4-1 北上
王都を発ってから、ほぼ一週間。北部へと続く街道は、人の気配が薄かった。
往来はまばらで、道は長く、景色も変わり映えしない。それでも、不思議と退屈はしなかった。
シュクリは意外にもおしゃべりで、朴訥とした口調ながら、道中さまざまなことをトウジに教えてくれた。
ギルドのこと、自分のこと、王都の面白い場所や楽しい場所。シェルパとしてギルドの人間を各地へ案内してきた経験があり、北部辺境にも何度か足を運んだことがあるという。
そのため、北部辺境の話にも詳しかった。未踏の森。歪に接する国境。そして、レットバッシュ帝国との、くすぶり続ける紛争。
トウジは、それらを黙って聞いていた。時折うなずき、問いを挟みながら。
北部辺境領――マルヴォロス公爵領。その領都ナハルは、北からの侵入を食い止めるための、半ば要塞のような都市だという。
そこまで、あと半日。
森に入ると、空気が少し変わった。道は細くなり、木々の影が濃くなる。
その隘路で、二人は足を止めた。
荷車を引いた驢馬が一頭、ぽつりと立っている。主の姿はない。
シュクリがすぐに駆け寄り、手綱を取る。驢馬は、安心したように頭を擦り寄せてきた。
「……怯えてる」
その直後、森の奥から、かすかな声が届く。
女の声。短く、押し殺したような叫び。
シュクリが振り返る。「見てて」 荷を下ろし、そのまま音の方へ駆けていく。
トウジも動こうとして、足を止めた。驢馬と荷車。放置はできない。
一瞬の逡巡のあと、手早く荷をまとめ、道端へ寄せ、後を追った。
道の先で、シュクリが木陰に身を潜めている。
トウジも隣に入り、声を潜めた。
「……なにかあった?」
シュクリは答えず、前方を指す。
切株を背に座り込む女性。その前に、三人の男。
ナイフをかざした男が女性を威圧し、後の二人は剣と短槍を持ち立っている。
装いは軍装に似ているが、着崩れている。荒んだ顔つきや物腰、規律より荒事に慣れてそうな手合いだった。
「だから出すもんだせっつってんだ、このババア」
「ないよ! 荷台にあるのは持っていけばいいって言ったじゃないか!」
女性が気丈に言い返す。声は震えているが、引いてはいない。
「てめぇ……いい度胸してるじゃねぇか」
ナイフを手にした男が、苛立ったようにさらに距離を詰める。
トウジの体が、わずかに前へ傾く。その腕を、シュクリが軽く押さえた。
「……待って」
「あっち」 視線が森へ向く。トウジも目を凝らす。
木立の陰。弓を構えた男が一人、じっと様子をうかがっていた。
「たぶん仲間」「……四人目か」シュクリが小さくうなずく。「出ると飛んでくる」
「じゃ……分けよう。気を引くから、シュクリ、弓いける?」
「……無茶、だめ」
「うん、大丈夫」――たぶん。
「――そこまでにしてほしいな」
木陰から一歩踏み出し、男たちの背後から声をかける。三人が、ほぼ同時に振り向いた。
「な、なんだてめぇ?!」
ナイフを持った男が叫ぶ。残りの二人も、慌てて武器を構えた。
トウジは肩の力を抜いたまま、ゆっくりと距離を詰める。
「みっともないから、やめた方がいいよ」
軽い調子で言いながらそのまま歩みを止めない。視界の端で、シュクリが弓の位置へ大きく回り込んでいくのが見えた。木々の影を縫うように、低く、速く――もう少し。手は柄に触れたまま、まだ抜かない。
男たちは顔を見合わせ、苛立ちを隠さない。
「関係ねぇだろ、引っ込んでろ」「邪魔すんなら、てめぇからやるぞ」
言葉を返しながらも、間合いを測っている。
トウジはわずかに首を傾げた。
「三人がかりで女の人にって――さすがにさ」
その一言で、剣持ちが逆上した。
「……上等だっ!!」 低く吐き捨てる声と一緒に、剣が振り抜かれた。
踏み込みはそこそこ、だけどギルドの人より力の乗りかたが甘い。
トウジは半歩だけ体をずらし軌道を外す。すれ違いざまに手首を取る。力の向きを変えずに、そのまま引き落とす。
