3-8 四柱聖環院 後編
開いた扉から、先だって涼やかな風がすべり込む。
焚き染めた控え目な香が、遅れてやわらかく広がり、紙と墨の匂いを薄く撫でる。
そのあとに、聖女が入ってきた。
年の頃は中年を僅かに過ぎたほどに見える。
飾りのほとんどない簡素ではあるが上質な神官服に光が当たるたび、布が静かに息をするように沈み、形を際立たせる。所作の上品さとあいまって、静謐な美しさを醸し出している。
室内をひと巡りした視線が、エストでふと止まる。
ほんの一瞬、「おや」とだけ言い置いたような柔らかな驚きが浮かんだ。だが、声はかけない。無関心ではない。覚えている、という温度だけが残った。
「わざわざ御足労いただきました、感謝に堪えません」
神官長が椅子から立ち上がり、恭しく一礼する。
「……どの口が言うのかしら、来ざるを得ないように仕向けておいて」
聖女は苦笑を含ませる。言葉は刺さるが、響きは柔らかい。責めるためではなく、手札を確認するための声音だ。
背後で神官が来賓用の椅子を抱えて近づく。聖女はそれを受け取らない。
机の脇に立ち、指先で羊皮紙を一枚引く。重なりをわずかにずらし、視線が行をなぞる。読むというより、要点だけを拾い上げていく。指先の動きは軽いが、迷いがない。
「……これ?」
短く問う。神官長が頷く。言葉を継ごうとする、その前に、
「あまりおもしろくなさそうね。――いえ、面白く“してはいけない”類いかしら。そちらで、ご勝手にどうぞ」
紙から目を離さないまま、言葉の末尾だけにわずかに冷ややかな温度を乗せる。
「それがそうもいかぬので、こうしてご相談を……」
神官長は姿勢を崩さない。譲らないが、押し付けもしない。
「こういうのって、大聖院の管轄のはずよね、違ったかしら? 貴方、頭ごなしってやり方は、お嫌いかと思ってましたけど」
指先が一瞬止まり、紙の縁を軽く弾く。視線は落ちたまま。
「機を失しますと衡平が崩れますゆえ」
簡潔な返答に、聖女の口元がわずかに緩む。
「……あっちに回す時間が惜しいと。ふーん、裏がありそうね。天秤に載ってるのは何と何?」
顔を上げる。目の奥に、測る光が宿る。
神官長がエストを促す。
エストは一歩前へ出て、一礼する。
「失礼いたします。」
一旦、呼吸を整えた。
「諸国連合の亀裂と、神殿の存在意義かと」
言い終えたあとも視線は逸らさない。
「あらあらあら、この勇者って子、結構な事になってるのね」
聖女は紙を軽く送り、目を細める。呆れの色に、かすかな興味が混じる。
「浄化、ってあたりかしらね。これ、本当?」
「直接的な証拠はありません」
間を置かず、エストが答える。
「ふーん、誰の意見?」
「私とヴァルグレイ様です」
名を聞いた瞬間、聖女の眉がわずかに動く。
「……あの爺、まだ生きてるのね」
吐き捨てるほどではないが、遠慮もしない。古い縁を知る者の言い方。
神官長もエストも、そこには触れない。
「王国は信じてないの?」
「いえ、報告に上がっていないようです」
「あ~やりそうなことね」
小さく呟く。誰がどう動かしたか、輪郭は見えている声音。
「王国側は誰が窓口?」
「マルヴォロス公爵のようです」神官長が繋ぐ。
「ラドヴェインの坊や……か」
顎に手をやり、少しだけ考える。過去と現在を重ねるような、短い沈黙。
そのまま、ふいにエストへ視線を向ける。
「貴女、エステリーナよね? マルヴォロス侯爵家の」
公爵ではなく、侯爵。マルヴォロス家の少し前の爵位。
「お父様はお元気? 引退されて久しいはずだけど」
エストの呼吸がわずかに揺れる。
「……はい、所領で隠居生活を送っております」
「そう……お元気なら良かったわ」
その言い方には、社交辞令ではない確かな安堵が含まれている。続けて、
