3-2 祝勝会
大広間は先ほどの謁見の間と同じ王城の中とは思えないほど、空気が変わっていた。
広間に入った瞬間、まず耳に届くのは人の声だった。先ほどまでの張り詰めた静けさはどこにもなく、笑い声や話し声が重なり合って、場全体をゆるやかに満たしている。
長卓には料理が隙間なく並べられている。肉は豪快に切り分けられ、香草の香りをまとって湯気を立てていた。果実がきれいに盛られ、見慣れない菓子や、色の違う酒がいくつも並び、どれに手を伸ばせばいいのか迷うほどだった。
貴族たちも、もう先ほどのような堅い顔はしていない。杯を片手に歩き回り、気の合う者同士で集まり、あるいは新しい顔に声をかける。婦人たちの笑いも軽く、衣擦れの音が絶え間なく続いていた。
「ほら、さっさと食え」
横から皿を押しつけられる。
オルドだった。すでに何皿目か分からない肉を手にしている。
「いや、さっきから食べてますけど」
「足りてねえ顔してる」
理屈が雑だ。だが言われるままに口に運ぶと、たしかにうまい。焼き加減も絶妙で、噛むたびに肉汁と香草の香りが広がる。
思わずもう一口食べると、オルドが満足そうに笑った。
「だろ?」
「……はい」
素直に頷くしかない。
そのまま別の皿に手を伸ばす。次も、やはりうまい。さっきまで感じていた妙な緊張が、食べるごとにほどけていく気がした。
少し離れたところで、エストが誰かと話しているのが見える。丁寧に応対しているが、視線だけは時折こちらに向けていた。気にしているのが分かる。
老師はと言えば、すでに完全に場に馴染んでいた。杯を傾けながら、相手を変えつつ会話を続けている。そのどれもが無理のない距離で、自然と相手に合わせているのが分かる。
「飲むか」
気づけば、老師が杯を差し出していた。
中には琥珀色の酒が揺れている。
「え、あ……」
少し迷う。
オルドが横で笑った。
「一口くらいなら平気だろ」
「そういう問題ですかね……」
言いながらも、断る理由が見つからない。受け取って、そっと口をつける。
苦い。
思わず顔をしかめる。目の周りが少し熱くなる。
「はは、そんな顔するな」
老師が楽しそうに笑う。
「……苦いです」
「それが酒じゃ」
軽く言われて、もう一口だけ試してみる。さっきよりは、少しだけましに感じた。
周囲の声が、少しだけ遠くなる。
ざわめきが柔らかく広がり、耳に優しく触れるようになる。
気づけば、肩の力が抜けていた。
「……少しは慣れましたか?」
振り向くと、エストが戻ってきていた。
「たぶん、少しだけ」
「そうですか」
ほっとしたように微笑む。
その表情を見て、トウジはようやく実感する。
――終わったんだな。
戦いは終わった。守れた。誰も死ななかった。
胸の奥に、じんわりとした温かさが広がる。
「顔、さっきよりずっといいですよ」
「そうですか?」
「ええ」
エストは頷く。
その言葉に、トウジは小さく息を吐いた。
少しだけ、ここにいてもいい気がした。
――そのときだった。
「失礼、少しよろしいかな」
背後から、柔らかな声がかかる。振り向くと、見覚えのない貴族が立っていた。整った礼装に穏やかな笑み。だがその目は、しっかりとこちらを見ている。
「先ほどの陛下のお言葉、さぞや見事な戦いぶりであられたのでしょうなぁ」
丁寧な言葉に、トウジは慌てて姿勢を正した。
「あ、ありがとうございます」
それがきっかけだった。
「どのようにして首魁級の魔物を討たれたのです?」
「瘴気を制したという噂話は本当で?」
「師はどなたに?」
声が重なる。気づけば、周囲に人が増えていた。距離が近い。一歩下がると、すぐ別の誰かに触れる。逃げ場がない。質問は途切れず、答えようとした言葉は次の問いに押し流される。
その流れに、別の色が混ざる。
「まあ……ずいぶんとお若いんですのね」
柔らかな声。振り向くと、上品な装いの婦人が立っていた。年の頃は四十前後だろうか。穏やかな笑みだが、その視線は別の方向にも向いている。
その半歩後ろに、娘がいた。
年はトウジとそう変わらない。淡い色のドレスに身を包み、控えめに立っているが、こちらを気にしているのが分かる。
「我が娘など、まだ未熟でしてね」
婦人はそう言いながら、さりげなく娘を一歩前に出す。
「よろしければ、今度ぜひ――」
言葉を濁す。
だが、意味は濁っていない。
トウジは一瞬、固まった。
「え、あの……」
何を答えればいいのか分からない。
助けを求めるように視線を動かすが、周囲はすでに次の話題に移りつつある。