男の体勢が崩れる、たたらを踏む。足を払うと、地面に叩きつけられ、息を詰まらせる。
そのまま首筋に一撃を入れると、男は動かなくなった。
ほぼ同時に、ナイフが飛んできた。わずかに上体を引き、これを外す。
そこへ槍が突き出される。遅い。半歩下がって、穂先を外し、引きに合わせて半歩出る。
懐へ飛び込み拳を一発。顔面に入って、鈍い音。鼻が折れ、血が弾けた。男が大きくのけぞる。
そのときだった。
頬の横を、風が掠める。空気を切り裂く鋭い音。矢が、ほんの紙一重で外れた。
直後、森の奥から短い悲鳴が上がった。
ナイフを投げた男が、舌打ちとともに剣を抜く。
「くそっ――!」 突進してくる。
トウジはそこで初めて剣を抜いた。
一歩引く。斬撃を外す。
続けて二撃目。こちらは剣で受け流す。
剣には慣れていないのか、男の重心が崩れ、足がもつれる。
その瞬間は逃さない。膝が落ちる先に身体をすべりこませて、剣の柄を振り下ろす。
後頭部へ、的確に。
鈍い音。
男が崩れ落ちた。
森から走って戻ってきたシュクリがトウジの顔を見るなり怒った。
「矢、無視だめ! 危ない!」
あまりの剣幕に、トウジは少しびっくりしながらも謝る。「ごめん……」
「次、トウジ、矢!」 次は、矢の担当だということだろうか?
「う・うん……とりあえず、縛ろうか」
まだプリプリしているシュクリを促して、二人で手早く紐で拘束していく。
三人。そして弓の一人。全員生きてる。息を一つ付く。
すべて終えてから、トウジは女性へ向き直る。
「……だいじょうぶですか」
女性はまだ呼吸が荒かったが、それでも気丈に顔を上げる。
「ああ、助かったよ。本当に……」
トウジは手を差し出し、女性を引き上げた。
女性は衣服についた草や木の葉を払い落とし、ひと息ついてから、改めて二人に向き直る。
「ありがとうございました」 そう言って、トウジとシュクリに丁寧に頭を下げた。
「サイナ。ナハルで、旦那が鍛冶屋をやってる」 自分を指し示しながら、簡単に名乗る。
「鍛冶屋……さんですか」 トウジがわずかに間を置いて返す。
「今は旦那が討伐軍に駆り出されててね。留守の間、近くの村を回って行商してるんだけど……」
そう言って、街道の方――驢馬と荷車の方へちらりと視線を向ける。
「ほとんど物々交換みたいなもんさ。金なんて、あんまり動かないのにね」
サイナは小さく肩をすくめ、ため息をひとつついた。
トウジは「なるほど」と頷きながら、縛り上げた男たちを見下ろす。
「……こいつら、どうしましょう?」
「このまま」 シュクリが即答する。容赦のない声音だった。
サイナは男たちに目をやり、首を振る。
「ここからナハルまで連れていくのは無理だろうねぇ」
「それじゃあ――」
「私がナハルまで戻って、衛兵を連れてくるってのはどうだい?」
トウジは一瞬考え、それからシュクリを見る。
「……護衛、つけた方がいいよね」
シュクリの表情がわずかに険しくなる。
「トウジ、行くべき」
「いや、俺が残る。こいつら放置できないし」
「危ない」
「同じだと思うよ」
短いやり取り。
シュクリは明らかに不満そうだったが、サイナの状況も理解している。
やがて、しぶしぶといった様子で頷いた。
「……すぐ、戻る」「うん」
サイナが荷車の方へ駆けていった。シュクリもその後を追った。
森に静けさが戻っていく。
日が完全に落ちた。元々薄暗かった森は、すぐに闇へ沈む。
虫の音が、あちらこちらから聞こえてくる。ときおり、どこかで枝を踏む音、茂みをかき分けるような音も聞こえる。
音だけがする漆黒の中で、焚火の火だけが、小さく揺れていた。
その周囲に、男たちが転がされている。手足を縛られたまま、地面に横たわっている。
「おい……水……」
「腹減った……」
「腕、折れてんだよ……くそ……」
口々に文句が飛ぶ。
トウジは、薪替わりの枯れ木を火にくべながら一瞥した。
