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4-6 帰らずの森 その3

 探査二日目の朝。


 まだ夜の気配が色濃く残る森に、深い朝靄が降りていた。


 白い霧が地を這い、焚火の残り火すらぼやけて見える。


 その薄靄の中を、昨夜の妖精たちが静かに漂っていた。


 数は、かなり減っている。昨夜はあれほど賑やかだった光たちも、今はぽつりぽつりと森の闇へ溶けるように浮かんでいるだけだった。


 小さな妖精たちは、夜の間は焚火の周りを舞っていたのに、今はどこか落ち着かないように低く飛んでいた。時折、森の奥を気にするみたいに。


 毛布にくるまって眠るシュクリとイリスの周囲にも、数匹の妖精たちが寄り添うように漂っている。


 トウジは、その低い羽音で目を覚ました。


 冷たい。空気が妙に冷えている。


 身を起こすと、妖精たちが一斉にこちらを見た。


 鈴みたいだった羽音が、いつのまにか止んでいる。


 森が静かだった。


 トウジは小さく息を吐き、火の始末を確認してから、湯を沸かし始める。


 いつもなら、こういう作業はシュクリの方が早い。


 けれど今日は、まだ起きてこない。昨夜、妖精たちと遊ぶみたいに飛び回っていた姿を思い出す。興奮して、寝つけなかったのかもしれない。


 そんなことを考えながら、湯へ干し肉と乾燥野菜を放り込んでいると。


「……おはよ」


 毛布から、ぼんやりした声が聞こえた。


 シュクリだった。


 寝癖のついた耳が、ぺたりと垂れている。


「あ、おはよう。珍しいね、シュクリが寝坊」


「ん……」


 返事が鈍い。


 その後ろで、イリスもゆっくり起き上がった。


 長い金髪へ、小さな妖精が一匹止まっている。


「……寒いね、今日」


 そう呟きながら、森の奥へ視線を向けた。その表情が、少しだけ硬い。



 軽い朝食を済ませると、三人は再び森の奥へ向かった。


 昨日と同じように、シュクリが先頭に立つ。


 魔素測定器を取り出し、方角を確認しながら進んでいく。


 けれど。


 昨日と違っていた。


「……ここ、正しい?」


 シュクリが振り返る。


 まだ進み始めてそれほど経っていない。


 トウジが地図を覗き込む。


「ん? たぶん合ってると思うけど」


「……ほんと?」


「え?」


「いや……ない」


 シュクリが、もう一度測定器を見る。


 針を確認し、周囲を見回し、木の位置を見て、また測定器を見る。


 そんな確認を、何度も繰り返していた。


 イリスが、その様子を静かに見ている。



 昼前。


 小さな沢を見つけ、三人はそこで休憩を取った。


 シュクリが地図へ記録を書き込んでいる。けれど、その手が止まった。


「……あれ?」


「どうしたの?」


 トウジが覗き込む。


 シュクリは、紙と測定器を見比べていた。


「数字……変」


「変?」


「合わ、ない」


 書き直す。また確認する。


 しばらくして、シュクリが首を振った。


「……だめ」


「そんな日もあるよ」


 トウジが軽く言う。


 けれどシュクリは笑わなかった。


 視線が、何度も森の奥へ向いている。


 耳が落ち着かない。鼻先も忙しなく動いていた。


 昼食の干し肉と硬麺麭を渡しても、シュクリはほとんど手を付けなかった。


「食べないの?」


「……あとで」 短い返事。


 その横を、数匹まで減った妖精たちがゆっくり飛んでいる。青い光。淡い金。小さな光たちは、まるでシュクリを気遣うみたいに、その周囲を離れなかった。


 イリスが、小さく眉を寄せる。


「シュクリ、少し休む?」


「だいじょぶ」


 即答だった。けれど、その声には力がない。



 午後の探査は、散々だった。


「……あれ?」


 またシュクリが立ち止まる。


「ここ、通った」


「いや、初めてじゃない?」


 トウジが周囲を見る。


 シュクリは納得していない顔だった。


 木の幹を触る。匂いを嗅ぐ。地面を見る。


「……違う」 ぽつりと呟く。


 その後も、ミスが続いた。


 測定位置を間違える。記録を書き損ねる。地図を落とす。


 普段のシュクリでは考えられない。


 本人も焦っているのがわかった。


「ごめん」


 何度も謝る。


「大丈夫だって」


 トウジがそう言うほど、シュクリの表情は曇っていった。


