1-1 残滓
――硬い。
肉の奥で、刀身の先が魔核を捉えた。間違いない。
右手に力を込める。
ぱきり、と何かが砕けた。手応えが一変し刃がさらに食い込む。
魔物の身体が大きく跳ねた。何度か激しく痙攣し、それもすぐに弱くなる。
剣を握る手へ伝わってくる力が、少しずつ抜けていった。
――終わったか。
それでも、すぐには剣を抜かない。
何度も騙された。何度も立ち上がられた。
じっと様子を窺う。
やがて完全に動きが止まった。
そこでようやく剣を引き抜く。――その瞬間、雨の音が戻ってきた。
ざあざあと、それまで遠くへ追いやられていた雨音が一気に押し寄せてくる。
トウジは長く息を吐いた。気づけば肩にも腕にも力が入っていたらしい。
折れた木が何本も倒れている。地面は抉れ、雨水が泥を巻き込みながら流れていた。
ようやく周りを見る余裕ができた。結構ヒドイありさまだ。
少し離れた場所には剣が二本転がっている。どれも自分のものだった。
一本は折られ、一本は刃がこぼれ、触手に持っていかれた一本は見当たらない。
予備の剣は……と考えかけて止めた。たぶんもう必要ない。
魔物を見上げる。
それにしても……でかい――改めて見ても、やっぱりそう思う。
トウジの身体など軽く三つ分はありそうな歪に膨れ上がった巨体。何本も生えている触手。触手についた眼球。開け放たれた口の牙。躯体のあちらこちらの棘。
思いつく限りの悪趣味を寄せ集めたみたいな見た目の魔物。こいつに、追い掛け回されていたかと思うと、胃が痛くなる。二度とご免こうむりたい。
しかし今は、触手は力なく垂れ下がり、もう動く気配はない。虚ろな瞳が濡れて見えるのは、雨のせいだろう。……たぶん。
魔物との戦いが始まってから、もう四日。
顔に打ちつける雨粒を鬱陶しく思いながら空を見上げた。
魔法で雨を降らせ続けるのだと聞いてはいたが、さすがに降らせすぎだろう。
森の奥のそのまた奥にわずかに開けた空間に、濃い瘴気が満ちていた。
黒ずんだ薄墨色の靄が、地面から滲み出るように揺らめき、雨に打たれてもなお消えずに残り続けている。
身体にまとわりつくそれは、動けば動きに合わせて形を変えながら、しかし決して離れない。生き物のように、あるいは生き物だったものの残滓のように、ねっとりとまとわりついてくる。
息を吸えば、舌の奥に鉄と腐葉土を混ぜたような匂いと味が広がった。
最初にこの瘴気を吸ったとき、トウジは三日間まともに食えなかった。
嫌なはずなのに、慣れてしまっている。その事実のほうが、少しだけ嫌だった。
やがて、魔物の輪郭が崩れ始めた。
突起物だらけの表面がまず消えていった。幾重にも並んでいた凸凹が、雨と瘴気の向こうでぼやけていく。墨を水に垂らしたみたいに、輪郭がゆっくりと解けていく。崩れているようにも、瘴気へ還っていくようにも見える。
見慣れた終わり方だ。
トウジは剣を鞘に収めた。
――間に合っただろうか? エスト達騎士団は、まだ戦っているだろうか。
ひとまず、自分の役目は終えた。自分には、これしかない。
戦って、斃して、また戦う。それ以外の生き方を知らなかった。
巨体が曖昧になり、目も口も判別できなくなった頃。躯体のあちこちに、青白い光がぽつり、ぽつりと灯り始めた。次の瞬間、それは無数の光の筋となって巨体を駆け巡る。輪郭をなぞるように。撫でるように。
光が通り過ぎた場所から、薄暗い煙が立ち上る。雨粒がその煙を抜けるたび、ぱっと小さな閃光が弾けて、すぐに消えた。
毎回思う。綺麗だ、と。
どれだけ醜悪な魔物でも。どれだけ多くのものを踏みにじってきた存在でも。終わりだけは、不思議なほど美しい。
音もなく崩壊は進み、その存在が最初からなかったかのように、すべてが霧散しようとした、その刹那。
何かが、触れた。トウジの頭の奥に。
音ではない。言葉でもない。映像でも、気配でも、ない。けれど確かに、何かが触れてきた。思考よりも、もっと深い場所へ、そこへ指先でそっとなぞられたような触感。冷たくも温かくもない。痛くもない。
一瞬だけ現れて、わずかな余韻を残して消えていく。
息を止めて、その気配を追う。何かを伝えようとしている。誰に? 何を? 細い糸のような感覚が虚空へ伸び――掴むより早く、すうっと消えた。
トクン……
心臓が小さく震えた。
意味はわからない。こんなのは初めてだ。これまで数えきれないほど魔物を斃してきたが、こんなものを残したやつはいなかった。
しばらくトウジは動けなかった。
いつの間にか魔物の巨体は跡形もなく消えていた。
あの感触もなくなっていた。残っているのは漂う瘴気と、降り続く雨だけ。
雨の音がことさら大きく聞こえてくる。
思わず長く息を吐いた。
トウジは濡れた前髪を乱暴に払って、踵を返す。
「終わったのですね」
瘴気と雨の帳の向こうから、いきなり声がかけられた。少し安堵したような女の声だった。
「この辺りの瘴気はまだ濃い! すぐ離れてください!」
反射的に声を張る。少し語気が強くなる。無理もない。瘴気は人族にとって毒だ。何度も見てきた。人が、人でなくなっていくところを。
「トウジ、私です」
瘴気の向こうから、白を基調にした聖騎士の軽装鎧の女性が現れた。
「エスト」
濡れた銀髪が頬に張りついて、それでも不思議なくらい絵になっている。
こちらの顔を見たエストの肩から、ほんの少しだけ力が抜けたようだった。
「様子を見に来たのですが、さすがです。無窮の……」
言葉が止った。
エストが無言になる。
その視線が、じわりと下がっていく。
嫌な予感がした。
恐る恐る自分の身体を見下ろす。
あ。
やばい。
「……トウジ」
エストが静かに名前を呼んだ。それが一番怖かった。




