002 勇者失業
エストが、渋い表情のまま近づきかけて、トウジの右手を見た。
剣を握っていた指が、まだ小さく震えている。
「トウジ、その手は」
「冷えただけだよ」
エストは何か言いかけたが、ふと顔を横へ向けた。
瘴気の霞の向こうから二つの影が近づいてきた。
背に大剣を負った筋骨隆々の大男と、粗いローブをまとった細身の老人。見慣れた顔に、トウジはようやく肩の力を抜いた。エストも表情を少しゆるめた。
「オルドさん、老師」
大きな影の持ち主は、戦士のオルドだ。巨人族らしい岩みたいな体格で、鎧の隙間からのぞく筋肉がもはや鎧より硬そうに見える。剥きだしで背負う大剣の柄だけが肩から生えているようだった。
その隣の小柄な老人が、老師と呼ばれる高齢の魔法士だ。戦場には似つかわしくない簡素なローブ姿だが、存在感の大きさでオルドを完全に食っている。
「どうしてこっちに? 二人とも本営にいると思ってましたけど」
「……なんだよお前、ボロボロじゃねぇか」
破れた防護服から覗く肌は、打撲や擦り傷だらけだった。
少し痛みは感じるが、魔物との戦いではよくあることだ。気にしていなかった。
「そんなことより、こっちにくるの早すぎませんか?」
「そんなことってなぁ……」 オルドがいつもの呆れ顔を見せる。
「あー……じーさんがな。どうしても前線に出るって聞かなくてよ」
オルドが頭をかきながら、少しだけ気まずそうに老師を見る。
「今回のは大物じゃと聞いておったからのう」
老師は白い髭を撫でながら、にこにこと笑った。
「魔核が気になっておったんじゃよ」
魔核。
魔物の核にして、魔素の結晶。
魔法士にとっては喉から手が出るほど欲しい代物だ。携帯できる魔素供給源。要するに、持ち歩ける予備燃料みたいなものだ。
「すみません、老師」
トウジは少しだけ頭を下げた。
「魔核、残りませんでした。たぶん、戦闘の最後で壊してしまったと思います」
「ふむ」
老師は一瞬だけ目を細めたあと、すぐに柔らかく笑った。
「まあ、よいよい。おぬしが無事なら、それで十分じゃ」
そう言いながら、老師の視線は傷よりも顔を見られている気がした。
「そっちはもう終わったのか?」
オルドがエストに問いかける。
「騎士団はまだ眷属の掃討中です」
エストは、小さく息をついた。
「今回は質も量もこれまでとは違って、かなり手こずっています」
魔物本体に群がる雑魚や眷属を引き受けるのが騎士団の役目だ。その隙に、自分が単独で本体を叩く――いつもの形。でも今回は、その“いつも”が四日も続いた。さすがに長かった。いや、長すぎた。無窮の勇者と呼ばれる自分が、集中力を無くすほどに。
エストの視線がこちらに向く。
「……どうやらこちらも、無事に討伐、という体じゃないようですが……」
「え、いや、あー……これからそっちを手伝いに――」
「本気で言っているのですか?」 一言で切られた。
「他人の心配をする前に、自分の心配をしろと何度言えばわかるんです」
声は静かだ。でも逆に怖い。
「大丈夫だって」
「それ、前回も聞きました」
「あ~……」
「倒れて、そのまま三日も眠った人の言葉でした」
エストの視線が外れない。
「ごめんなさい……」
怒られた。完全に怒られた。
視線を逸らすと、そっちでオルドが鼻を鳴らして笑っていた。老師も苦笑している。
「雨の中で立ち話もなんじゃ」
老師が空を見上げる。
「どこかで雨宿りでもせんかの」
エストが来た方向を指差した。
「あちらに廃屋がありました。ひとまず、そこで休みましょう」
オルドが周囲を見回しながら、賛同した。
「そうだな。この瘴気の濃さじゃ、まだここを離れられねぇ。新しく湧く可能性もある」
瘴気とは魔素の集まりだ。ただし魔素とは位相が違うとかなんとか――老師の言葉はときどき理解できなくなる。いわば、魔物の根源。
普通の人族なら、長く浸れば命にかかわる。
魔物を倒したおかげか、だいぶ薄くはなってきたけど、油断は禁物だった。
とは言え、自分たちには効かない。
少なくとも、自分には空気と変わらない。
瘴気の中でも動ける。いつもと同じように。
森の中にぽつんと建つ、朽ちた廃屋。
その石庇の下で、トウジは壁に背を預けていた。
庇の縁から、雨粒が切れ目なく糸のように垂れている。
四日と四晩、降り続いている雨。
老師が仕込んだ魔法雨だ。
微量の魔力を含み、降り注ぐ雨粒の一つ一つが、瘴気や周囲の魔素を少しずつ削っていく。魔力と魔素が交わることで互いを打ち消し合うのだと、以前老師が説明していた。
地味だが、確実な浄化方法らしい。
トウジは足を前へ投げ出し、ぼんやりと雨を眺める。
戦いが終わった。
そう思った途端、身体のあちこちから、張りつめていた力が抜け始めた。
