3-6 ヴァルグラル(冒険者ギルド)
ざわめきは、すぐには戻らなかった。
第三戦の余韻が、場に残っている。
シュクリはすでに興味を失ったように、くるりと背を向ける。
曲鉈をひと振り、血払いをして、そのまま人の輪へ戻っていく。
いまのいままで戦っていたのが嘘のような態度だった。
トウジはその場に立ったまま、動けずにいた。
息が荒い。足がわずかに震えている。
頭の中が、まだ整理できていない。
「……はい、おつかれ」
軽い声が落ちる。
支部長が前に出る。いつも通りの調子。
だが、周囲の空気は少しだけ引き締まっている。
「三戦で終わり。まあ、こんなものかな」
軽く言う。
それで区切り――のはずだった。
だが。
トウジは、まだ動かない。
視線の先には、支部長はいなかった。
さっきの位置。シュクリが踏み込んできた場所。
どうにもできなかった。
読めなかった。
初めて、完全に。
呼吸を整える。まだ、足が重い。
だが――トウジの体が、わずかに前に出た。ほんの一歩。それだけ。
支部長がそれを見て、少しだけ目を細める。
「……まだやるのかな?」
軽く聞く。試すような声音。
トウジは答えない。ただ、立つ。
その姿を見て。
支部長が、ふっと笑った。
「いいね」
軽く言う。
「じゃ、俺」
周囲が一瞬で静まる。誰も声を出さない。
トウジは、顔を上げた。
スタスタと、支部長はトウジに近づいてくる。
気づけば、そこはトウジの間合い。
獲物もなく、ただ、立っている。力が抜けている。隙だらけに見える。棒立ちと言っていい。
「おいで」
トウジを促す。誘っている。
トウジは、動いた。
いつものように。
すり足半歩。
――消えた。
「……え?」
瞬きの間で目の前にいた。距離がない。踏み込みどころか、予備動作も、何もなかった。ただ、“そこにいる”。
体が反応しない。
遅れる。
完全に。
「ほら」
軽い声。
トウジの視界の外側から、後頭部に手が伸びる。
急所に軽く触れられる。
それで終わりだった。
「――っ」
体がようやく動く。
窮屈な態勢で剣を振る。
空を切る。
そこには、もういない。
「はい、終わり」
後ろから声。
振り返る。
もう距離が開いている。
何もなかったかのように。
支部長は元の位置に戻っている。
軽く手を振る。
周囲が息を吐く。
止めていたものを、一斉に戻すように。
「……やっぱやべぇやあの人」
「久々に見たな~」
「昔よっか速くなってね?」
ざわめきが戻る。
トウジは動けない。
――違う。根本的に。
それだけは理解できた。
「……うーんとだな」
支部長が軽く肩を回す。
興味はもう半分抜けている。
「評価、いくぞ」
指を一本立てる。
「強い。これは間違いない。ただし、条件付きな」
軽い口調のまま。
「短期戦特化。間合い入れたらまぁ終わり」
さらに続ける。
「でも~」
少しだけ笑う。
「長引くとあっさり死ぬ」
身もふたもない言いかただが、トウジは神妙に聞いている。
それが事実だと、体が理解している。
「あと」
もう一つ。
「分かってねえだろ、お前」
指をトウジに向ける。「自分が何やってるか」
図星だった。トウジは少しだけ困った顔をする。否定できない。
支部長は楽しそうに笑った。
「いいよ、それで。面白い」
その一言で、評価は終わりだった。
「合格」
軽く言う。
それで決まる。
周囲がざわめく。納得と、少しの不満と、興味。混ざった音。
「シュクリ!」
支部長が呼ぶ。
少女が人垣からひょっこりと顔をのぞかせる。
「こいつの、面倒見ろな」
軽く言う。
シュクリは一瞬だけトウジを見る。
それから、小さく頷いた。
「……わかった」
支部長は満足そうに頷く。
「よし、解散」
手をひらひら振る。
場が崩れる。円がほどける。それぞれが元の位置に戻っていく。仕事に戻る。いつもの空気が、戻ってくる。
トウジは、少しだけ遅れて動いた。
まだ、体が重い。
「よぉ、お疲れ」
横から声がかかる。オルドだった。
腕を組んで、いつもの顔で立っている。
「精神的にボロボロってか」
笑っている。
トウジは少しだけ息を吐いた。
「……剣を振るって、難しいものだったんですね」
正直な感想だった。
オルドは肩をすくめる。
「そうでもないんだが。お前にゃ、そうかもしれねぇな」
それだけ。
否定もしない。慰めもしない。
ただ、事実として受け取る。
トウジは一度だけ、さっきの場所を見る。
シュクリがいた場所。
支部長がいた場所。
そこにはもう誰もいない。
だが。
感覚は残っている。
届かない距離。
追いつかない速さ。
通じない相手。
「……」
トウジは小さく息を吐いた。
そして。
もう一度、前を見る。
でもまだ、終わっていない。
そんな気持ちになったのも、初めてだった。
「ほら、さっさと行ってこい」
オルドに肩を軽く押されて、トウジは受付の方へ歩かされた。
試験が終わったばかりの人込みを避けつつ受付へと向かう。
さっきまで戦っていた場所と、ほんの数歩しか離れていないのに、そこだけ明らかに空気が違っていた。
ざわめきは同じだ。
だが、ここでは声が低い。
短い言葉が行き交い、紙を捌く音、筆が滑る音が混ざる。
「次」
呼ばれる。
受付台越しに座っているのは、若い女だった。無駄のない動きで書類を整えながら、こちらを見る。
