4-7 帰らずの森 その4
シュクリを追いかけて、トウジが飛び出していったのを見たイリスは、胸元へしがみついていた妖精たちへ、小さく何かを囁いた。その声は、人の言葉には聞こえない。
囁きを聞いた妖精たちが、一斉に飛び立つ。
青い光。紫の光。淡い金。小さな光たちは、弾かれたように森の奥へ飛翔していった。
イリスも立ち上がる。そのまま、昨夜と同じ旋律を口ずさみ始めた。けれど――今夜のそれは、決して穏やかなものではなかった。
最初は、アンダンテ。アッチェレランド、ストレット、そして、プレスト。焦り、もどかしい思いをそのまま森へと呼びかけるように。
闇の中にぽつりと光が灯る。最初は一つ。そして二つ、三つ……。やがて無数の妖精たちが、森の奥からイリスの元へ集いはじめた。
「お願い!」
その声に応えるように、青、翡翠、淡い銀、色とりどりの小さな光の群れが、残像を引きながら一斉に森の奥へと翔けていく。
イリスは、それを見届けると。その自らも光の川の一部となって森の中へ駆け出した。
シュクリは速かった。本気を出した獣人族が、森の中でどれほど速いのか。トウジは、初めて思い知る。
小柄な身体が木々の間をすり抜ける。獣道ですらない斜面を飛び越え、根を蹴り、枝を避ける。まるで、何もない平原を走っているかのように駆け抜けていく。
「シュクリ!!」 呼びかけても、返事はない。
木々が視界を遮る。姿が見えたと思った次の瞬間には、もう消えている。
差が、少しずつ開いていった。
速い――トウジが歯を食いしばる。このままじゃ見失う。焦りが胸を焼く。
その時だった。
背後から高速で羽ばたく音が近づいてくる。音がだんだんと高くなり――耳元を過ぎた途端に、低く間延びしたようにトウジの前方に延びていった。青や紫の光を灯した妖精たちが、光の尾を引きながらトウジを追い抜いていく。
そのうちの一匹が、トウジの目の前でくるりと回った。青い燐光。小さな羽。まるで、「こっち」と言わんばかりに。そして再び森の奥へ飛ぶ。
――トウジは、その光を追った。枝が顔を掠める。低木を押し分ける。足元の根へ躓きそうになりながらも、ひたすら走る。
妖精の光は尽きなかった。次から次へとトウジを追い越し、その先にいるだろうシュクリへと飛翔していく。暗い森の中に光の帯ができあがる。まるで森そのものが、道を示してくれているようだった。
やがて、光が、一斉に高度を下げた。
鬱蒼と茂る草木の向こうに、開けた空間。トウジは枝を押し分け、その先へ飛び込んだ。
そこに、シュクリがいた。地面へ膝をつき、肩が、大きく上下していた。呼吸は荒く、耳は完全に伏せられ、尻尾は地面へぺたりと落ちたまま動かない。
妖精たちが、その周囲を不安げに大きく旋回していた。
「シュクリ!」 トウジが叫ぶ。シュクリの身体が、びくりと震えた――振り返らない。
「シュクリ……」 もう一度。今度は、できるだけ優しく呼びかけた。
シュクリの肩が、小さく震え――ゆっくりと振り返った。
虚脱しきったような顔だった。けれど、トウジの姿を認めた瞬間、その表情がくしゃりと崩れる。
「トウジ……」 掠れた声。「トウジ……怖い……ここ、怖い……」
震える両手を、トウジに向けて必死に伸ばそうとする。だが、無理な体勢だった。
力の入らなくなった身体が、そのまま前へ崩れる。
「っ!」
トウジは慌てて駆け寄り、シュクリを抱きとめた。小さな身体が、ひどく冷えている。
「トウジ……怖い、怖い……」 シュクリが、胸へ縋りつく。服を掴む指が震えていた。伏せられた耳の先も震えている。獣人特有の鋭い感覚が、この森の何かを感じて、それで怯えているようだった。
「大丈夫」 トウジは、ぎゅっとシュクリを抱きしめた。「大丈夫だから。ボクがここにいるから」 小さな身体を包み込むように。何かから庇うように。
シュクリは、震えながら何度も名前を呼ぶ。「トウジ……トウジ……」 掠れ、切なげな小さな声が耳朶を打つ……。その時だった。
――ズクン。
森が、脈打った。黒く。重く。世界そのものが、一度だけ鼓動した。
