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5-11 聖環院望楼

 獣人の見習い神官に案内され、一行は支院の奥へ進んでいった。


 望楼へ続く通路は細く、ほとんど石の塔そのものだった。


 遥かな上まで続く手すりのない螺旋階段に、塔の所々に開けてある小窓から灰色の光が差し込んでいた。


 湿地から吹き上げてくる風が、塔の中を低く鳴り抜けていく。


「高……」


 トウジが見上げる。


「昔は見張り台も兼ねていたそうです」 前を歩く見習い神官が答えた。「今は主に湿地側からくる魔物の監視用です」


 やがて階段を登り切り、望楼の上へ出た。


 風が吹き抜けた。


「――――ぁ」


 トウジが思わず息を呑む。


 ナグルの東側が、一望できた。


 崖下には、東西からの二つの大河がぶつかり合い、一つの巨大な流れとなって南へと緩やかに蛇行している。その先には、果ての見えない湿地帯。水と泥。葦草。黒い森。幾筋もの川筋が、銀色に光りながら複雑に絡み合っていた。


 さらにその向こう、空気の霞んだ彼方には、森の連なりの間から水面らしき煌めきが見える。


「湖……かな」「内海へ続く大湖です」 見習い神官が静かに答えた。


 左手の奥には、夏だというのに雪を頂いた巨大な山脈が連なっていた。青く霞んだ空の中へ、白い峰々が溶け込んでいる。


 イリスは何も言わずに、その景色を見ていた。ただ風に耳を澄ませ、静かに湿地を見つめている。時折、その視線がトウジへ向いた。


 シュクリも湿地の方をじっと見ていた。


 エストは、二人の横顔をちらりと見た後、今度は遠くの湿地へ目を向けた。


 侯爵家で学んだ歴史の中に、獣人族との戦争も当然含まれていた。救国の英雄により戦争が終結した、と教わった記憶がある。ただその記憶の中の熱さと、眼下へ広がる湿地の静けさが、うまく結びつかない。


「……あそこ」 見習い神官が、湿地の一角を指差した。「百年前の戦場跡、と言われています」


 トウジが驚いて見習い神官を見る。若い獣人は、トウジを見上げ、「みなさん同じ質問をされます」とだけ答えた。


 トウジは頷き、見習い神官の示した湿地に目を戻す。どうみてもただの湿地にしか見えない。が、そこだけ妙に黒く沈んで見えた。


「人族とヴァルク族が、最後まで踏み止まった場所だと聞いています」


 静かな声だった。


「獣人達の群れが押し寄せ、人族軍は湿地で崩れた。ヴァルク族がそれを何度も立て直したそうですが……押し返しきれなかった、と」


 シュクリの耳が、ぴくりと揺れる。


「……裏切り者」


 見習い神官は少しだけ黙った。


「今でも、そう言う者はいます」


 その声には、感情を押し殺したような平坦さがあった。


「“ヴァルク族さえいなければ、そもそも戦争は起こらなかった”――そう伝える群れもあります」


 風が、望楼を吹き抜ける。


「逆に、“ヴァルク族がいたから生き残れた”と語るところもあります」


 シュクリは答えなかった。ただ、尾の先だけが小さく揺れていた。


 肯定もあれば否定もある。それはあたりまえのことなんだ、とわかったかのように。



 風が吹く。トウジには、それが湿地のざわめきみたいに聞こえていた。


 耳鳴りみたいな圧が頭の奥に漂っていて、何かが伝わりかけて、届く寸前で遮られる。


 もどかしい。


「……違う」 トウジが小さく呟く。「ここじゃ、ダメなんだ……」


「え?」 エストが振り返る。トウジが難しい顔をして湿地を眺めていた。


 イリスは、その横顔を黙って見ていた。碧色の瞳が、わずかに細められる。そして、すぐに視線を湿地へ戻した。


 


