5-12 古戦場(第5章エピローグ)
翌朝、トウジ達と巡察隊の一行は、ナグルの河港から渡し船へ乗り込み、対岸へ渡っていた。
朝の河は灰色だった。巨大な流れが、ほとんど音もなく南へ流れている。
ナグルの崖街を振り返れば、石造りの街並みと、丘の頂に立つ聖環院の望楼が霧の向こうへぼんやり浮かんでいた。
対岸へ渡ると、そこには既に巡察隊用の平船が並べられていた。
浅い湿地を進むための船で、底が平たく、細長い。艪と長い棹で進むらしい。
聖環院の巡察は二隊で、それぞれ、人族神官二名に、獣人神官三名という構成だった。それに、トウジ達の同行組が加わっていた。
平船の後ろでは、望楼へ案内してくれた灰色の耳の見習い神官が、静かに艪を操っている。
年はシュクリとそう変わらないだろう。淡灰色の短い毛並みの耳が、艪の動きに合わせて揺れていた。
湿地へ入る頃には、もう日もかなり高くなっていたが、辺りには薄い白霧が下りている。
葦草の間を縫うように、平船が静かに進んでいく。艪の水を掻く音、棹を抜き差しするときの水音ぐらいしか聞こえない。風が葦を凪ぐ音も、水鳥達の羽ばたく音も聞こえない。妙に静かだった。
シュクリは船の舳先へ立っていた。耳を立て、湿地の奥をじっと見つめている。
その後ろにエストが、腰へ手を添え、周囲を警戒していた。
さらに後ろでトウジは、船縁へ手を置きながら辺りを見回す。
そしてイリス。聖環院を出たあたりから、ほとんど口を利いていなかった。
機嫌が悪い、というよりどこか神経を尖らせているように見える。碧色の瞳が、霧の奥をじっと見据えていた。
「今日はかなり静かですね」 艪を漕ぎながら、見習い神官がぽつりと言った。「そうなんだ?」 トウジが振り返る。「ええ」 神官見習いは小さく頷く。
「いつもなら、もう少し鳥の声とか、水獣の音がするんですけど」
そこで言葉を切り、霧の奥へ視線を向けた。「こう静かだと、逆に落ち着きません」
シュクリの耳が、ぴくりと動く。「……ん」 短く呟いた。
実は、トウジも少し面喰っていた。
もっと何か感じると思っていたのだ。頭の奥を圧迫していたあの奇妙な圧はすでに消えているというのに。
静かだった。不気味なほどに。まるで湿地そのものが、息を潜めているみたいに。
「止まって!」
それまで黙り込んでいたイリスが、突然、鋭い声を発した。
見習い神官が即座に反応する。口笛のような短い警告音を、二度。
ぴくり、とシュクリの耳が跳ねた。前方を進んでいた二艘の平船でも、獣人神官達が一斉に棹を水へ突き立てる。
ぎぎ、と船体が軋み、泥水を削るように制動がかかった。
次の瞬間――ザバァァッ!! 霧の向こうで、水面が爆発した。
巨大な水柱。
その中から、長い鎌首がゆっくりと持ち上がる。薄墨色の巨大な蛇だった。濡れた鱗が、霧の中で鈍く光っている。
舟が、大きく揺れた。「うわっ?!」 トウジが船縁へしがみつく。
霧の向こうで、巨大な蛇の朱い目が、ぎょろりと開いた。
辺りをゆっくり睥睨する。だが、その視線が湿地の浅瀬の奥へ向いた瞬間――。
びくり、と巨大な身体が強張った、次の瞬間には、逃げるように水中へ沈んでいく。
巨大な尾が水面を叩き、白霧が大きく揺れた。
「……逃げた?」 トウジが呆然と呟く。
「瘴気警戒!!」 先頭の船から、鋭い警告が飛ぶ。間もなく、湿地の浅瀬の奥から、薄墨色の瘴気が雪崩れ込んできた。
霧とは違い、もっと粘ついた濁った色が、水面を這うようにこちらへ広がってくる。
「来るぞ!!」
ぼこっ。ぼこぼこぼこっ――舟の周囲の水が、一斉に泡立ち始め、水面を突き破って、水棲の魔物達が次から次へと飛び出してきた。
ぬらりとした黒い身体に、鋭い牙。裂けた口。異様に長い前肢を振り回し、奇妙な叫び声を上げながら襲いかかってくる。
「魔物多数!」
前方の船で、獣人神官が口々に叫ぶ。その直後に獣人達が、一斉に浅瀬へ飛び込んだ。
ばしゃっばしゃっ!! 水音が激しく鳴り、膝下ほどの泥水を蹴散らしながら、獣人神官達が魔物へ突っ込む。足場の悪い船上より、浅瀬の方が戦いやすいのだろう。
曲刀が閃き。短槍が喉を貫き。黒い血が泥水へ飛び散る。
「トウジ!」「うん!」
シュクリが先に飛び出す。小さな身体が、水上を滑るように走った。次の瞬間には、魔物の頭上。曲鉈が閃き、首筋へ深々と突き刺さる。
トウジもそれへ続いた。浅瀬へ飛び込む。冷たい泥水が、脛へまとわりついた。
正面から飛びかかってきた魚型の魔物を、剣で受け流す。
がちんっ!! 鈍い衝撃。そのまま斜めへ切り払う。黒い液体が飛び散った。
大きく息を吐き出し、吸う……――甘い?!
