023 ヴァルグラル(冒険者ギルド)
ざわめきは、すぐには戻らなかった。
第三戦の余韻が、場に残っている。
シュクリはすでに興味を失ったように、くるりと背を向ける。
曲鉈をひと振り、血払いをして、そのまま人の輪へ戻っていく。
いまのいままで戦っていたのが嘘のような態度だった。
トウジはその場に立ったまま、動けずにいた。
息が荒い。足がわずかに震えている。
頭の中が、まだ整理できていない。
「……はい、おつかれ」
軽い声が落ちる。
支部長が前に出る。いつも通りの調子。
だが、周囲の空気は少しだけ引き締まっている。
「三戦で終わり。まあ、こんなものかな」
軽く言う。
それで区切り――のはずだった。
だが。
トウジは、まだ動かない。
視線の先には、支部長はいなかった。
さっきの位置。シュクリが踏み込んできた場所。
どうにもできなかった。
読めなかった。
初めて、完全に。
呼吸を整える。まだ、足が重い。
だが――トウジの体が、わずかに前に出た。ほんの一歩。それだけ。
支部長がそれを見て、少しだけ目を細める。
「……まだやるのかな?」
軽く聞く。試すような声音。
トウジは答えない。ただ、立つ。
その姿を見て。
支部長が、ふっと笑った。
「いいね」
軽く言う。
「じゃ、俺」
周囲が一瞬で静まる。誰も声を出さない。
トウジは、顔を上げた。
スタスタと、支部長はトウジに近づいてくる。
気づけば、そこはトウジの間合い。
獲物もなく、ただ、立っている。力が抜けている。隙だらけに見える。棒立ちと言っていい。
「おいで」
トウジを促す。誘っている。
トウジは、動いた。
いつものように。
すり足半歩。
――消えた。
「……え?」
瞬きの間で目の前にいた。距離がない。踏み込みどころか、予備動作も、何もなかった。ただ、“そこにいる”。
体が反応しない。
遅れる。
完全に。
「ほら」
軽い声。
トウジの視界の外側から、後頭部に手が伸びる。
急所に軽く触れられる。
それで終わりだった。
「――っ」
体がようやく動く。
窮屈な態勢で剣を振る。
空を切る。
そこには、もういない。
「はい、終わり」
後ろから声。
振り返る。
もう距離が開いている。
何もなかったかのように。
支部長は元の位置に戻っている。
軽く手を振る。
周囲が息を吐く。
止めていたものを、一斉に戻すように。
「……やっぱやべぇやあの人」
「久々に見たな~」
「昔よっか速くなってね?」
ざわめきが戻る。
トウジは動けない。
――違う。根本的に。
それだけは理解できた。
「……うーんとだな」
支部長が軽く肩を回す。
興味はもう半分抜けている。
「評価、いくぞ」
指を一本立てる。
「強い。これは間違いない。ただし、条件付きな」
軽い口調のまま。
「短期戦特化。間合い入れたらまぁ終わり」
さらに続ける。
「でも~」
少しだけ笑う。
「長引くとあっさり死ぬ」
身もふたもない言いかただが、トウジは神妙に聞いている。
それが事実だと、体が理解している。
「あと」
もう一つ。
「分かってねえだろ、お前」
指をトウジに向ける。「自分が何やってるか」
図星だった。トウジは少しだけ困った顔をする。否定できない。
支部長は楽しそうに笑った。
「いいよ、それで。面白い」
その一言で、評価は終わりだった。
「合格」
軽く言う。
それで決まる。
周囲がざわめく。納得と、少しの不満と、興味。混ざった音。
「シュクリ!」
支部長が呼ぶ。
少女が人垣からひょっこりと顔をのぞかせる。
「こいつの、面倒見ろな」
軽く言う。
シュクリは一瞬だけトウジを見る。
それから、小さく頷いた。
「……わかった」
支部長は満足そうに頷く。
「よし、解散」
手をひらひら振る。
場が崩れる。円がほどける。それぞれが元の位置に戻っていく。仕事に戻る。いつもの空気が、戻ってくる。
トウジは、少しだけ遅れて動いた。
まだ、体が重い。
「よぉ、お疲れ」
横から声がかかる。オルドだった。
腕を組んで、いつもの顔で立っている。
「精神的にボロボロってか」
笑っている。
トウジは少しだけ息を吐いた。
「……剣を振るって、難しいものだったんですね」
正直な感想だった。
オルドは肩をすくめる。
「そうでもないんだが。お前にゃ、そうかもしれねぇな」
それだけ。
否定もしない。慰めもしない。
ただ、事実として受け取る。
トウジは一度だけ、さっきの場所を見る。
シュクリがいた場所。
支部長がいた場所。
そこにはもう誰もいない。
だが。
感覚は残っている。
届かない距離。
追いつかない速さ。
通じない相手。
「……」
トウジは小さく息を吐いた。
そして。
もう一度、前を見る。
でもまだ、終わっていない。
そんな気持ちになったのも、初めてだった。
「ほら、さっさと行ってこい」
オルドに肩を軽く押されて、トウジは受付の方へ歩かされた。
試験が終わったばかりの人込みを避けつつ受付へと向かう。
さっきまで戦っていた場所と、ほんの数歩しか離れていないのに、そこだけ明らかに空気が違っていた。
ざわめきは同じだ。
だが、ここでは声が低い。
短い言葉が行き交い、紙を捌く音、筆が滑る音が混ざる。
「次」
呼ばれる。
受付台越しに座っているのは、若い女だった。無駄のない動きで書類を整えながら、こちらを見る。
