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4-5 帰らずの森 その2

 探査初日。もともと薄暗かった森は、夕刻が近づくにつれてさらに暗さを増していた。頭上は枝葉に覆われ、空の色すらほとんど見えない。湿った冷気が、足元をゆっくり流れていく。


 シュクリが先頭を歩き、ときおり立ち止まっては周囲を確認する。そのまま獣道の分かれ道へ差しかかった。一方の細い道が、森のさらに奥へと続いている。


 シュクリは迷いなく、そちらへ入っていった。トウジも後を追う。


 その後ろで、イリスだけが、一瞬だけ足を止めていた。森の奥を見つめ、何かに気づいたように目を細める。だが結局、何も言わずについていった。




 しばらく進んだ先で、シュクリが立ち止まる。荷物を下ろし、魔素測定器を取り出した。慣れた手つきで結晶板を確認し、地図へ記録を書き込んでいく。


 その横から、トウジが地図を覗き込む。


「……シュクリ、ちょっとおかしい」


「ん?」


「さっき、道曲がったから、この辺りじゃない?」


 トウジが地図の一点を指差す。だが、その位置はシュクリの記録より少しだけ森の奥側だった。


 シュクリが眉を寄せる。


「ううん、こっち」


 地図を指で叩く。


「道、まっすぐ」


「え?」


 トウジが思わず顔を上げた。


「いや、さっき曲がったよ?」


「曲がって、ない」


 シュクリが真顔で言う。


「トウジ、おかしい」


「えぇぇ……」


 困惑するトウジ。


 そのやり取りを、イリスが少し離れた場所から見ていた。


 やがて、ふっと小さく息を吐き、二人の方へ歩いてくる。


「トウジは、やっぱり見えてるんだね」


「え?」シュクリが訝しげに顔を向ける。トウジは、なんとなくうなずいた。


「シュクリ、さっき曲がったよ」


「それ、ない!」 シュクリが即座に否定する。


「シェルパ。獣人族。道、間違えない!」


 本気で納得していない顔だった。イリスは、そんなシュクリを見てくすっと笑う。


「うん。シュクリのセイじゃないよ」


 にっこり笑いながら、宥めるように言った。


「でも、でも……」


「これとおんなじ」


 イリスが、自分の耳飾りを軽く摘まむ。シュクリが、ん?っとした顔になる。


「化ける?」


「……化けるじゃない」


 イリスが少し苦笑した。


「でも、まぁ近いかな」


 それから、しゃがみ込むようにしてシュクリの目線へ合わせる。


「シュクリさ、森の中から突然女の子が出てきても、不思議に思わなかったよね?」


「……思わ、なかった」


「普通は、ちょっと警戒すると思うんだ」


「でも、思わない。思えなかった」 トウジがつぶやく。


 イリスが少し驚いた顔をした。それから、嬉しそうに笑う。


「うん」


 シュクリはまだ納得しきれていない顔で周囲を見る。


「でも、道ない」


「あったよ」


 イリスが静かに言う。


「でも、シュクリには見えなかった」


 湿った空気が、三人の間をゆっくり流れていく。


 イリスが立ち上がり、森を見回した。


「見えたり、見えなかったり」


「聞こえたり、聞こえなかったり」


 そして。


「これが、この森」 小さく笑う。


「帰らずの森」


 トウジとシュクリが、思わず周囲を見渡した。


 さっきまでと同じ森のはずなのに。急に、別の場所へ迷い込んだみたいな気がする。わずかな風に揺れる、葉擦れの音が妙に大きく耳に響いてきた。




「ねぇ」


 空気を変えるように、イリスが声を上げた。


「ちょっと疲れちゃった。そろそろお休みにしようよ」


 不安げな二人へ向けて、わざと軽い口調で言う。


「あっちに、いい場所あるんだ」


 そう言って、イリスはさらなる森の奥へ躊躇することなく歩き出した。


 トウジがその背中を見る。


「……イリス、この森に詳しいの?」


「ううん」


 イリスは振り返りもせずに答えた。


「はじめて来たよ」




 イリスについていった先は、森の中にぽっかりと空いた空間だった。木々が不自然なくらい途切れ、頭上にはわずかに夜空が覗いている。地面には、黒く焼けた焚火の跡がいくつも残っていた。


 倒木を並べて作られた簡素な椅子。削られた切り株。打ち込まれていたらしい杭穴。半ば植物に覆われながらも、人の手が入っていた気配だけは、まだ残っている。


 森の中とは思えないほど、不思議と落ち着く場所だった。


「……誰かが、使ってた場所……?」 トウジが小さく呟く。


「そうかもね」


 イリスは軽く答え、それ以上は語らず、倒木のひとつへ腰を下ろす。まるで、昔からここを知っているみたいな自然さだった。


 シュクリが荷物を下ろし、荷を解きはじめた。トウジが火を起こす。火が起きると、シュクリがすぐに湯を沸かし始めた――手際がいい。


 木の椀へ、塩漬けの干し肉と乾燥野菜を細かく砕いて放り込み、そこへ熱湯を注ぐ。湯気と一緒に、肉と塩の匂いが立ち上った――簡素な羹。それに硬麺麭、乾酪、干した果物。質素な食事だったが、森の中で温かいものが食べられるだけでありがたい。