最初は心地よかった。
肩が軽くなる。
強張っていた背中が壁へ沈む。
剣を握り続けていた右手の指も、ようやく開くことができた。
だが、一度抜けた力が、なかなか戻ってこない。
膝の上へ置いた右手を持ち上げようとして、トウジはやめた。ひどく重い。
四日も戦い続けたのだ。
これくらいは当然だろう。
隣へ腰を下ろしたエストが、治癒魔法を発動した。
淡い光が、破れた防護服の隙間から覗く傷を包み込む。
裂けた皮膚が塞がり、黒ずんでいた痣が少しずつ薄れていく。
いつもなら、湯に触れたような温かさを感じるはずだった。
今日は何も感じない。
雨で冷えたせいだろうか。
トウジは気にせず、庇から落ちる雨を目で追った。
エストはしばらく無言だった。
傷を治しているというより、一つ一つの反応を確かめているように、同じ場所へ何度も魔力を流している。
「トウジ」
「ん?」
「今、温かさを感じますか」
唐突な質問だった。
「温かさ?」
「治癒の光です」
トウジは自分の腕を見た。
淡い光が肌を包んでいる。
「……うん。感じるよ」
そう答えるまで、少し間が空いた。
エストの手が止まる。
「本当に?」
「たぶん」
エストの表情から、わずかに色が消えた。
壁にもたれていたオルドが、こちらへ視線を向ける。
老師も、白い髭を撫でていた手を止めていた。
「なんですか、みんなして」
今回は少し疲れただけだ。
「傷そのものは塞がりました」
エストは静かに言った。
「ですが、消耗は別です。あなたは限界になるまで、自分で気づかないでしょう」
「まだ動けるって」
「それも前回聞きました」
「あー……ごめんなさい……」
また怒られた。
「これで、ようやく終わりか」
オルドがぽつりと漏らした。
終わり。
その言葉が、妙に重く聞こえた。
「そうじゃな」
老師が静かに頷く。
「八十年近く続いた大掛かりな魔物討伐も、今夜で終幕じゃ」
「……じゃあ」
オルドが眉を寄せた。
「俺たち、失業か?」
トウジは思わず笑った。
「本当に失業するのって、俺とオルドさんの二人だけだよ」
エストは四柱聖環院の神官で、老師は言わずと知れた大魔法士だ。
「ますます笑い事じゃねえぞ、そりゃ!」
けれど、オルドの声にもいつもの棘はなかった。
むしろ少し、寂しそうだった。
オルドは長いあいだ戦い続けてきた。
トウジがこの戦へ加わるより、ずっと以前から。
失業といえば、無窮の勇者も同じか。
魔物に特化し、相手が倒れるまで戦い続ける。
それだけの理由でつけられた、大仰な二つ名。
そう呼ばれるのも、今日で終わる。
明日から、どうしよう。
そう考えて、真っ先に思い浮かんだのは――。
どこで戦うか、だった。
「トウジ」
エストがこちらを見る。
「あなたは、この先どうするつもりですか」
「……あ……えー」
正直に答えれば、確実に怒られる。
けれど、ほかには何も思いつかなかった。
この五年、戦うことしかしていない。
戦わない自分を想像してみる。
うまく形にならない。
「考えて……なかったです」
「本当にあなたは……」
呆れたような声だった。
それでもエストの目には、言葉以上の心配が浮かんでいる。
老師も、オルドも同じだった。
まるで、トウジが今にも倒れると思っているような顔だ。
三人とも大袈裟だ。
少し休めばこんな疲れなんか――。
庇から落ちる雨粒が、不意に二重に見えた。
トウジは瞬きをする。
元へ戻らない。
「トウジ?」
エストの声がする。
返事をしようとした。
けれど、舌がうまく動かなかった。
右手の指を握ろうとする。
動いたのかどうか、自分でも分からない。
ああ。
これは、前と同じだ。
そう気づいた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
「エスト」
名前を呼んだつもりだった。
声になったかは分からない。
エストが治癒の光を消し、トウジの肩を掴む。
「老師!」
オルドが立ち上がった。
老師はすでに杖を握り、こちらへ向けている。
三人とも慌ててはいた。
それでも驚いてはいない。
何度も、この瞬間を見てきた顔だった。
身体が、妙に重い。
指先の感覚が遠ざかる。
抗いようのない眠気が、身体の底から這い上がってきた。
そのとき。
魔物が消える寸前に感じたものが、頭の奥で再び揺れた。
細い糸のような何かが、意識の奥へ絡みつく。
眠りへ落ちているのではない。
どこかへ引かれている。
そんな感覚がした。
「トウジ、目を開けて!」
エストの声が遠くなる。
世界が、ゆっくりと傾いていく。
次の瞬間。
トウジの意識は、誰かに手を引かれるように、静かな闇へ沈んだ。




