3-7 四柱聖環院 前半
掲示板の前で、トウジは一枚の依頼書をじっと見ていた。
北方辺境域 探査任務。
長年未解決。失敗報告多数。帰還者、少数。
紙面の文字は簡潔だが、内容は重い。
トウジの指が、紙の端をわずかに押さえている。
シュクリは止めたけど――行けるかもしれない。
根拠はない。なぜか目が離れない。
また、くい、と袖が引かれた。
「……やる、の?」
眉をわずかに寄せて、依頼書とトウジを交互に見る。
「だめかな」
「うん」
即答だった。
それ以上は言わない。だが、視線が離れない。
トウジは一度、依頼書を見下ろし――
そして、手を離した。
紙が、軽く揺れる。
「トウジ君、なんでそれ読めてるの?」
後ろから声が落ちた。
振り返る。支部長が立っている。いつもの軽い顔。
「え? なんでって言われても……」
トウジが答えるより早く、支部長の視線が右手に落ちる。
「ちょっと~、誰よこの刻印証調整したの~」
ひょい、と手首を掴まれる。刻印証を覗き込みながら、くるりと振り返る。受付の方へ、ひらひらと手を振る。
「おーい!」
受付の仕切りの奥から、ひとりが飛び出してきた。今朝、オルドの相手をしていた男だ。
「え~、ダメだったのか? お前がイイって言ってたからそうしたんだが?!」
いきなりの抗議。
「はい? いつそんな許可出したの?! 言ってないんだけど?」
支部長が即座に返す。
「おいおい、お前が昨日王宮から戻ってきた時だよ」
「……えっ?」
「今度すんごいメンドクサイのがうちに入るからって言ってたよな?」
「メンドクサイ……」ぽつり、とトウジがつぶやく。
横から、シュクリがすっと顔を寄せる。「トウジ、めんどくさい?」 真顔。
トウジは少しだけ困った顔になる。
男は気にせず続ける。
「どんな具合にだよ? って聞いたら、魔物相手だったら精鋭級余裕、って言ってたからよ」
支部長の顔が固まる。
「あっちゃー……」
周囲がざわめく。
「精鋭級余裕~っ?!」 「まじかよ!」 「新人だろ!?」
空気が一気に弾けた。
支部長は額を押さえる。
男はまだ続ける。
「だからよ、刻印証もそれなりに調整しとかなきゃなって話になっただろ?」
トウジの刻印証を指さす。
「魔物絡みの依頼だけは見えるようにしてある。特記扱いな。ほら、効率いいだろ」
トウジの視界に映る依頼書の範囲が、頭の中で繋がる。
――確かに、魔物関係ばかり読めていた。
支部長はしばらく口を覆ったまま、目だけを泳がせていたが。
「……そうだったっけ? 言ってないけど、言った気がする……」
「なんだそりゃ!」
男が突っ込む。
どうやら、酔っていたらしい。
そのまま数秒。
支部長の視線が、ふとトウジが観ていた依頼書に止まる。
――北方辺境域探査。
「……あ」
表情が変わる。
「でかした! 事務局長!」
掌がひっくり返った。
「え?」
事務局長が戸惑う。
支部長は満面の笑みでトウジを見る。
「そうだそうだ、そういうことだよ!」
さっきまでの頭抱えはどこへやら。
「トウジ君、これ完全に君向けだ」
軽く言う。
だが、目は笑っていない。
事務局長が横から口を挟む。
「神殿との調整が必須だがな」
現実的な一言。
支部長は気にしない。
「いや~、これで長年の懸案が解消されるな~」
「支部長会議でネチネチ言われなくて済むな~」
明らかに誤魔化している。
「まぁ北の件は、ずっと止まってたからな」
事務局長が横から口を挟む。
「……止まってたんじゃねーよな?」「ああ、全員、失敗している」
周りのギルド員のひそひそ話が、聞こえてくる。
支部長が、少しだけ真面目な声になる。
「トウジ君」
「この依頼、王国からのもんではあるんだが」
軽く指で紙を叩く。
「聖環院の監視指定付きだ。受ける前に、神殿に行って面通しが必須になる」
トウジは顔を上げた。
「…通ると思うが」
トウジの顔を見ながら、支部長は少しだけ顔をしかめる。
「――どういう形になるかは、向こう次第だ」
「それでも」 支部長は問う。「行くかい?」