トウジの喉奥へ、濃密な味が流れ込んできた。熟れた果実のような、発酵しかけた蜜のような、それを煮詰めたみたいな甘ったるい瘴気。
「っ……」 これまでに感じたことのない瘴気に、思わず顔をしかめる。
「トウジ、上!」 エストの声。とっさに体を躱し、頭上から落ちてきた魔物を切り飛ばす。
「らしくないです!」 エストの叱責が耳に痛い。「ごめん!」
続けざまに飛び込んできた魔物を数体屠ると、不意に襲撃が途切れた。
ばしゃり、と最後の一体が泥水へ沈む。
湿地へ、再び静寂が戻った。
だが、甘ったるい瘴気だけは、その場へ留まり続けている。霧とは違う、もっと濃く、もっと粘つくような薄墨色。
「シュクリ、長引くようだとまずい。エストのところへ」「ん」 シュクリは短く頷くと、泥水を蹴って後退した。尾が低く下がっている。かなり警戒している証拠だった。
船の周囲では、既にエストが結界を展開していた。淡い白光が、水面の上へ半球状に広がっている。
前方の二艘でも同様だった。人族神官二人がそれぞれ術式を維持し、その内側へ獣人神官達を退避させている。
「これぐらいの瘴気なら、十分持ちます」 エストが周囲へ聞かせるように告げた。落ち着いた声だった。
実際、その結界へ触れた瘴気は、じゅ、と薄く煙を上げながら押し返されている。
イリスだけは、まったく安心した顔をしていなかった。碧色の瞳が、じっと湿地の奥を見ている。
トウジは、一人だけ浅瀬へ立ったまま辺りを見回していた。
動きはない。水面も静かだ。
どうやらこれで終わり――。そう思った、その時、ゆらりと瘴気が動いた。
「……?」
最初、消えていくのかと思ったが、違った。
湿地の奥へ引くように揺れたかと思えば、またこちらへ戻ってくる。脈を打つみたいに、押し寄せて引いて、また押し寄せる。
トウジは眉を寄せる――こんな瘴気の動きは見たことがない。
その動きを見ているうちに、その脈動が頭の奥へ入り込んでくる。偏頭痛の前触れのような、粗密のある圧迫感が、ゆっくり脳を揺らし始めていた。
「トウジ」 イリスの声。瘴気の向こう側から、少しだけ心配そうに呼びかけてくる。
「何か聞こえてる?」
「……いや」 トウジは正直に首を振った。「なにも聞こえない。でも……」
視線が自然と湿地の奥へ向く。
「なんか、あるみたい」「大丈夫?」「うん……たぶん」
その瞬間だった。
どっ――――脈動していた瘴気が、一気に膨れ上がった。
「っ?!」 薄墨色の瘴気が、生き物みたいに広がり、そして、そのままトウジを包み込む。
「ぐっ……!」
咄嗟のことで避けきれず、トウジは瘴気をまともに吸い込んでしまう。
頭の中へ、強烈な酩酊感が流れ込んだ――甘い、熱い、重い。思考が、一気に飽和する。
この感覚には覚えがあった。解隊式の祝勝会で無理やり飲まされた、あの感覚。
「っ……ぁ……」 視界が揺れ、足元がおぼつかない。なのに身体は勝手に前へ進んでいた。
湿地の奥へ、瘴気のさらに向こうに。
泥水を踏み、葦をかき分け、トウジは無意識のまま、浅瀬の奥へ足を踏み出していく。
「トウジ!!」
誰かの叫びが聞こえた気がした。が、それも遠くに聞こえただけだった。
意識が、薄い膜越しになっていく。
「……つっ……」
左腕へ、鈍い痛みが走った。
反射的に、服の上から黒い筋へ触れる。その瞬間――
空気が軋んだ。
湿った泥の匂い。
顔へ飛び散る、生暖かい何か。
押し潰されるような圧迫感。
そして。
焼けつくような熱。
絶望、後悔、失望、落胆、悲観、悔恨、虚無、空白。
それらが濁流のように一気に流れ込み――
ぶつり、と途切れた。
気づくと、トウジは浅瀬の上へ仰向けに倒れていた。
頭の半分が水へ浸かっている――冷たい。なのに、頬を流れていく水だけ妙に温かかった。