 三人は焚火を囲み、それぞれ静かに食事を取る。


 ぱちぱちと薪が爆ぜる音。森の夜気は冷えていたが、火の近くは心地よかった。


「人族って、ほんと煮るの好きだよね」


 イリスが椀を覗き込みながら言う。 「そう?」「そのまま食べればいいのに」「温かい方がいい」「ふぅん」


 イリスは少し考え、羹をひと口飲んだ。


「あ、ほんとだ」


 素直な反応だった。シュクリが、小さく得意そうな顔をする。




 食事を終えたあともしばらく、三人は火を囲んでいた。シュクリが荷物を整え。トウジが記録を書き込み。イリスは、そんな二人の作業を飽きもせず眺めている。


「それ、毎回書くの?」


「報告しないといけないから」 トウジは、シュクリをチラリと見た。


「面倒そう」「仕事、だ……よ」 シュクリが荷物をまとめ終えた。


「覚えてるだけじゃだめなの?」 イリスが不思議そうに首を傾げる。


 トウジは少し困ったように笑った。


「次に来る人達のためでもあるから」


「ふぅん……次ね……」


 イリスは焚火越しに森を見る。その横顔は、少しだけ遠かった。




 やがて夜も更ける。


 焚火の火も小さくなり、森はゆっくり夜の深みへと沈み始めていた。


 そろそろ休もうか、という空気になった頃、不意に、イリスが動きを止めた。耳を澄ますみたいに、じっと森の奥を見る。しばらく、そのまま黙っていたあと。


「……驚かないでね」 そう言って立ち上がる。


 少し離れた場所まで歩いていき、夜空を仰ぐように目を閉じ、小さく何かを唱え始めた。


 それは歌にも、言葉にも聞こえなかった。小鳥のさえずり。風の囁き。水のせせらぎ。そんな自然の音だけを集めて、静かに編み上げたような譜線が細く長く紡ぎだされる。


 すると、森の奥に、ぽつりと淡い光が灯る。


 青白い光。続いて、薄い金色。翡翠のような緑。小さな光が、闇の中へ一つ、また一つと浮かび始めた。


 光はふわりと漂い、消えたと思えば、別の場所でまた灯る。


 やがてその数が増え、森の奥から、無数の灯火が流れ出してきた。まるで夜の森そのものが、静かに目を覚ましたみたいだった。


 光たちは、ゆっくりとイリスの周囲へ集まり始める。青。金。緑。淡桃色。淡い色彩が、闇の中でやわらかく揺れた。


 ふわり。くるり。流れるように舞い上がり、重なり、散っていく。光の尾が夜気へ溶け、焚火の橙色と混じり合う。


 イリスがそっと手を差し出す。すると、いくつもの光が嬉しそうにその指先へ集まり、掌の周りをくるくると回り始めた。


 肩へ止まるもの。髪へ潜り込むもの。頬の近くを掠めて飛ぶもの。そのたびに、光の粒が小さく瞬く。まるで笑っているみたいだった。


 イリスもまた、小さく笑いながら何かを返している。その声に応えるように、光たちはさらに舞い踊る。夜の森いっぱいに、色とりどりの淡い光が広がっていた。


 幻想的で、どこか夢の中みたいな光景だった。けれど、不思議と怖くはない。森そのものが、静かに歓んでいるようだった。




 そのうち、いくつかの光がトウジとシュクリの方へ流れていった。イリスは、少し楽しげな気分でその様子を眺める。


 たいていの人族は、言葉を失うか、腰を抜かす。そもそも“見えていない”ことだって珍しくない。この二人は、どうだろう。


「わっ、わっ!」 シュクリは、目を輝かせて立ち上がった。光を追いかけるように飛び跳ねる。妖精たちも面白がるように、ぱっと散って、また集まり、くるくると周囲を飛び回っていた。


 警戒はしている。でも、嫌ってはいない。獣人族らしい反応だな、とイリスは思う。


 そして――もう一人。


 トウジの周囲にも、いくつもの光が集まっていた。青い光。金色の光。淡い緑。羽を持った小さな少女たちが、付かず離れずの距離を保ちながら、じっとトウジを観察している。


 透き通る翅。指先ほどの細い手足。髪のように揺れる光の尾。現実感のないその姿を間近に見て、普通の人族なら息を呑んで立ち尽くしてもおかしくはなかった。けれど、トウジは違った。


 妖精たちを静かに目で追いながら、その動きを自然に受け入れている。妖精を初めて見る人間特有の戸惑いが、ほとんどない。


 まるで、すでに“知っている”かのように。


 一匹が、恐る恐るトウジの肩近くまで降りる。トウジは、それを追い払わない。ゆっくりと手を差し出す。でも、触れようとはしない。ただ、そこに止まれるように。


 妖精は少し迷い、それから、ちょこんとその指先へ降り立った。


 その光景を見て、イリスが目を細める。妖精の方も、不思議そうだった。


 トウジは、小さく笑う。そして、ごく自然に。まるで小動物へ話しかけるみたいな調子で、何かをぽつりと呟いた。


 言葉は聞こえない。けれど妖精たちは、その声へ応えるように、ふわりと光を揺らした。


 ざわり、と、周囲の妖精たちが、一斉にトウジへ寄っていく。


 興味。戸惑い。懐かしさ。そんな感情が混ざっていた。


 イリスは、思わず瞬きをする――なんで? ここまで自然に妖精種へ受け入れられる人間なんて、ほとんど見たことがなかった。ましてや、あの距離感。


 怖がらず。媚びもせず。けれど、ちゃんと“相手”として接している。


 光の向こうで、トウジが、また小さく笑った。


 その周囲を、色とりどりの妖精たちが嬉しそうに舞っていた。


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