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4-3 四柱聖環院 聖女様絶叫事件

 事の発端は、王城付きの神官が王城から戻ってきたときの、何気ない一言だった。


 それはトウジとシュクリが、あわただしく王都フィオルを旅立ってから三日後のこと。


 彼は夕刻に帰院すると、そのまま自部署――第1柱記録院の執務区画へ入り、いつものように周囲を見回す。


「何か変わったことはなかった?」


 気軽な確認だった。


 返ってきたのも、同じくらい気軽な答えだった。


「特には……ああ、そうそう。冒険者ギルド(ヴァルグラル)から北方探査の件で人が来てましたよ」


「北方探査……確かしばらく塩漬けされてた案件だよね?」


「ええ。久々に応募があったんでしょうね」


 そう言って、神官の一人が契約書を差し出す。王城付き神官は、軽い調子のままそれを受け取り、ぱらりと目を通した。


「へぇ、彼らも義理堅いね~。もっとも商売だから当然……」


 そこまで言って、言葉が止まった。「……へっ?」


 紙面を凝視する。一瞬の沈黙。


「? どうしました?」


 周囲が首を傾げる中、彼は指で名前をなぞる。


「トウジ・アイヒラー……って、なにこれ?!」


 別の神官が、何でもないことのように口を挟む。


「ああ、ずいぶん若い子でしたよ。えらく落ち着いた子だなぁって」


「いやいや、そういうことじゃなくて……」


 顔色が変わる。


「なんで、冒険者ギルド(ヴァルグラル)にいるの!?」


 室内に、ぽかんとした空気が広がった。誰も反応しない。理解していないのだ。


 王城付き神官は、周囲を見渡す。誰一人として事の異常性に気づいていない。


 一瞬、言葉を失い――次の瞬間には動いていた。


「……ちょっとこれ借りていくから!」


 契約書を掴み、そのまま部局を飛び出す。その慌てぶりは、王城付き神官としてあるまじきものだった。





 聖女の執務室に、空気を裂くような声が響いた。


「なによこれ! 聞いてないわよ!」


 机の上には、一枚の契約書。冒険者ギルド(ヴァルグラル)との正式契約書が置かれている。


 机の前には四人の神官。そのうちの三人が、聖女の怒声に首をすくめている。その横で、状況を把握できていない四人目の神官は、目を丸くしている。


 聖女の隣に立つ神官長は、ただ静かにその様子を見守っていた。表情は崩さず、だがすべてを理解している目だった。


 王城付き神官が、しどろもどろに説明を始める。


 ――王国側が、『聖女に勇者を預ける旨』を正式に通達してきたのは昨日。


 ――だが、この契約はその前々日に結ばれている。


 つまり、完全な「契約の隙間」。すでに効力は発生しており、覆すことは極めて困難。


 しかも相手は、冒険者ギルド(ヴァルグラル)。一度成立した契約を無理に取り消せば、巨大組織同士の軋轢に発展しかねない。


 聖女は、椅子に深く腰掛け、腕を抱えている。表情はあまり変わらないが、説明する神官へ送る視線は冷ややかだ。


 説明の途中で扉が控えめに開く。エストが、聖女付きの神官に導かれて執務室へ入ってくる。状況を一瞥し、何も言わず、四人の神官の後ろに控えた。


 聖女もそれに気付くが、何も言わない。


 説明が終わり、ピリピリした数秒の沈黙が過ぎる。


 やがて聖女は、腕を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。


「……わかりました」


 机の上の契約書に視線を落とす。


「すべては手続きの前後によるもの、と理解します。この件は不問に付します。――下がって結構よ」


 四人の神官が、安堵とも緊張ともつかない表情で退出していく。


 扉が閉まり、執務室に静けさが戻る。


 聖女はしばし机上の契約書を見下ろしたまま、何も言わなかった。


 やがて視線を上げ、エストへ向ける。


「貴女、この件はご存じでした?」


 唐突な問いだった。


 エストは一瞬だけ考え、静かに口を開く。


「……トウジが冒険者ギルド(ヴァルグラル)へ加入したのですね」