バシャバシャと激しい水音が近づいてくる。
「トウジ!!」 目を向ける間もなく、シュクリが飛び込んできた。泥水を跳ね飛ばしながら膝をつく。
「ばか!」
開口一番、それだった。珍しく本気で怒っている。耳が完全に立っていた。
「無茶、ダメ!」「……ご、ごめん」
その後ろから、エストも駆けてくる。水をまったく気にせずにトウジの前へしゃがみ込んだ。
「ほんとうです!」 きつい声。「大馬鹿者です!」 顔は本気で怒っていた。
トウジは、ぼんやりと二人を見上げる。それから、ゆっくり身体を起こした。どうやら本当に酔っぱらっていた訳ではないらしい。
頭は重いが、身体に異常はない。左腕へ視線を落とす。服の下の黒い筋は、もう静かだった。
頬を流れていた涙を袖で拭い、トウジは立ち上がる。泥水が、ぽたり、と落ちた。
そして、トウジは二人へ、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
シュクリが、むすっとした顔のままそっぽを向く。
「……説教確定」「うん……」
エストは大きくため息をついた。
「本当に、心配したんですからね……」
その声は、最後だけ少し震えていた。
トウジは申し訳なさそうに肩を縮める。
それから顔を上げ、辺りを見回した。「……あれ?」 湿地が静かだった。
あれほど漂っていた甘ったるい瘴気が、綺麗に消えている。
霧だけが、静かに漂っていた。
「瘴気……消えちゃった?」
「みたいだね」 後ろからイリスの声。
ゆっくり浅瀬を歩いてくる。泥水に裾を濡らしながらも、いつもの調子で笑っていた。
笑っている……のだが。
「トウジ」
にこり。
「なにやったの?」
ちょっと怖かった。
「いや……えっと……」
トウジが困ったように視線を泳がせる。
イリスは、その顔をじーっと見つめた後、ふっと小さく息を吐いた。
「……ま、いっか」
だが、その碧色の瞳だけは、まったく笑っていなかった。
湿地を渡る風が、葦を揺らす。
ざわ、ざわ、と波みたいに広がっていくその音を聞きながら、トウジは無意識に左腕を押さえていた。服の下の黒い筋は、もう静かになっている。けれど――胸の奥には、さっき流れ込んできた感情の重さだけが、まだ沈殿したみたいに残っていた。
望楼で感じていた“なにか”。あの時、届きそうで届かなかったものは、きっと、あれだったのだ。
そこまでは分かる。しかし、なぜ自分にそんなものが流れ込んできたのか。それだけは、どうしても分からなかった。
瘴気と何か関係があるのだろう。左腕の黒い筋が反応したのも、その証拠みたいに思える。
ここが百年前の古戦場だからなのか。獣人族、人族、老師、いくつもの言葉が頭へ浮かぶ。けれど、どこかで繋がりそうなのに、あと少しのところで噛み合わない。霧の向こうへ手を伸ばしているのに、指先だけ届かないみたいな。
「……トウジ?」 エストが少し心配そうに顔を覗き込んでくる。
「あ、ううん。大丈夫」
本当に大丈夫かどうか、自分でもよく分からなかった。だが、そう答えるしかない。
シュクリは黙ったまま、じっとトウジを見ていた。その耳が、ぴくりと小さく揺れる。
その横で、イリスだけはまだ難しい顔をしていた。何かを考えている。けれど、それを口にはしない。ただ一度だけ、トウジの左腕へ視線を落とし――すぐに逸らした。
「皆さん、そろそろ巡察を再開します」
灰色の耳の見習い神官が、少し遠慮がちに声をかけてきた。周囲では、他の巡察神官達も既に動き始めている。
結界を解き。船を引き寄せ。浅瀬へ散った装備を回収していた。
湿地は、何事もなかったみたいに静かだった。
さっきほどの出来事が幻だったみたいに。




