」


「湿地くさかったし」


 もっともだった。


「シュクリも行くよー」


「……疲労」


 部屋の隅で丸くなっていたシュクリが、耳だけ動かした。


「連行」「横暴」「清潔大事」「むぅ……」


 不満そうに尻尾を揺らしながらも、シュクリは立ち上がる。


 イリスは満足げに頷いた。


「エストもあとで来なよ」


「私は報告書があります」


「じゃ、終わったら」


「終わりません」


「トウジももう一回入りなよ」


「え?」


 廊下から声がした。ちょうど通りかかったらしい。


 トウジが半開きの扉から顔を出す。


「なんで?」


「湿地で泥だらけになったし」


「泥はしょうがないと思う……」


「ばっち臭い」


「ばっち臭い言うな」


 そう言われて気になったのか、自分の匂いを確かめるトウジを見て、エストは思わず笑みを浮かべた。


 それだけで少し、胸の奥の重さが和らいだ。



 支院長室には、乾いた薬草の香りが漂っていた。


 壁際には古い記録書類の並ぶ棚。窓の外には、ナグルを貫く大河が鈍く光っている。


「……外縁、ですか?」


 支院長は、机越しにトウジを見た。


「はい」 トウジは頷く。


 支院長はしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。


「どこで聞いたのか知りませんが、止めておきなさい」 声は穏やかだった。「興味本位で立ち入る場所ではありませんよ」


 窓の外で、河鳴りが低く響く。


 トウジは少し視線を落とした。


「……どうしても、行く必要があるんです」


「理由を聞いても?」


 トウジは少しだけ迷った。だが、隠しても仕方がない気がした。


「俺、外縁の出なんです」


 支院長の眉が、ぴくりと動く。「……ほう?」


「ナグルからどう行けばいいのか、分からなくて」


 今度は、はっきりと沈黙が落ちた。


 支院長はトウジを見つめる。値踏みするような視線ではない。どちらかと言えば確かめるような目だった。


「外縁の、どの辺りです?」「ラグナから一週間くらいのところです」


 支院長の表情がわずかに変わる。


「……それは、随分奥ですね」


 支院長は椅子へ深く腰を預けた。


 机の端から古びた地図を引き寄せ広げた。地図には古い街道と河川が細く描かれている。


 指先がナグル北西をなぞった。


「大陸古道を、河沿いにさらに北上しなさい」


「北……」


「南ほど整備された道ではありません。ですが、隊商は時折通っています。北部の村くらいなら辿り着けるでしょう」


 指先がさらに北へ移動する。


 そこから先は、地図の線が曖昧だった。


 空白が増えていく。


「そこから西へ向けば、外縁には出られると思います」


 支院長はそこで言葉を切った。


 静かな間が落ちる。


「……外縁出身であれば、ご存じでしょうが」


 低い声だった。


「この先は、人の領域ではありません」


 窓の外で河が鳴る。遠く、揚水機の軋む音が聞こえた。


 トウジは静かに頷く。


「はい。知ってます」


 その返答に、支院長はわずかに目を細めた。


「……でしょうね」


「トウジ君でしたか」「はい」


「ぜひもう一度、ナグルに来てください」


 トウジが目を瞬かせた。


「そして、外縁の話を聞かせてください」 支院長はニコリと笑った。


 トウジは、深々と頭を下げた。




 北から流れ下ってきた大河は、ナグルの巨大な岩丘へぶつかるようにして、その流れを大きく東へ変えていた。灰色の水流が岩肌を削り、低い唸りを響かせながら湾曲していく。


 その河沿いを、トウジ達は北へ向かって歩いていた。街道は岩丘の縁へ張り付くように伸びている。片側は切り立った岩壁。もう片側には、東へ折れ曲がっていく大河。下を覗けば、水面が遥か遠かった。


 エストが思わず足を止める。「高いですね……」


「ナグルが崖上都市って言われる理由、これだねぇ」


 イリスは気楽に河を見下ろしている。強い風が吹き抜け、淡い金色の髪をさらった。


 河は、まるで巨大な蛇みたいだった。北から来た流れが、岩丘へ押し曲げられるように東へ折れている。その水勢は凄まじく、岸へぶつかるたび白い飛沫が舞っていた。


 トウジは黙ったまま前を歩く。



 岩丘を離れるにつれ、人の気配は少しずつ薄れていった。


「思ったより人いるね」 イリスが馬車とすれ違いながら呟く。


「支院長さん、“北は人少ない”って言ってたけど」「まだ南寄りだからでしょう」


 エストは地図を確認しながら答えた。


 シュクリは黙ったまま周囲を見ている。耳だけが忙しなく動いていた。


 街道そのものは狭かった。ラグナ周辺の整備された街道とは違う。ところどころ路肩が崩れ、凸凹がそのままで残っている。


 それでも往来はあった。毛皮を積んだ荷車。塩を運ぶ隊商。川魚を吊るした小舟。


 だが、北へ進むにつれて、その数は少しずつ減っていく。人の声が遠ざかっていった。


 河音だけが大きくなる。


「……静か」 シュクリがぽつりと言った。「そうだね」 トウジは河の向こうを見る。


 川幅が狭くなり、森が近くにあった。


 前方では、街道がさらに北へ続いている。


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