「自業自得でしょ」
それだけ言って、取り合わない。
しばらくして。
「……なあ」
男の一人が、小声で低く言った。
「なんだよ」
「……ちょっとおかしかぁねぇか」
虫の声が、まばらになっている。さっきまで聞こえていた気配が、どこか遠のいている。
静寂が、降りる。虫の声が、消える。獣の気配も、途切れる。焚火の音だけが、小さく残る。
別の男が、顔を上げる。
「……静かすぎんだろ…」
森の変化に男たちが怖気づき始める。
その声が、焚火の向こうまで届く。
トウジは一度だけ視線を上げ、森の奥へ目を向けた。
森の奥を見て――すぐに火へ視線を戻した。
しばらく火を見つめていると、やがて、まぶたが重くなっていく。
意識が、ゆっくりと沈みかけた、そのとき――
男たちの声が、急に変わった。
「な、なんだ……?」
「寒……いや、違う……」
ざわめきが大きくなる。
トウジは目を開け、周囲を見渡す。
森の奥、木々の間から、薄墨色のものが、じわりと滲み出していた。
煙のようで、霧のようで――だが、どちらとも違う。
地を這い、音もなく広がり、周囲を覆っていく。焚火の明かりに触れ、ゆらりと揺れる。
「……瘴気?」
トウジは立ち上がる。回りにたゆたう瘴気を見回す。
だが、すぐに違和感を覚えた。
違う。匂いが違う。味が違う。いつも感じてきた瘴気は、腐葉土のような、鉄のような、雑味を帯びた甘いそれ。
だがこれは――もっと澄んでいる。複雑で、どこか芳香すら感じさせる。
「……なんだ、これ」
呟いた、そのとき。
「う、あ……おおお”お”あ”あ”あ”っ?!」
縛られていた男の一人が、突然悲鳴のような雄たけびを上げた。
身体が跳ねる――縄が、引きちぎられる。
ありえない力。
男が立ち上がる。目は見開かれ、焦点が合っていない。呼吸は荒く、口からは唾液が垂れている。
「……食われた」
トウジの口から、無意識に言葉が漏れた。
何度も見てきた、瘴気に呑まれ、人を失った者の姿。
男が、獣のように低く唸る。
そして――
地を蹴った。
速い。
人の動きではない。
トウジはとっさに身を引く。
振り抜かれる腕を外す。
間合いを取る。
だが男は止まらない。踏み込み、トウジを追う。
野獣のような敏捷な動き。力も、速度も跳ね上がっている。
まともに受ければ、こちらが持たない。
トウジは剣を抜き、構える。斬って捨てることは、しない。受け流し、いなす。徐々に削り、動きを制限しようとした。
だが――決定打がない。
男は手足につけられた切創の痛みを無視して動き続ける。
やがて、その動きが変わった。
視線が、横へ流れる。残された三人。縛られたまま、逃げられない。
「うわっ!こっちくんなぁ!」「やめてくれぇ!」「こっちだ!」
男たちの声が夜に散る。トウジが怒声を上げる。
だが、止まらない。男が、そちらへ跳ぶ。
トウジも踏み込み、間一髪、間に割って入る。
柄を握る手が、わずかに止まる――まだ、人だ。
目の端に、三人の顔。怯え震えている。
歯を食いしばる。
踏み込み、振り抜く。刃が入る。手ごたえが残る。男の動きが止まり、そのまま、崩れ落ちた。
静寂が戻り、焚火の音だけが小さく残っている。
トウジは、残心のまま動かない。
剣先から血が落ちる――ぽたり。土に吸い込まれていく。
呼吸が、わずかに乱れていた。
少し遅れて、三人の粗い息遣いが戻ってくる。誰も何も言わない。
トウジは、ようやく視線を落とし、力を抜いた。
やがて、遠くから音が届く。
蹄の音。車輪の軋み。
光。
森の闇を裂くように、灯りが近づいてくる。
シュクリとサイナ。そして、数人の衛兵。
「トウジ!」
シュクリの声。トウジは顔を上げ、手も小さく上げる。「……こっち」
背後には、動かなくなった男と、縛られたまま震えている三人。
辺りを覆っていた瘴気は、いつの間にか消え去り、夜の森に虫の音が戻ってきていた。