「勇者殿はまだお独り身で?」
「どの家と縁を結ぶかで、将来も変わりましょうな」
別の貴族が軽く笑う。
冗談のようでいて、冗談ではない声だった。
「……あの、俺は」
言葉が続かない。
その様子を見て、婦人はくすりと笑う。
「まあまぁ、急ぐ話ではございませんわ」
そう言いながらも、しっかりと印象だけは残していく。
娘は小さく会釈し、視線を逸らした。
その一連の流れが、また別の興味を呼び込む。
「なるほど、まだどこにも属しておらぬか」
「それはまた、貴重な立場ですな」
言葉の圧が、少しずつ増していく。
トウジは完全に飲み込まれていた。
何を言えばいいのか分からない。どう振る舞えばいいのか分からない。ただ、流されるままに頷き、曖昧に返し、気づけばまた杯を受け取っている。
「少し、よろしいでしょうか」
エストがすっと前に出る。笑顔を崩さないまま、自然に間に入り込む。
「勇者殿は帰任後、間もありませんので詳しいお話はまた後日に」
柔らかいが、はっきりとした線引きだった。
「おや、これは失礼を」
「聖騎士殿がそう仰るならば」
いったんは引く。
だが完全には離れない。
視線は残る。
機会を窺う気配も残る。
トウジはその中で、ようやく一息つく。
だがその隙に、また別の杯が差し出される。断る余裕がない。
受け取る。飲む。笑い声。また一口。
足元が、少しずつ不安定になる。視界が柔らかく揺れる。
「……トウジ?」
エストの声が近づく。
「だいじょうぶ、れす」
自分でも怪しいと思いながら答える。
その言葉の途中で、体がふらついた。
椅子に手をつく。だが支えきれない。
「ほれ、そのくらいにしておけ」
老師の声が、遠くから割り込む。
「初めてにしてはまぁ上出来じゃろうて」
誰かが笑う。
その音がやけに遠い。
視界が傾く。
そのまま、トウジは前に倒れ込んだ。
卓に額が触れる。ひんやりとした感触が、妙に心地いい。
遠くで、エストの慌てた声と、オルドの呆れた笑いが混ざる。
それを最後に、トウジの意識はゆっくりと沈んでいった。
トウジの意識が落ちたあと、場の空気はほんの一瞬だけ緩んだ。
「……すみません、勇者殿はお疲れの様子で、失礼をいたしました」
エストはそう言って、周囲に軽く頭を下げる。丁寧な所作を崩さないまま、だがそれ以上の応対は許さないという距離の取り方だった。
「はは、若いのに飲ませすぎたか」
「いや、あれだけ囲めば誰でもこうなろう」
軽い笑いが起きる。
その中で、先ほどの婦人が一歩だけ近づいた。
「本当に、初々しいですこと」
扇で口元を隠しながら、含みのある声で言う。
「どのようなご縁に恵まれるのか、今後が楽しみですわね」
婦人の視線が、ほんの一瞬だけエストをなぞる。
試すように。測るように。
エストはその視線を受け止めたまま、笑みを崩さない。
だが一歩も引かない。
「ええ、どんなご縁を築かれますやら」
言葉としては丁寧だったが、そこには明確な線が引かれていた。
婦人は一瞬だけ目を細め、それから軽く肩をすくめる。
「次は、勇者様のお目が覚めているときにでも、ぜひと」
それ以上は踏み込まない。
だが、引いたわけでもない。“覚えた”という空気だけを残して、離れていった。
その一連を見届けて、オルドが小さく息を吐く。
「……面倒くせえな」
「こんなものですよ」
エストは短く答える。
そのままトウジの方へ視線を落とす。
ぐったりと机に突っ伏したまま、完全に意識を手放している。
「……本当に」
小さく、ため息をつく。
そのまま、トウジの額にかかった髪をそっと払う。
触れた指先が、ほんのわずかに止まる。
「もう少し、気をつけてください」
眠っている相手に言っても仕方がない言葉。
それでも、言わずにはいられなかった。
「……そういうところです」
誰に向けたのか、自分でもはっきりしない。
オルドがそれを横目で見て、口元をわずかに歪める。
「守る側が、守られてどうすんだかな」
軽く言う。
エストは一瞬だけ視線を上げる。
「……お互い様でいいんです」
ただ、そのあとでほんのわずかに視線を逸らした。
老師が、くつくつと笑う。
「そうじゃの。守り、守られ、それもまた一つの成長じゃ」
杯を傾けながら、気楽に言う。
「じゃがまあ――」
ちらりとトウジを見る。
「少しばかり、人気が出すぎかの」
エストは、それには答えなかった。
ただもう一度だけ、トウジの様子を確かめる。
「……行きましょう」
そう言って、静かに立ち上がった。