視線が一瞬だけ止まる。
頬の血。トウジの顔。服の切れ目。
背後の支部長と、オルド。
「新規の登録ですね」
確認ではない。処理の開始だった。
「名前」
「トウジです」
「姓」
「……アイヒラー」
一瞬だけ間が空く。
女はそれを気にした様子もなく、書き込む。
「出身」
トウジが言い淀む。
オルドが横から口を出す。
「辺境寄りの流れ者だ。問題ねえ」
女はちらりとオルドを見る。
目を落とし、一言もなく筆記を続ける。
出自は問題にされないらしい。
「手を」
手の甲をこちらに向けて指示が出される。言われるままに右手を差し出す。
机の下から小さな金属板のような器具が出てきた。
「力を抜いてください」
手の甲に触れる。金属独特のひんやりとした触感。
じわ、と何かが流れた。「……っ」
女は器具から手を離す。
「魔素斑紋、確認、登録」
淡々と言う。筆記の手が動く。器具の表面に、わずかに光が走った。
「個体識別はこれで完了です」
「今ので?」
あまりにもあっさりしている。
「あと少しお待ちを」
今度は、指輪のようなものをやはり机の下から取り出す。
「シグル刻印、発行します」
トウジの手を取り、
「中指でいいですか?」
と事務的に尋ねる。トウジは、よくわからないまま頷く。
中指に指輪が通され、ぴたりと収まる。
少しだけ熱を持ったが、すぐに馴染んだ。
違和感が消える。そこにあるのがあたりまえと言わんばかりに光を反射している。
「それが身分証です」
女が言う。
「等級、状態、識別情報が記録されています」
トウジは指を見る。表裏を確認する。
が、ただの金属の輪っかにしか見えない。
「……これで分かるんですか?」
女は下を向いて作業しながら。
「見える者には見えます」
それだけを告げた。
「……」
「次はこれを読んでください」
書類が差し出される。
契約の書類。
トウジは目を通す。
完全には理解できない。だが、要点は分かる。
――勝手に問題を起こすな
――依頼は守れ
――民間に被害を出すな
単純だ。
「違約には、かなり重い処分が下されます」
事実のみが告げられる。
トウジは少しだけ考えてから、頷いた。
「……問題ないです」
たぶん。
「指を」
今度は小さな針。指先をわずかに刺す。血が一滴。それを、書類の端に触れさせる。
書かれた文字が淡く光って、すぐに消えた。
「契約は成立しました。ようこそ冒険者ギルドへ」
女がトウジの顔を見て、ニッコリと笑った。
それで終わり。
あまりにも簡単だった。
トウジは少しだけ拍子抜けする。
「これで……いいんですか?」
「はい、仮登録、完了です」
さらりと言う。トウジの後ろから支部長が軽く告げる。
「見習い級。まぁ一番下っ端から始めましょうってところかな」
初めて聞く単語だが、要は下っ端。当然といえば当然だった。
「依頼は制限付きで受注可能。詳細は掲示板を確認してください」
指で掲示板を示される。
ここに入るときに見た、あの大量の紙。
「あとは現場で覚えろってこったな」
オルドのざっくりとした説明を聞きながら、トウジは、中指の刻印証を見る。
たったこれだけなんだけど、何かが変わったんだろうか。
「それじゃトウジ君、がんばってね~」
ヒラヒラ手を振りながら支部長がその場から離れていく。
それを目で追っていると、下の方から声がかかる。
「トウジ、終わった?」
シュクリの大きめの目が、トウジを見上げていた。
耳が小刻みに動き、短めの尻尾もフルフルと震えている。
いつの間に……まったく気づかなかった。
「じゃ、いこ。案内する」
シュクリがトウジの袖を小さく握り、こっちこっちと引っ張って歩き始めた。
「トウジ! 宿でな!」
オルドから声がかかる。トウジが振り返ると冒険者ギルドから出て行くところだった。
掲示板の前は、人が絶えなかった。
木枠いっぱいに貼られた依頼書。新しいものは上に、終わったものは剥がされる。
トウジは一枚一枚、目で追った。
護衛。採集。討伐。運搬。短期の仕事が多い。
金額と危険度が並び、簡単な地図と注意書き。どれも分かりやすい。
読めるのと、読めない依頼書があった。いくつかの依頼は、文字がぼやけて見えた。
そんな依頼書の時には、刻印証が、かすかに熱を持つ。
「見習い級じゃ、読めないのもおおい、はず」
横でシュクリが言う。
トウジは頷きながら、視線を横に滑らせた。
一枚だけ、――時間だけが積もっている紙がある。
古い。紙が少し黄ばんでいる。端が擦れている。だが、剥がされていない。
上から、何度も印が押されている。更新。更新。更新。
トウジは、その紙の前で止まった。読める。
――北方辺境域 探査任務
簡潔な表題。だが内容は薄い。地点。範囲。帰還報告の欠落。再調査要請。それだけ。
報酬は高額。だが、その下に赤い線。
危険度評価――新鋭級以上。
トウジはしばらくその紙を見ていた。
とん、と。軽く袖を引かれた。
視線を落とす。
片手でトウジの袖をつまんだまま、もう片方の手で掲示板を指す。
「それ、ダメ」
小さな声。
トウジは少しだけ驚いて、目を瞬かせる。
少女の耳が小さく揺れる。
「よくない。人、戻らない。……残ってる」
シュクリの眼差しが真剣だった。




