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3-3 鼎談

 宴の熱気は、扉の向こうに置いてきたようだった。


 石造りの廊下は、静かだった。


 一定間隔に並ぶ灯りが床を照らし、磨かれた石の上に淡い光の帯を落としている。その中を、三つの影がゆっくりと進んでいた。


 オルドの腕の中で、トウジは完全に力を抜いている。首元にかかる呼吸は深く、規則的で、意識は完全に落ちていた。


「……寝たな、完全に」


 オルドが小さく言う。


「ええ……」


 エストも、少しだけ苦笑する。


「無理もありません。あれだけ囲まれて、あれだけ飲めば……」


 言いながら、トウジの肩にかかった髪をそっと整える。その仕草は、気づかぬうちに出たものだった。


 オルドは一度、腕の中の体勢を持ち直す。


「こいつを担ぐのは毎度のことだが」


 エストが珍しく笑う。


「ちゃんと食ってるのか、こいつ」


「食べてるはずです」


「そうは見えねぇぞ」


「軽そうですものね」


 短いやり取りのあと、再び静けさが戻る。


 靴音だけが、廊下に規則正しく響く。


 やがて、老師が歩みを緩めずに口を開いた。


「今夜は、そのまま帰るというのも無粋じゃのぉ」


 軽い調子だった。


 だが、行き先はすでに決めている声音。


「協会でどうじゃ? 近いしの」


 振り返りもせずに言う。


 オルドは肩をすくめた。


「じーさんとこか。泊めてくれんのか?」


「私も……お邪魔します」


 エストが頷く。


 老師は小さく笑った。


「決まりじゃな」


 それ以上は何も言わない。


 三人はそのまま、王城の裏手から外へと足を向けた。

 

 夜の空気は、少し冷えていた。


 


 王都の一角にある魔法士協会は、王城とはまた違う静けさを持っている。古い石造りの建物は、装飾こそ少ないが、長い時間を積み重ねた重みがあった。窓から漏れる灯りは柔らかく、外の闇に溶けるように広がっている。


 内部に入ると、夜気の冷たさの代わりに、紙とインクの匂いが漂う。わずかに残る薬品の気配。人の気配はあるが、王城のような緊張も、宴のような喧騒もない。

 落ち着いた、思考のための空間だった。


 廊下を進み、いくつかの扉を抜けた先に、老師の部屋がある。


 顧問室。


 広いわけではないが、整っているとも言い難い空間だった。書棚には本が隙間なく詰め込まれ、机の上には巻物や資料が積まれている。だが散らかっているというより、すべてが“手の届く位置”にあるという印象だった。


