5-10 ナグル
滔々と流れる大河の右岸を大陸古道は北へ続いていた。
ラグナを出てから、一行はしばらく海沿いの街道を東へ進み、その後、ナグルから流れ出る大河へ沿うように北上してきた。
湿地帯を抜ける風は重く、水と泥の匂いを含んでいる。
河は広かった。対岸が霞むほどの川幅を持ちながら、それでも絶えず流れ続けている。
時折、大型の河船がゆっくりと水面を進んでいった。積荷を満載した交易船だ。甲板の上では、獣人達が怒鳴り声を飛ばし合っている。
「すごい量……」
イリスが、その様子を見ながら呟く。
「ナグルは、この辺りで唯一の都市ですし、この河が重要な流通路なんでしょうね」
エストが答えた。
シュクリは、ラグナを出てから妙に静かだった。獣人達の空気。街道を行き交う群れ。獣人語の響き。目に入るそれらを一つ一つ、ただ受け取るように歩いていた。
やがて、街道の先に、巨大な岩丘が見え始めた。最初は、ただの崖のようにしか見えなかった。だが近づくにつれ、その全体像が少しずつ姿を現していく。
二本の大河がぶつかり合い、一つの巨大な流れへ変わる、その合流地点。その切り立った岩丘へ、石造りの街並みが幾重にも張り付いていた。崖肌を縫うような坂道。河へ突き出した荷揚げ場。岩壁へ直接穿たれた倉庫群。
そのさらに上。丘の頂上近くには、白灰色の巨大建築が街全体を見下ろしている――聖環院ナグル支院。その中央には一本の望楼がそびえていた。曇天の下でも、その塔だけは妙に空へ近く見えた。
「……あれが、ナグル」トウジがぽつりと呟く。
老師が、シュクリの祖父の代が戦ったという古戦場。あのナグルが人族の東征の限界点だったということぐらいは知っている。
二本の大河。湿地。高低差。限られた渡河地点。そして、河沿いからしか近づけない街道。
「人族があそこに籠ったって理由が、分かるよね」
トウジの呟きに、エストが小さく頷いた。
「天然の要害というのもありますが、今も昔も西部交易の要でもありますしね」
街へ近づくにつれて、人と物の流れは急激に増えていった。
河港には、大小様々な河船がひしめき合っている。獣人族の交易船。西方商人の荷船。湿地帯向けの平底船。岸壁には、木箱、麻袋、鉱石、毛皮、燻製肉、香辛料が山のように積み上がっていた。
獣人語と西方語が入り混じる喧騒。巨大な滑車の軋み。水車の回転音。そして、絶え間なく響き続ける水音。百年前も今も、この街にはきっと同じ音が流れ続けているのだろう。
イリスは、ナグルに近づくほど口数が減ってきていた。さかんに、河向こうの湿地帯を気にしている。
「……もう、五月蠅いんだから……」 誰にも聞こえないように精霊語で小さく呟いた。
エストは、そんなイリスを黙って見ていた。
一行は、そのまま大陸古道を外れ、河港脇の石畳へ入っていく。
坂道だった。崖へ沿うように、ぐるぐると街の上層へ続いている。
石壁。水路。古い倉庫。補修を重ねた防壁。そのどれにも、“長く使われ続けてきた街”の気配が残っていた。
特徴的だったのは、水を上へ運ぶ巨大な揚水機だった。河沿いに設置された幾つもの大水車が、ぎし、ぎし、と重たい音を立てながら回り続けている。
汲み上げられた水が木樋を通って上の段へ送られ、また次の揚水機へ。まるで段々畑のように、丘の上へ上へと水が運ばれていた。
「すご……」 トウジが思わず見上げる。街そのものが、一つの巨大な水運機構みたいだった。
シュクリは、街の獣人達へ視線を向けていた。
河港で働く獣人達。荷を担ぐ者。怒鳴り声を飛ばす者。武装した傭兵達。群れ単位で動いている者も多い。自分と同じ耳。同じ尾。けれど、自分とは違う土地で生きてきた獣人達。
――同じなのに、遠い。
坂を登るにつれて、東側の湿地帯が少しずつ視界へ広がっていく。
灰色の空の下。果ての見えない湿地。水と泥が入り混じり、細い川筋が蜘蛛の巣みたいに無数に走っている。背の低い葦草が風に揺れ、その向こうには黒ずんだ森が点々と沈んでいた。
ところどころ白い霧が漂っている。だが、ただの朝靄ではない。湿地全体が、どこか薄暗く沈んで見えるのだ。
鳥の鳴き声は遠い。風も弱い。なのに、湿地からざわつきのようなものを感じて、トウジは、無意識に左腕へ触れていた。
「……よっぽどなのかなぁ」 ぽつり、とイリスが呟く。「え? 何?」 トウジが振り返る。
だがイリスは、それ以上は何も言わなかった。ただ、湿地をじっと見つめている。
エストだけが、小さく眉を寄せた。
さらに坂を登っていく。やがて、街の最上層近くで周囲の建物より一段高い石壁が見え始めた。
聖環院ナグル支院がもう目の前だった。白灰色の石で築かれた巨大な建築物。王都の聖環院のような上品なものではなく、壁は厚く、窓は小さく、まるで神殿と砦を合わせたような重厚な造りをしている。
その中央には、空へ突き刺さるような一本の望楼が、湿地帯を見下ろすように建てられていた。
門をくぐった瞬間、イリスが、ふっと息を吐いた。
トウジは周囲を見渡していた。王都にいた時に感じていた耳鳴りみたいな曖昧な圧――それが、ここへ入った途端、急にはっきりと耳の奥へ触れてきた気がした。