「貴女はいつこちらに?」
「もう十年になります」
「そうなのね……」
短く頷く。視線が戻る。選び直す気配。
聖女は机から指を引き、神官長へ向き直る。室内の空気が整う。
「わかりました。ラドヴェインと対等というのは、ちょっと癪だけど――均衡は崩さない方がいいでしょう」
言葉を選び、置く。
「この勇者トウジは、私の名で引き受けましょう」
決断は速いが、声遣いは軽くない。引き受ける、というより、引き取る覚悟の響き。
「ただし、一つだけ変更してちょうだい」
視線がゆっくりと動き、エストで止まる。
「この子を、外すこと。それが条件よ」
声音は柔らかい。が、明確な意思表示だった。
「……えっ?」
エストの声が、思わず漏れる。言葉が続かない。
聖女はその反応を責めない。見ているだけだ。事情も、資質も、すでに量った上での線引き。
神官長の視線が一瞬だけ揺れ、すぐに静まる。無言で一つ、首肯した。
室内に残るのは、決めた者の静けさと、それを受け止める側のわずかな逡巡。
裁定は、下された。
四柱聖環院は、音を持たなかった。
石でできているはずなのに、足音が残らない。建物というより、音のしない何かの内側に入ってしまったような気分だった。
通された部屋は、白かった。壁も、床も、小さな机も、飾りのない椅子も。継ぎ目すら曖昧で、影だけがかろうじて形を作っている。
椅子に座る。
やっぱり音はしない。
しばらく待っていると、神官が入ってくる。
扉が開いた音はなかった。
向かいに座る。手には羽ペンだけ。視線が一度だけトウジをなぞり、身振りで右手を見せろと言われた。
素直に右手を差し出す。
神官は、無言で羽ペンの先を刻印証に添わす。
一瞬だけ、刻印証が持ち上がるような感触があって、すぐに戻った。
神官は頷き、
「結構です」
と言って、立ちあがり扉から出て行った。
扉が閉まる。やっぱり、音は残らない。
ポツンと一人。時間の流れが、外と違う。
どれくらい経ったのか分からない。
次の神官が入ってくる。
同じように、音は残らない。
今度は座らずにトウジの横に立った。「立ちあがってください」
従う。じっと見られている。少し居心地が悪い。
身体の表面を、何かが一度だけ滑る。冷たくも、熱くもない。ただ、境界だけをなぞられた。
「問題ありません」
たった一言で、神官が出ていく。
扉が閉まる。当然、音はない。
立ったまま、というのも所在ないので、改めて椅子に座った。
また、間が空く。
部屋の白さには、だいぶ慣れてきた。
寝てもいいかな? そんなことを考えていたら、三人目の神官が入ってきた。
神官は座らず、机の上に、紙を置く。
「北方辺境域探査に関する行動条件です」
紙が一枚、こちらへ滑る。
「単独行動の制限。定期報告。指定区域の立入制限」
神官の指が、行をなぞる。説明ではない。
見る位置を示しているだけだ。
「規定外の事象が発生した場合は、――拡大防止すること」
それ以上は続かない。
読める。理解もできる。どれも、特別なことは書いていない。危険な場所なら、そういうものだろう。
「問題はありませんか」
「ありません」
トウジが即答し、神官が頷く。
「では、契約を」
紙が少しだけ引き寄せられる。
「刻印証を」
神官が、指先で紙の端を示す。
トウジは無造作にそこへ刻印証を当てる。
触れた瞬間、文字が淡く光り、すぐに落ち着いた。
神官が頷き、書類を回収する。
「以上で終了です」
一言だけ残して、出ていった。
トウジは少しだけ間を置いてから立ち上がる。
四柱聖環院の敷地から外に出る。
音が戻る。風がある。人の気配が、ようやく形を持つ。
軽く息を吐く。
――終わった。
何も持たずにきて、何も持たずに帰る。徒労感が残っただけだった。