「――っ!」
総毛が泡立つ。左胸の奥が、ぎりぎりと軋んだ。シュクリを抱きしめていた左腕へ、鋭い痛みが走る。ズキリ。ズキリ。ズキリ。まるで、何かが内側から警鐘を鳴らしているみたいだった。
周囲を旋回していた妖精たちが、一斉に空中へ跳ね飛ばされる。小さな羽音が大きく乱れる。
木鳴りの音が、森の奥へ波紋みたいに広がっていった――ギィ……、ミシ……。 古木たちが軋み、森全体が息を潜めた。
トウジは顔を上げた。
見た。目の前。ほんの数歩先
――そこに、“いた”。
巨大なヘラジカのような生き物だった。うつ伏せになっている。黒い、夜よりなお深い色をした巨体。その身は、森の大地へ半ば沈み込むように横たわっていた。
そして、角――あまりにも巨大な角が、夜空へ向かって枝分かれしている。けれど、その輪郭が定まらない。枝のようにも見え、空間そのものが裂けているようにも見える。先へ行くほど輪郭が夜へ溶け、黒々とした空と境目を失っていた。
薄く開いた瞼の下、黒曜石みたいな瞳だけが、静かにこちらを見ている。
距離感が狂う。近い。いや、遠い。すぐ目の前にいる気がするのに、遥か彼方の姿を見ているようでもあった。
理解した。
直感だった。
――見てはいけない。それは、人が、触れてはいけないものだった。
畏怖。そんな言葉ですら足りない。世界のどこかに、ただ在るもの、触れてはいけないもの。
けれど、もう見てしまった。目が、離せない。左胸の奥の締め付けが、どんどん強くなる。
苦しい。なのに。
目を逸らそうとするほど、その黒い瞳へ引き込まれていく。そこに在ることが当たり前で、その瞳へ沈んでいくことこそが幸福で、森へ溶けて、自分が消えて……それでいいと、心のどこかが囁き始める。
ふわり、と、視界が暗く閉ざされた。「あ……」
柔らかな感触。誰かの手。同時に、ぽとり――胸へ強烈な悲しみが落ちてくる。泣きたくなる。遠くへ置いていかれてしまう……。
「見てはだめ」 穏やかなイリスの声。トウジの背後から、両手でそっと目を覆っている。
「このまま、ゆっくり下がるよ」 静かな声が続く。「シュクリはそのまま」
トウジは、シュクリを抱えたままゆっくり立ち上がった。イリスも後ろについたまま、一緒に身体を起こす。
三人で、少しずつ後ろへ下がる。一歩、また一歩。
イリスの指の隙間に、淡い光が揺れていた。妖精たちだ。小さな燐光たちも、周囲を漂いながら一緒に後退していく。
妖精達の羽音、自分たちの足音以外、耳に届いてこない。森は深々とした静けさをたたえていた。
「あ……」――あれが目を閉じた、もう興味を失ったかのように。
目を覆われていても、それだけはわかった。周囲が緩やかに閉じていく。ただそこに在った気配もだんだん消えていき、左胸の奥の締め付けも徐々に引いていった。
二歩か、三歩ほど下がったところで、イリスの手が、そっと離れた。
目の前に広がっているのは、ただの森だった。黒い木々。夜の闇。静かな風。そこにはもう、普通の森しかない。
シュクリは、まだトウジへしがみついたまま、小さく震えている。
トウジは、そんなシュクリの背をゆっくり撫でながら、イリスを振り返る。
「……今の、なんだったの」
イリスは少しだけ困った表情を見せた。
「この森に、いてはいけない存在」
静かな声だった。
「いてはいけない……?」
「うん」 小さく返事を返すと、イリスは口を結んだ。
トウジは、もうこれ以上は聞いてはいけない気がした。左胸の奥が、まだ重い。けれど――「でも……ただ見ていただけだったね、こちらを」ぽつりと呟く。
シュクリが、胸に埋めていた顔を上げ、信じられないものを見るような目をした。
「……怖かった、のに……?」
「いや、なんていうか……」 うまく言葉にできない。
怖かった。あれは確かに怖かった。でも――敵意とか、殺意とか、そういう類のことは一切感じられなかった。
「……たまたま、あそこにいたのかな、というか」
「……信じ、られない」
そう言うとシュクリはまたトウジの胸に顔を埋めた。




