1-4 馳駆
陣幕が大きく揺れた。
飛び出していったトウジの背が、布の隙間から一瞬だけ見え、すぐに闇へ溶ける。
残されたのは、張りつめた沈黙だった。
「……勇者殿は、大丈夫なのでしょうか?」
総司令が、わずかに眉を寄せる。その視線の先には、まだ揺れる幕の端。
あまりにも迷いのない飛び出し方だった。
まるで、何かに突き動かされるように。
「心配はいらぬ――と言いたいところですがの」
老師は細く目を伏せた。
杖を握る手に、わずかに力がこもる。
次いで、視線だけを横に流し、オルドへ向ける。そして、ほんのわずかに指を動かした。人差し指と中指を立て、北を示すような小さな仕草――長年連れ添った者にしかわからない、無言の合図だった。
オルドが即座に顔をしかめる。
「……わーってるよ」
大きく肩をすくめ、鼻を鳴らした。
「その指先ひとつで人を動かそうとするの、ほんとやめろ」
「年寄りは口数を減らすものじゃて」
「減ってねぇだろ。むしろ増えてる」
ぶっきらぼうに吐き捨てると、オルドは大剣を肩に担いだ。
「だが、まあ……あいつ一人で突っ込ませるわけにもいかねぇ」
低く、しかしどこか弟を気遣う兄のような声だった。
「先に行くぞ」
「頼みますぞ」
老師が静かにうなずく。
オルドは片手をひらりと上げ、そのまま陣幕をくぐって外へ消えた。
重い足音が、遠ざかっていく。残されたのは、老師と総司令の二人。沈黙ののち、老師がゆっくりと口を開いた。
「――で、わしに何か用があったのでは?」
総司令は居住まいを正し、地図を畳みながら頭を下げた。
「勇者殿が向かわれた先ではありますが……ヴァルグレイ殿にも、ぜひ出ていただけないかと」
「ふむ」
老師の返事は短い。
その目は、すでに何かを測るように細められていた。
「かつて救国の英雄と謳われた御身にお力添えをいただければ、この場も必ず収まりましょう」
細められた目が、チラリと総司令に視線をくばる。
「……昔話は、そこまでで」
静かな声だった。
「わかりました。任されましょう」
「ありがとうございます!」
総司令の顔が明るくなる。
だが、老師はすぐに続けた。
「総司令殿に、一つお願いがありますのじゃが」
「なんなりと」
「腕の立つ聖騎士を数名、後詰めに貸していただけませんかの」
総司令がわずかに首をかしげる。
「……その程度であれば容易いことですが」
そこまで言ってから、怪訝そうに眉を寄せた。
「しかし、なぜ聖騎士を?」
老師は答えない。
ただ、ゆっくりと杖を握り直した。
節くれだった指先に、微かな震え。
「なに、本当に万が一の備えでしてな」
穏やかな声音。
だが、その目だけは笑っていなかった。
総司令の胸に、説明のつかない違和感が走る。
老師は視線を北へ向ける。
トウジが駆けていった方角へ。
「願わくば、わしの杞憂で終わってほしいものじゃ」
小さく漏れたその独白は、祈りにも似ていた。
冷たい夜気が肌を打つ。
北の空には赤黒い陽炎が揺れ、その下に魔物が蠢いている。
腰の剣を確かめて、勇んで駆け出そうとしたその時。
トウジの肩を横から大きな手が掴んだ。
「待てっ、って言ってるだろうが! このまま走ってたら間に合わねぇ! 馬を使うぞ!」
「馬なんて乗ったことありませんよ!」
思わず振り返る。
焦りで声が上ずる。今すぐ行かなければ――頭の中では、その思いだけが暴れていた。
オルドは鼻を鳴らす。
「俺だって乗れるんだ。お前ならすぐ乗れるようになるって!」
「無茶言わないでくださいよ!」
ジタバタするトウジを握力一つで抑え込みながら、オルドは近くの兵士へ向かって空いた手を振った。
「おい! 総司令の命だ! 北の村へ急行する、軍馬を二頭出せ!」
「は、はっ!」
兵士が駆けていく。
ほどなくして、夜闇の向こうから蹄の音が近づいてきた。
軍馬が二頭。一頭は正規の騎乗用で、もう一頭は荷を運ぶ輜重隊の馬だった。鼻息も荒く、夜気に白い息を吐いている。
「いいか、またがってしまえばなんとかなる!」
トウジの肩をようやく放したオルドが、輜重馬の手綱を引き寄せながら言う。
「行きたい方向へ鼻面を向けて――って、おい!」
説明の途中だった。
トウジは半ばやけくそで馬の背へ飛び乗った。
次の瞬間には、踵で腹を蹴っていた。
軍馬が嘶く。
そのまま、一気に駆け出した。
「の、乗れてるじゃねーか……!」
オルドが目を剥く。
「おい! 俺を置いていくな!」
慌てて自分も馬に飛び乗り、後を追う。
八つの蹄が地面を叩く。
二頭の馬が本営から全力で駆け出していった。
トウジ自身も驚いていた。馬に乗ったことなどない――少なくとも、覚えている限りでは。
なのに、体が自然に動いていた。
手綱の引き方、重心の預け方、足で速度を伝える感覚。すべてが、最初から知っていたように馴染む。
馬も賢い。
乗り手の焦りさえ汲み取るように、迷いなく北へ駆ける。
「……なんで」
思わず呟く。
自分の知らない自分――それは、答えのない問いかけだ。
胸の奥の熱だけが、静かに返事をするように脈打っていた。
森の隘路を、馬蹄の音を響かせ風のように駆け抜ける。
街道は暗い。
本来なら夜目など利くはずがない。
だが、トウジの視界の先には揺らめくものがあった。
陽炎――赤黒くほの暗い揺らぎで、しかも少しずつ北に向かって動いている。その先にはきっと……。胸が嫌な音を立てる。
やがて森の闇が疎らになってきた。
木々の向こうが赤い。
村だ。