白い外壁が、午後の光をやわらかく返している。四柱聖環院の建物は過度な装飾を持たないが、その均整と清潔さがかえって威厳を形づくっていた。高く伸びる柱列のあいだを、風が静かに抜けていく。
祈りの声は聞こえない。だが、ここが祈りの場であることは、空気そのものが語っていた。
三階の一角。外壁に面した細長い窓から、淡い光が差し込む。
神官長室。
広すぎず、狭すぎず。床も机も磨き込まれ、紙片一つ乱れていない。整然としているが、冷たさはない。窓辺の薄布が風に揺れ、室内の空気をゆっくりと入れ替えていく。わずかにインクと紙の匂い。そこに混じる、乾いた陽の匂い。
室内中央の大きな机。その向こう側に神官長が座っている。
小太りの体躯。頭頂はやや寂しい。だが顔つきは穏やかで、どこか人のよさを感じさせる。眼鏡の奥の目は、静かに状況を見ている。
机を挟んだ対面に、神官衣姿のエスト。
椅子には座らず、立ったまま。背筋は伸びている。視線はまっすぐに神官長の方に向いている。
神官長はゆっくりと眼鏡を外した。指で目の周りをほぐし、軽く息を吐く。
机の上には羊皮紙が数枚。整然と並べられているが、すでに何度も目を通された跡がある。
「……神官マルヴォロス、これ、少し勇み足ではないですかね?」
穏やかな声だが、内容は重めだ。
エストは答えない。
視線を落とさず、受ける。
神官長は一枚、紙を指で押さえた。
「御身内とはいえ、王国の重鎮相手にここまでの譲歩を引き出したのは、慧眼に値しますが……」
そこで言葉を切る。
エストが短く返す。
「何か問題が?」
神官長は、わずかに肩をすくめた。
「神殿としては、なんの不都合も見当たらないのですが……ね」
言葉の端に、わずかな含み。
エストは沈黙する。
神官長は指先で机を軽く叩いた。
「貫目の問題でしょうか。衡平の問題、とでも言いますか」
少し考えるように、言葉を選ぶ。
「平たく言うと、責任の所在が軽いのですよ」
静かに言い切る。
「貴女が受ける、でも神殿の責になる」
エストの指先が、ほんのわずかに動いた。
神官長は続ける。
「貴方の出自は問題にならないことぐらい、お分かりですよね?」
エストは一拍だけ置き、答える。
「はい、それは」
神官長は頷く。
それ以上は掘らない。
代わりに、視線をまっすぐに向けた。
「……疑問に一つ答えてください」
風が、緩やかに通っていく。
「貴方がそこまで入れ込む、理由は?」
静かな問いだった。
エストはわずかに視線を落とす。
そして。
「……放置すれば、いずれ“物”として扱われます」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それを、見過ごせる立場ではありません」
神官長は、しばらくエストを見ていた。
やがて、ふうと息を吐く。
椅子に深く体を預ける。
「神官マルヴォロス……それは危うい考え方ですよ」
柔らかい声音。だが、否定ではない。警告だった。
窓の外で風が鳴る。
カーテンが揺れる。
紙がわずかに擦れる音。
時間が、静かに流れる。
やがて神官長が口を開いた。
「実のところ、私でも足らないと思っています。勇者トウジ君――報告が事実であれば、ですが」
エストは即座に答える。
「報告はすべて真実です」
明言する。
神官長は、ゆっくりと頷く。
「そう、ですか……少なくとも、今の秩序の枠では測れない存在だと」
エストは答えない。
否定できない。
神官長は目を細める。
「……残念ながら」
少しだけ声が低くなる。
「今の聖環院に、即決を求めるのは難しい、ということも良くお分かりですね?」
エストは、黙って頷いた。
神官長は、少しだけ目を伏せた。
「そして、この件は私の手にも余る」
エストの視線が、わずかに揺れる。
「……では?」
問いは短い。
少し出た腹の上で手を組む。目を閉じるでもなく、ただ黙る。
時間が流れる。風がカーテンを揺らす。
エストは、わずかに息を詰めた。
やがて。
――コツ、コツ。
扉の外から、控えめなノック。神官長の目線が上がる。
「入りなさい」
扉が開いて、控えの間に詰めていた神官が一礼する。
「聖女様がお越しです」
その一言で、室内の空気がわずかに変わった。