視線が一瞬だけ止まる。
頬の血。トウジの顔。服の切れ目。
背後の支部長と、オルド。
「新規の登録ですね」
確認ではない。処理の開始だった。
「名前」
「トウジです」
「姓」
「……アイヒラー」
一瞬だけ間が空く。
女はそれを気にした様子もなく、書き込む。
「出身」
トウジが言い淀む。
オルドが横から口を出す。
「辺境寄りの流れ者だ。問題ねえ」
女はちらりとオルドを見る。
目を落とし、一言もなく筆記を続ける。
出自は問題にされないらしい。
「手を」
手の甲をこちらに向けて指示が出される。言われるままに右手を差し出す。
机の下から小さな金属板のような器具が出てきた。
「力を抜いてください」
手の甲に触れる。金属独特のひんやりとした触感。
じわ、と何かが流れた。「……っ」
女は器具から手を離す。
「魔素斑紋、確認、登録」
淡々と言う。筆記の手が動く。器具の表面に、わずかに光が走った。
「個体識別はこれで完了です」
「今ので?」
あまりにもあっさりしている。
「あと少しお待ちを」
今度は、指輪のようなものをやはり机の下から取り出す。
「シグル刻印、発行します」
トウジの手を取り、
「中指でいいですか?」
と事務的に尋ねる。トウジは、よくわからないまま頷く。
中指に指輪が通され、ぴたりと収まる。
少しだけ熱を持ったが、すぐに馴染んだ。
違和感が消える。そこにあるのがあたりまえと言わんばかりに光を反射している。
「それが身分証です」
女が言う。
「等級、状態、識別情報が記録されています」
トウジは指を見る。表裏を確認する。
が、ただの金属の輪っかにしか見えない。
「……これで分かるんですか?」
女は下を向いて作業しながら。
「見える者には見えます」
それだけを告げた。
「……」
「次はこれを読んでください」
書類が差し出される。
契約の書類。
トウジは目を通す。
完全には理解できない。だが、要点は分かる。
――勝手に問題を起こすな
――依頼は守れ
――民間に被害を出すな
単純だ。
「違約には、かなり重い処分が下されます」
事実のみが告げられる。
トウジは少しだけ考えてから、頷いた。
「……問題ないです」
たぶん。
「指を」
今度は小さな針。指先をわずかに刺す。血が一滴。それを、書類の端に触れさせる。
書かれた文字が淡く光って、すぐに消えた。
「契約は成立しました。ようこそ冒険者ギルドへ」
女がトウジの顔を見て、ニッコリと笑った。
それで終わり。
あまりにも簡単だった。
トウジは少しだけ拍子抜けする。
「これで……いいんですか?」
「はい、仮登録、完了です」
さらりと言う。トウジの後ろから支部長が軽く告げる。
「見習い級。まぁ一番下っ端から始めましょうってところかな」
初めて聞く単語だが、要は下っ端。当然といえば当然だった。
「依頼は制限付きで受注可能。詳細は掲示板を確認してください」
指で掲示板を示される。
ここに入るときに見た、あの大量の紙。
「あとは現場で覚えろってこったな」
オルドのざっくりとした説明を聞きながら、トウジは、中指の刻印証を見る。
たったこれだけなんだけど、何かが変わったんだろうか。
「それじゃトウジ君、がんばってね~」
ヒラヒラ手を振りながら支部長がその場から離れていく。
それを目で追っていると、下の方から声がかかる。
「トウジ、終わった?」
シュクリの大きめの目が、トウジを見上げていた。
耳が小刻みに動き、短めの尻尾もフルフルと震えている。
いつの間に……まったく気づかなかった。
「じゃ、いこ。案内する」
シュクリがトウジの袖を小さく握り、こっちこっちと引っ張って歩き始めた。
「トウジ! 宿でな!」
オルドから声がかかる。トウジが振り返ると冒険者ギルドから出て行くところだった。
掲示板の前は、人が絶えなかった。
木枠いっぱいに貼られた依頼書。新しいものは上に、終わったものは剥がされる。
トウジは一枚一枚、目で追った。
護衛。採集。討伐。運搬。短期の仕事が多い。
金額と危険度が並び、簡単な地図と注意書き。どれも分かりやすい。
読めるのと、読めない依頼書があった。いくつかの依頼は、文字がぼやけて見えた。
そんな依頼書の時には、刻印証が、かすかに熱を持つ。
「見習い級じゃ、読めないのもおおい、はず」
横でシュクリが言う。
トウジは頷きながら、視線を横に滑らせた。
一枚だけ、――時間だけが積もっている紙がある。
古い。紙が少し黄ばんでいる。端が擦れている。だが、剥がされていない。
上から、何度も印が押されている。更新。更新。更新。
トウジは、その紙の前で止まった。読める。
――北方辺境域 探査任務
簡潔な表題。だが内容は薄い。地点。範囲。帰還報告の欠落。再調査要請。それだけ。
報酬は高額。だが、その下に赤い線。
危険度評価――新鋭級以上。
トウジはしばらくその紙を見ていた。
とん、と。軽く袖を引かれた。
視線を落とす。
片手でトウジの袖をつまんだまま、もう片方の手で掲示板を指す。
「それ、ダメ」
小さな声。
トウジは少しだけ驚いて、目を瞬かせる。
少女の耳が小さく揺れる。
「よくない。人、戻らない。……残ってる」
シュクリの眼差しが真剣だった。