 無理に笑おうとして、また失敗して、時間だけが過ぎていく。


 森は、静かだった。




 野営地点へ戻った頃には、空はもう暗くなり始めていた。


 火を起こす。湯を沸かす。


 けれどシュクリは、荷物を下ろしたところで、そのまま座り込んでしまった。


「シュクリ?」


「……寝る」


 毛布へくるまる。それきり動かなくなった。


 トウジが困ったようにイリスを見る。


「疲れたのかな」


 イリスは答えなかった。


 ただ、毛布にくるまったシュクリを見つめている。


 妖精たちも、今夜は静かだった。数匹の淡い光が、毛布の周囲をゆっくり漂っている。まるで、何かを警戒するみたいに。



 トウジは、昨晩と同じように簡単な食事を用意した。


 干し肉と乾燥野菜を煮込んだ羹。硬麺麭。干した果物。


 質素な食事だったが、火の傍で食べる温かい汁物は、それだけで少し気持ちを落ち着かせてくれる。


 けれど、今夜は、どうにも空気が重かった。


 トウジとイリスは焚火を挟んで座り、ぽつりぽつりと話をしていた。


「エルフって、みんな森と話せるの?」


「んー、そうでもないかな」


 イリスが苦笑する。


「でも、なんとなくわかるんだよ、エルフだしね」


「へぇ……」


 そこで会話が途切れる。


 二人とも、ちらりと毛布の方を見る。


 シュクリは、横になったまま動かない。


 呼吸はしている。眠っているだけだ。


 けれど、その耳は落ち着かないみたいに時折ぴくりと動いていた。


 トウジは、なんとなく落ち着かない気分で羹を口へ運ぶ。


 イリスも、それ以上は何も言わなかった。



 食事のあと。


 イリスは、残った妖精たちと静かに向き合っていた。


 淡い光を放つ小さな妖精たちが、彼女の周囲をゆっくり漂っている。囁くような声。小川のせせらぎみたいな音。風が葉を揺らすみたいな響き。言葉なのかどうかすら、よくわからない。


 トウジは、その横で今日の記録を確認していた。


 測定値。地図。シュクリが何度も書き直した跡。数字のズレ。途中から乱れ始めた筆跡。


「……」


 トウジは、小さく眉を寄せる。


 やっぱり、今日のシュクリはおかしかった。


 そう思った、その時だった。


 イリスが、はっと顔を上げた。妖精たちとのやり取りが止まる。碧い瞳が、森の奥を向いた。


「……イリス?」


 返事はない。


 次の瞬間、森の奥から、霧が流れ込んできた。


 低く、音もなく、まるで水が地面を這うみたいに。


 白い朝靄とは違う、灰色に近い靄だった。それが、あっという間に野営地を満たしていく。


 妖精たちの羽ばたきが、ぴたりと止まった。燐光が、すっと弱まる。小さな妖精たちは怯えるみたいにイリスへしがみつき、辺りを見回していた。


「おとなしくしててね」 イリスが、小さな声で囁く。その声は、妖精へ向けたものだった。


 トウジは、見ていた記録を静かに閉じる。


 慌てない、立ち上がりもしない。ただ、座ったまま周囲を見ていた。


 霧は、生き物みたいだった。


 二人と妖精たち。そして毛布に包まったシュクリ。その周囲を、ゆっくり徘徊している。


 瘴気に似ている。そう思った。けれど違う。


 腐葉土の臭いも、鉄錆びみたいな血の気配も、瘴気特有の、雑味のある甘ったるさもない。あるのは、冷たい湿気と、森の匂いだけだった。


 まるで、森そのものが呼吸しているみたいに。


 霧が、ゆっくり流れる。妖精たちは身を寄せ合ったまま動かない。イリスも、じっと森の奥を見つめていた。


 このまま、何事もなく過ぎる。そんな空気だった。


 ――その時。


 毛布が、突然跳ね上がった。


「いやっ!」


 シュクリだった。


 飛び起きた顔は、真っ青だった。


「なに、これ! 寄るなっ!」


 霧を払いのけるみたいに腕を振る。息が乱れている。耳が完全に伏せられていた。


「シュクリ!」


 トウジが立ち上がる。だがシュクリは、二人を見ていなかった。何か、別のものを見ている。


「いやぁぁぁぁっ!!」


 叫び声。次の瞬間、シュクリが森の奥へ駆け出した。


「あっ――!」


 トウジが反射的に追おうとする。その背中へ、イリスが鋭く叫んだ。


「トウジ、追って! 急いで!」


 トウジは剣をひっつかむ。そして、全速力でシュクリの後を追った。


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