「ひとまずそこへ」


 老師が指さす先。


 部屋の隅に置かれた簡素な寝台。


 オルドは無言でトウジを運び、慎重に横たえた。体を離しても、トウジは目を覚まさない。深く眠っている。


 エストが近づき、寝台の横に畳まれていた夜具を広げ、トウジにかける。


 その様子を一瞥して、老師は椅子に腰を下ろした。


 木製の背もたれが、わずかに軋む。


 オルドは長椅子に積まれた巻物やガラクタ紛いの道具を乱暴に除け、どっかりと座り腕を組む。


 エストはトウジの足元、寝台の余った部分に座り、視線を老師へ向ける。


「……みな、本当にご苦労じゃったの」


 静かな声だった。


 部屋の空気に溶けるような労いに、オルドはわずかに眉を動かし、エストは小さく頷いた。


 短い沈黙が落ちる。


 外の喧騒は、ここには届かない。ただ、紙の匂いと、夜の静けさだけがある。


 老師はゆっくりと背もたれに体を預けた。


 「でじゃ、これからのことじゃが――」


 言いかけたところで、


 「じーさん、ちょっといいか」


 オルドが口を挟む。


 声音は低いが、遠慮はない。


 老師は目だけで先を促した。


 オルドは一度だけトウジの方を見てから、言った。


 「二人の意見を聞きたい」


 間を置かず、続ける。


 「ホローム村で、瘴気を消したのは――トウジか?」


 部屋の空気が、わずかに沈む。


 老師はすぐには答えない。


 エストも、視線を落としたまま考える。


 やがて、先に口を開いたのはエストだった。


 「少なくとも、あれは聖騎士の術ではありません」


 はっきりと言い切る。


 迷いのない否定だった。


 「瘴気の浄化は可能です。ですが、あのような――痕跡すら残さない消失は、体系に存在しません」


 自分の領域を否定する言葉。それでも、事実として受け入れている。


 老師が、軽く息を吐いた。


 「魔法でもないのぉ」


 視線は天井へ。


 「瘴気を一瞬にして消し去る魔法なぞ、少なくともわしは知らん」


 その言い方は、断定ではない。


 だが、現時点での結論としては十分だった。


 オルドは、黙ったまま聞いている。


 腕を組んだまま、視線だけが動く。


 なにかを頭の中で追いかけているような様子だった。


 そして、少しだけ、視線を細める。


 「もう一つある」


 低く言う。


 「瘴気が消えた後だ」


 エストが顔を上げる。


 老師も視線を戻した。


「四日四晩、魔物とやりあっても平気だったこいつが……」


 とトウジに向かって顎をしゃくる。


「あの後は、立つのもやっとのありさまだった」


 実際に見ていた者の言葉。


 重みがある。


「あれは、ただの疲労なんかじゃねえ」


 部屋の中で、トウジの寝息だけが一定のリズムを刻んでいる。


 その音が、かえって言葉を重くする。


 エストは視線をトウジに落とした。


 思い出す。


 あのときの様子。


 確かに、トウジのところへ戻ったときは、膝をついて苦しそうだった。


 ただ、その理由を深く考えたことはなかった。


 「……そうでしたね。理由は……現時点では説明できません」


 正直に言う。


 「ですが、意図的になんらかの力を使ったようには見えませんでした」


 そこだけは、はっきりしている。


 老師も頷いた。


 「無理に引き出した形ではないじゃろうの」


 指先で机を軽く叩く。


 考えている。


 だが、急いで結論を出そうとはしていない。


 オルドは黙る。


 それ以上は言わない。


 言えば、踏み込みすぎる。


 だが、胸の奥には一つだけ、引っかかるものがあった。


 ――昔話。


 巨人族の里に伝わる、古い話。勇者が、自らの力を削り、道を切り開いたという話。子供の頃に聞いた、ただのおとぎ話。


 あの話に、似てやがる……。


 「……似てるな」


 小さく、誰にともなく呟く。


 エストが反応する。


 「何がですか?」


 オルドは首を振る。


 「気にするな。確証もねえ」


 それ以上は語らない。


 だが、その言葉は確かに場に残った。


 短い沈黙。


 そのあと、エストがふと思い出したように口を開く。


 「……一つ、私も確認したいことがあります」


 老師に視線を向ける。


 「瘴気が消えた件ですが……王国の報告には含めていませんね?」


 言い方は穏やかだが、意図は明確だった。


 老師は少しだけ目を細める。


 「真実を述べたまでじゃ」


 落ち着いた声で答える。


 「瘴気があった。聖騎士が突入した。瘴気が消えた」


 指を三つ、軽く立てる。


 「それだけのことよ」


 余計な解釈は加えていない。


 事実のみ。


 エストはその言葉を受けて、わずかに息を吐いた。


 「……そう、ですね」


 理解はしている。そして、その意図も。


 オルドが鼻を鳴らす。


 「もし“トウジが消した”って話になってたら」


 少しだけ口元を歪める。


 「王国はトウジのことで、もっと強く介入してきただろうな」