「……あー、やっと落ち着いた~」 イリスの声が急に軽くなる。そのまま周囲をきょろきょろ見回し始める。
「わ、見てエスト。あっちの水路、古代式だ」「イリス、急に元気になりましたね……」 エストが呆れたように言った。だが、その声音には少しだけ安堵が混じっていた。
聖環院ナグル支院の内部は、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。
重い扉を潜り抜けた先は、分厚い石壁に囲まれた水の間になっている。
磨かれた石床の中央を、細い水路が幾筋も走り、絶えず清水が流れていた。天井近くの小窓から落ちる薄い光が水面へ反射し、白灰色の空間へゆらゆらと揺れている。
水の音だけが響き、ここへ入った瞬間に世俗の音がすっと遠ざかる。
「……静か」シュクリが小さく呟く。
イリスは、水音へ耳を澄ませているかのように、しばらく黙っていた。外へいた時より、感覚を研ぎ澄ませているみたいだった。
水の間を抜けると、その先に祭壇の間が広がっていた。
高い天井。白い柱列。そこには、四柱神それぞれの祭壇が設けられている。
金属装飾の多い第一柱ヘイムラド。
蒼い水晶を埋め込んだ第二柱ヴォルグラム。
木と緑石で組まれた第三柱ヴェイル。
白銀の布が幾重にも垂らされた第四柱アエルナ。
どの祭壇にも、小さな灯火が静かに揺れていた。
祈りを捧げる神官。黙って頭を垂れる旅人。薬を供える獣人の老女。
そこだけ切り離されたみたいに、時間がゆっくり流れている。
しかし、祭壇の間を抜けた途端に、空気が変わった。
「そっち運べ!」「薬湯まだ足りません!」「湿地南側の巡察隊、戻りました!」
一気に現実へ引き戻される。
神官達が忙しなく行き交い、書類や薬箱を抱えて走り回っていた。
帳簿を抱えた獣人の見習い。鎧の上へ神官服を羽織った男。濡れた長靴姿の巡察神官。負傷者の手当てをしている者までいる。
王都の聖環院とはまるで違う。ここは祈る場所というより、“働く場所”だった。
「……ほんとに砦みたい」 トウジが思わず呟く。
「ナグル支院は、湿地巡察や交易路支援も担当していますから」 エストが周囲を見ながら答える。「王都とは役割がかなり違うんです」
その時、通りかかった神官をエストが呼び止めた。
「失礼します。支院長へ王都からの書状をお届けに来ました」
「あぁ、少々お待ちを」
神官は慣れた様子で頷き、奥へ小走りで消えていく。
その背中を見送りながら、トウジは周囲を見回した。
神官服を着ているが、歩き方、立ち方、荷物の持ち方すら無駄がない――かなり、鍛えてる?
やがて先ほどの神官が戻ってくる。「支院長がお会いになるそうです。こちらへ」
一行は、その神官に案内されて奥へ進んでいく。
途中、壁へ掛けられた湿地周辺の地図や、巡察記録らしき板が何枚も目についた。
案内された先は、重厚な木扉の前だった。神官が軽く扉を叩く。
「失礼します。王都からのお客様です」
「どうぞ」 落ち着いた声が返ってくる。
中へ入ると、そこもまた完全に仕事部屋だった。
壁一面の書棚に、机の上の積み上がった書類、無造作に置かれた湿地巡察路の地図、窓際には泥の付いた長靴まで置かれている。
机の向こう側で、初老の神官が顔を上げた。日に焼けた顔に、柔らかな物腰だが、その立ち姿には妙な隙のなさがある。
「ナグル支院長、ガルディア様ですね」
エストが一礼する。「お名前はかねがね」
「これはご丁寧に」 支院長は穏やかに笑った。「辺境の変人、くらいにしか聞いておられないでしょう?」
エストが少しだけ困った顔をする。
「……そのように聞いております」
「はっはっは」 豪快に笑う。
「昔は各地を回る聖騎士をしておりましてね。気づけばこんな東方まで流れてきてしまいました」
その笑い方が妙に気さくで、トウジは少し拍子抜けした。
エストがシュクリから書簡筒を受け取り、差し出す。
「王都聖環院よりの書状です」「ご苦労さまでした」
支院長は封印を確認し、受取書に受領印を押して返した。
「よしっ……」 トウジとシュクリは、顔を見合わせて小さく頷き合う。
「いつまでこちらに?」「二、三日ほど滞在する予定ですが」「お好きなだけどうぞ」
支院長は、からりと笑った。
「部屋はいくらでも空いてます。この大きさの割に、ここの人数は少ないですから」
「あの」 トウジが、おずおずと口を開いた。「望楼へ、登らせてもらえませんか?」
支院長は少しだけ目を細めた。だが、すぐ穏やかに頷く。
「ええ、もちろん構いませんよ」「ほんと?」「はい。すぐ行かれますか?」
トウジが皆を見る。シュクリは静かに頷いた。イリスは既に興味津々である。
「もちろん行く!」 エストが苦笑する。
支院長は、くすりと笑った。
「では案内をつけましょう」
扉を自ら開けて、近くを通りかかった獣人の見習い神官へ声をかける。
灰色の耳を持つ若い獣人だった。
「この方達を望楼へ案内して差し上げなさい」
見習いは黙って頷き、人語で静かに言った。
「……こちらへどうぞ」
その声は、湿地の風みたいに静かだった。