「獣人族にも、それぞれ言い伝えがありますからね」


 後ろから、穏やかな声がした。


「氏族によってまったく逆の解釈をしているというのも珍しくありません」


 振り返る。支院長だった。いつの間にか、望楼へ上がってきていたらしい。


「この支院に残る資料も、いろいろ調べましたが……どれも少しずつ違うんですよ」


 支院長は、湿地を見下ろしながら続ける。


「ただ、瘴気災害についてだけは、かなり明瞭に記録が残っています」


 その声音だけが、少し重くなった。


「人族軍が瓦解し、ヴァルク族が撤退戦を支えていた。そこへヴァルグレイ卿率いる魔法士達の広域魔法が投入された」


 エストが小さく息を呑む。


 学んだ歴史。だが今、その話は“英雄譚”ではなく、湿地の向こうに沈んだ現実として語られている。


「一時は獣人側の勢いも止まり、人族側は退却をしようとしたそうです」


「でも……」「ええ」 支院長が頷く。


「そこで瘴気災害が発生した」


 風が吹いた。湿地の奥が、どこか黒く揺らめいて見える。


「大量の魔物が出現し、両軍とも完全に混乱状態になった。結果として、魔物との戦いで双方とも壊滅的損害を受け、戦争そのものが終結した――そう記録されています」


 トウジは、遠くの湿地を見つめたままだ。


「……老師は、失敗したんですか?」 ぽつり、と口から零れる。「でも、老師は……救国の英雄、っと」


 支院長は少しだけ苦笑した。


「策に失敗してほぼ全滅した、とは記録に残せませんからね」 静かな声だった。


「王権に傷がつく」


 エストが、わずかに視線を落とす。教えられてきた“正史”が、少しずつ輪郭を失っていく。


「記録とは、そういうものです」


 支院長もまた、湿地を見下ろしたまま言った。


「それが全て真実かどうかは、誰にも分かりません」


 風が吹き抜ける。湿地の葦が、遠くで波みたいに揺れていた。


「あの……」 トウジが、おずおずと口を開く。


「ん?」


「あそこに、行くことってできますか?」 湿地を指差した。


 一瞬、望楼の空気が止まる。


「トウジ?」 エストが怪訝そうな声を上げた。「なんで急に……」


 シュクリは何も言わなかった。ただ、黙ってトウジを見上げる。その目は、少しだけ真剣だった。


 イリスは――小さく目を細めた。「あぁ、やっぱり」


 支院長は、少し驚いたようにトウジを見る。


「ええ、お望みならば行けますよ」


 だが、その後に少し言葉を選ぶような間があった。


「ただ……あまり面白い場所ではありません」


 視線の先には、広大な湿地。静かで、重くて、どこか黒ずんで見える土地。


 トウジは、それでも頷いた。


「それでも……行ってみたいです」――ここから見ているだけでは届かない。


 支院長は、しばらくトウジの顔を見ていた。


 その後、静かに息を吐く。「……分かりました」


 そして近くに控えていた見習い神官へ顔を向けた。


「巡察隊の予定を確認してください。湿地側へ向かう隊があれば、同行許可を出します」「はい」


 見習い神官は一礼して、すぐ塔の階段へ消えていった。


「ありがとうございます!」 トウジが頭を下げる。支院長は苦笑した。


「若い人は、こういう話を聞くと行きたくなるものですからねぇ」「そういうものなんですか?」「ええ。私も昔はそうでした」


 どこか懐かしそうだった。


 エストはまだ納得していない顔をしている。


「危険ですよ? 湿地巡察は、軽々しくついて行くようなことじゃ――」


「わかってて行くんでしょ?」 イリスが横から口を挟む。


「……イリス」「だって、もう顔がそうなってるもん」


 イリスは楽しそうというより、少し困ったみたいに笑っていた。


 その横で、シュクリがぽつりと呟く。


「……トウジ、変」「えぇ?!」「なんか、湿地見て、ずっと変」


「う……」


 否定できなかった。


 でも……どうしても行きたい、行かなければならない。


 まるで湿地の向こう側から、何かに呼ばれているかのように。




 湿地巡察は、二日後に予定が入っていた。


 その話を聞いて、露骨にほっとした顔をしたのはエストだった。


「よかった……準備時間が取れます」 すぐに巡察担当の神官と打ち合わせへ向かっていく。


 支院の巡察神官は、エストの所属と階位を聞いて慌てたらしい。王都聖環院の聖女付き、聖騎士団の小隊長格。当然のように指揮権を譲ろうとしたのだが――。


「いえ、現地経験はそちらの方が上です。私は補佐に回ります」


 エストが丁重に断った結果、最終的には、


「トウジ達の扱いは私が責任を持ちますので、通常巡察として扱ってください」


 という形で落ち着いたらしい。


 さらにトウジとシュクリのシグルを確認した巡察神官が、「戦力増えるの助かるな……」


 と、安心した顔をしていたとか。


 湿地巡察は、それなりに危険な仕事らしかった。


 そんな訳で、巡察まで一日空きができた。


 自由行動。


 ――のはずだった。だが、その日の夕方あたりから、イリスが妙にエストへ何かを囁いている。こそこそ。ひそひそ。


 そして翌朝、朝食の席へ現れたイリスは、やたら機嫌が良かった。


「許可もらえたよ」「そうですか」 エストも妙に満足そうである。


 その瞬間、シュクリの耳が、ぴくり、と立った。


「……部屋、戻る」


 朝食を半分残したまま立ち上がろうとした。


 が。「はい捕まえた」「逃がしません」 左右から、イリスとエストに首根っこを確保される。


「ぬぁっ?!」 完全に挟み撃ちだった。


「女の子なんだから、身ぎれいにしとかないとね」 イリスがにっこり笑う。


「身だしなみは大切です」 エストも真顔で頷いた。


「やだ」「ダメです」「大丈夫大丈夫、すぐ終わるから」「絶対、うそ」


 シュクリは本気で嫌そうだった。尾の毛が逆立っている。


「汚れて、ない」「汚れてる汚れてないの話じゃないの」「そういうことです」「理解不能……」 ずるずると連行されていく。


 ナグル支院は水が豊富で、沐浴設備までかなり整っているらしい。イリスからすれば、見逃す理由がなかった。


 そのまま曲がり角の向こうへ消えかけたところで。


「あ、トウジも後でちゃんと入ってくださいね」


 エストが振り返って念を押した。


「え?」「もちろん」イリスまで頷く。


「え、なんで?!」「旅の間ずっと荷馬車だったじゃない」「湿地巡察前ですし」「いやでも俺、ちゃんと手拭いで拭いたりしてたよ?!」


「それは“最低限”です」 エストがきっぱり言った。「ちゃんと洗うのとは別問題」 イリスまでうんうん頷いている。


「いやでも俺――」「ちゃんと洗ってくださいね?」 にっこり、二人同時だった。


「……はい」 逆らえない。


 トウジが遠い目をしている横で、


「……トウジ、一緒」


 シュクリが、少しだけ仲間を見る目をしていた。

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