 実感のこもった言葉だった。


 エストも頷く。


 「ええ。間違いなく、もっと強く関与しようとしてきたはずです」


 その結果がどうなったかは、言うまでもない。


 部屋に、再び静けさが戻る。


 老師はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


 「分からぬものは、分からぬままでよい」


 穏やかな声だった。


 「少なくとも、あれは人を守るために使われた」


 視線が、寝ているトウジに向く。


 「ならば今は、それで十分じゃ」


 エストは、静かに頷いた。


 オルドも、何も言わずに視線を逸らす。



 しばしの沈黙のあと、老師が指先で机を軽く叩いた。


 「さて、今後のことじゃ」


 視線を二人に巡らせる。


 「わしは当面、このまま王都(フィオル)に留まる。魔法士協会の顧問として、王国と聖環院、その間の均衡を保つ役目を果たさねばならん」


 穏やかな口調だった。


 だが言っている内容は、軽くはない。


 「無用な干渉はせぬ。おぬしの動きを妨げるつもりもない」


 エストに向けて言う。


 「……じゃが、万が一の時は、わしが動く」


 柔らかいが、はっきりとした線引きだった。


 エストは静かに頷いた。


 「承知しています」


 少しだけ間を置いてから、言葉を続ける。


 「私の立ち位置は、今のままです。聖騎士として、そして……この子の傍にいる者として」


 視線が、寝台のトウジへと落ちる。


 「ただ、聖環院の内部事情次第では、思うように動けなくなる可能性はあります」


 声は落ち着いているが、その裏にある難しさは隠していない。


 老師は小さく頷いた。


 「じゃろうな」


 短く受け止める。


 そして、視線をオルドへ向けた。


 「おぬしはどうする?」


 オルドは腕を組んだまま、少しだけ天井を見た。


 考える、というより、すでに決めていたものを口にするように。


 「俺は……一度、故郷に戻る」


 エストが顔を上げる。


 「戻る、のですか?」


 「ああ」


 短く答える。


 そして、少しだけ視線をトウジに向けた。


 「こいつ見ててよ。ちょっと気になるっていうか……かなり引っかかることがあってな」


 言葉を選ぶ。


 だが、それ以上は踏み込まない。


 「それを確かめてくる」


 淡々とした口調。


 「こっちには、すぐには戻れねえ。……一年か、二年か」


 その時間の長さに、エストの表情がわずかに曇る。


 「それは……トウジのため、ですか?」


 問いかける声は静かだった。


 オルドは一瞬だけ言葉を止め、それから小さく息を吐く。


 「ああ、そういうことだな」


 少しだけ苦笑する。


 「なんか、らしくねえけどよ」


 自分でも分かっているらしい。


 だが、否定はしない。


 「こいつを冒険者ギルド(ヴァルグラム)に放り込んだら、俺は一度帰る」


 その言葉に、エストがはっきりと反応した。


 「冒険者ギルド(ヴァルグラム)に……トウジを?」


 意外そうな、そして少しだけ警戒を含んだ声。


 オルドは肩をすくめる。


 「お前さ」


 少しだけ視線を向ける。


 「全部抱え込む気だろ」


 断言だった。


 エストは言葉を返さない。


 だが、否定もしない。


 オルドは続ける。


 「気持ちは分かる。だが神殿も一筋縄じゃいかねえ」


 現実的な話だった。


 「じーさんも、ここを足場に動くって話だろ」


 老師にちらりと視線を送る。


 老師は黙って受ける。


 「なら俺が頼れるのは、冒険者ギルド(ヴァルグラム)だ」


 迷いなく言う。


 「決して弱い組織じゃねえし、縛りも緩い」


 言葉を切る。


 「いざとなったら――どこへでも姿を消せる」


 その一言は、重かった。部屋の空気が、わずかに引き締まる。


 エストは少しだけ目を伏せる。


 その意味は、十分に理解している。保護では足りない。逃げ場も必要だということ。


 「……合理的ですね」


 静かに言う。感情を押さえた、納得の言葉だった。だが完全に割り切れているわけではない。それもまた、隠してはいない。


 老師が、ゆっくりと頷いた。


 「悪くない」


 短く評価する。


 「神殿、王国、協会、それにギルドのぉ」


 指で軽く数える。


 「四つの柱に分けておけば、どこかが崩れても支えが効くの」


 穏やかな言い方だが、構造は明確だった。


 エストはトウジを見る。


 「……分かりました」


 小さく、しかしはっきりと頷く。


 「その形で、進めましょう」


 完全な同意ではない。


 だが、最善に近い選択として受け入れる。


 オルドはそれを見て、軽く息を吐いた。


 話はまとまった。少なくとも、今は。


 部屋には再び静けさが戻る。

 

 その中心で、当の本人だけが、何も知らずに眠っていた。

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