「知っていらっしゃった?」


 問われ、エストは小さく首を振る。


「そうなるだろうとは考えておりました。……ただ、冒険者ギルド(ヴァルグラル)であれば、契約でいかようにも調整できると」


 そこまでは読んでいた。少なくとも、関係を保ち続ける余地は残ると。


 だが――まさか、こんな形で抜け道があるとは……


 内心で苦く呟く。


 聖女は、その反応を確かめるように一度だけ頷いた。


 そして、何気ない調子で言う。


「……では、これはご存じ?」


 契約書の一点を、細い指で示す。


「失礼します」


 エストは一歩前へ出て机に寄り、指し示された箇所へ視線を落とす。


 ――契約者:トウジ・アイヒラー


「トウジの名前ですが……これが、なにか……」


 何かある。そう感じながらも、あえて問いの形を取る。


 聖女は、ふっと力を抜いた。


 ほんのわずかに目を伏せ、次いで顔を上げる。その視線が、横に立つ神官長へ流れる。


 合図のような一瞬。神官長が、静かに口を開いた。


「アイヒラー。ハイエルフの古称です」


 言葉が落ちる。


 エストの目が、大きく見開かれた。――ハイエルフ……? 古称……? 思考が追いつかない。


「なぜ勇者君が、ハイエルフの古称を姓にしているのか――」


 聖女が続ける。


「尋ねようと思ったのだけれど」


 唇の端に、抑えきれない愉しげな気配が滲む。


「いったい、どういう……」


 エストが思わず口にする。


 聖女は肩をすくめた。


「それを聞きたいのは、こちらのほうですけれどね」


 視線を契約書へ落とす。


「それにしても――まさか、こちらでこの名前に出会えるなんて」


 先ほどまでの不機嫌は、影もない。柔らかく、どこか懐かしむような笑み。


 その変化を見て、エストは感じ取った――たぶん、先ほどのは怒ったふり。だが、なぜなのかは読み切れない。


 空気が緩んだ、その直後だった。


「一度、会ってみたいわね。この勇者君に」


 さらりと告げられる。


「トウジ・アイヒラー君に」


 エストと神官長が、同時に聖女を見る。


 聖女は小首を傾げた。


「あら、変かしら?」


 神官長が即座に応じる。


「……いえ。聖女様が預かられた方ですから」


 聖女は満足げに頷き、続ける。


「それで、神官長。この件で少し動ける人材が欲しいのだけれど」


 視線が、エストへと向く。エストはわずかに息を呑むが、何も言わない。


 神官長は、ゆるやかに口元を緩めた。


「状況が大きく変わりましたからな」


 そう言いながら、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、机の上に置く。


「神官マルヴォロスは現在、第4柱治癒院所属ですが――聖女様付へ。聖騎士団については、現状のままで問題ないかと」


「……あら、随分手回しがいいのね。少し気持ち悪いけど」


 聖女が半ば呆れたように言う。神官長は涼しい顔のまま答えた。


「いえいえ。たまたま、そういう書類を持っておりましたので」


「そのお腹の中に、いったい何枚羊皮紙があるのかしらね」


 軽口の応酬。だが、そのやり取りの速さと自然さに、エストは言葉を失っていた。完全に、呼吸が合っている。


 その様子を横目に、聖女はふとエストへ視線を戻す。


「マルヴォロス侯爵家の人間に、これ以上負担を背負わせるのは……と思っていたのだけれど」


 やわらかく、しかも身内に接するような親し気な声音で続ける。


「ねぇ、エステリーナ。この件に力を貸してくださらないかしら?」


 エストに、異論はなかった。


「……承知いたしました」


 短く応じる。


 聖女は満足げに微笑む。


 そして、再び契約書へと目を落とす。


「それにしても――ずいぶんと久しぶりに聞いた名前だこと」


 その視線の行く先は、契約書ではなく、どこか遠くに向いているようだった。


 口元には過去を思い出すような、静かで穏やかな笑みが浮かんでいた。


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