001 残滓
トウジは泥に片膝をつき、横倒しになった魔物の胸へ剣を突き立てていた。
身体三つ分はあろうかという巨体が、降りしきる雨に打たれてぬらぬらと光っている。歪に膨れた胴の脇では、眼球のついた触手が一本、まだ泥の上を探るように蠢いていた。
――硬い。
肉の奥で、刀身の先が何かにぶつかっている。
魔核だ。間違いない。
柄を両手で握り直し、右腕に力を込める。滑りそうになる足を泥へ押しつけ、全身の重みを剣へ乗せた。
ぱきり。
肉の奥で、何かが砕けた。手応えが一変し、刃がさらに深く沈む。
魔物の巨体が大きく跳ねた。
眼球のついた触手が泥を叩き、水たまりが派手に弾ける。二度、三度と全身を激しく痙攣させたあと、その動きは次第に弱くなっていった。
剣を握る手へ伝わっていた力が、少しずつ抜けていく。
――終わったか。
それでも、すぐには剣を抜かなかった。
何度も騙された。倒したと思った魔物に、何度も立ち上がられた。背を向けたところを襲われたことも、一度や二度ではない。
トウジは柄を握ったまま、雨の中で息を潜めた。
触手は動かない。開け放たれた口から、濁った息が漏れることもない。
十を数える。
さらにもう十。
巨体が完全に動かなくなったのを確かめてから、ようやく剣を引き抜いた。
その瞬間、雨の音が戻ってきた。
ざあざあと、それまで意識の外へ追いやられていた雨音が、一気に耳へ押し寄せてくる。
トウジは長く息を吐いた。気づけば、肩にも腕にも力が入りきっていたらしい。剣を持つ右手がかすかに震えている。
身体を起こし、泥に沈みかけた足を引き抜く。ようやく、周囲を見る余裕ができた。
森の奥、そのまた奥。
木々に囲まれた小さな空き地は、四日間の戦いですっかり姿を変えていた。
何本もの木が幹の途中から折れ、地面へ重なり合うように倒れている。太い根が土ごと抉り出され、できた窪みを雨水が満たしていた。足元では、泥と雨水が細い流れをつくり、斜面の下へと流れている。
結構ひどい有り様だ。
魔物の向こう、空き地の端には剣が二本転がっていた。どちらも自分のものだった。
一本は刀身の半ばから折れている。もう一本は刃がひどく欠け、泥の中へ半分ほど埋まっていた。
触手に弾き飛ばされたもう一本は、周囲を見回しても見当たらない。森のどこかへ持っていかれたのだろう。
予備の剣は――と考えかけて、やめた。
たぶん、もう必要ない。
手に残った最後の一本を軽く振り、刃についた黒い体液を雨で洗い流す。改めて、倒れた魔物を見下ろした。
「……でかいな」
思わず声が漏れる。
戦っている最中は、ただ避けて、斬って、逃げることで精いっぱいだった。こうして動かなくなった姿を前にすると、その異様さが嫌でも目についた。
トウジの身体を三つ並べても足りないほどの、歪に膨れ上がった巨体。
胴から何本も伸びる触手。その先に埋め込まれた濁った眼球。
裂けるように開いた口には、不揃いな牙が幾重にも並んでいる。黒ずんだ躯体のあちらこちらから、骨とも角ともつかない棘が突き出していた。
思いつく限りの悪趣味を、片っ端から寄せ集めたような姿だ。
こんなものに四日間も追い回されていたのかと思うと、今さら胃が痛くなってくる。
二度とご免こうむりたい。
今は、無数の触手も力なく泥の上へ垂れ下がっている。いくつもの眼球は焦点を失い、虚ろに空を見上げていた。濡れて光って見えるのは、雨のせいだろう。
……たぶん。
トウジは顔へ打ちつける雨粒を鬱陶しく思いながら、灰色の空を見上げた。
魔物との戦いが始まってから、もう四日になる。
魔法で雨を降らせ続けるとは聞いていたが、さすがに降らせすぎではないだろうか。空き地の上を覆う雨雲には、切れ目ひとつ見えない。
森の奥に昼夜の感覚はほとんどなく、濡れた木々も、抉れた地面も、すべてが薄暗い灰色に沈んでいる。
その中を、さらに黒ずんだ薄墨色の靄が漂っていた。
瘴気だ。
地面から滲み出すように揺らめき、雨に打たれても消えようとしない。
トウジが腕を動かすと、まとわりついていた瘴気も、それに合わせてゆっくりと形を変えた。離れたかと思えば、すぐにまた鎧や衣服へ絡みついてくる。
生き物のようだった。あるいは、かつて生き物だった何かの残滓のようにも見えた。
息を整えようとして、トウジはすぐに後悔した。舌の奥へ、鉄と腐葉土を混ぜたような匂いと味が広がる。喉の内側に、ざらついたものが張りついた。
小さく咳き込み、口元を手袋で拭う。
最初にこの瘴気を吸ったとき、トウジは三日間、まともに食事を取れなかった。今では、息を吸ったところで咳が出る程度だ。
嫌なはずなのに、もう慣れてしまっている。その事実のほうが、瘴気そのものより少しだけ嫌だった。
やがて、倒れた魔物の表面が揺らぎ始めた。
最初に消えたのは、躯体を覆っていた棘だった。
突起物だらけだった背中の輪郭が、雨と瘴気の向こうで少しずつぼやけていく。幾重にも重なっていた凹凸が崩れ、黒い躯体が薄墨色の靄へ溶け込んでいった。
墨を水へ垂らしたように、輪郭がゆっくりとほどけていく。
崩れているようにも見える。
瘴気へ還っているようにも見えた。
見慣れた終わり方だった。
赦しだ、とエストは言っていた。魔物となった魂が、ようやく苦しみから解き放たれるのだと。
いかにも聖騎士らしい言葉だと思った。
懲罰だろ、とオルドは鼻で笑った。生前に犯した罪を、死後もその身で払い続けているのだと。
それも、いかにもオルドらしい。
老師は、輪廻の儀式だともっともらしく語っていた気もする。
正直、どれもそれらしく聞こえた。だからこそ、余計に正解が分からない。
トウジは雨で濡れた剣を鞘へ収めた。
――間に合っただろうか。
空き地を囲む木々の向こうへ目を向ける。森は瘴気と雨に閉ざされ、遠くの様子は何も見えない。
エストたち騎士団は、まだ戦っているのだろうか。
ひとまず、自分の役目は終わった。
戦って、斃す。
消えたなら、次へ向かう。
トウジはそれ以外の生き方を、ほとんど知らなかった。
魔物の巨体は、すでに半分ほど輪郭を失っていた。目も口も、どこにあったのか分からなくなり始めている。
そのときだった。
曖昧になった躯体の奥に、青白い光がぽつりと灯った。
ひとつ。
ふたつ。
光は次々と増え、雨の中で星のように瞬いていく。
次の瞬間、無数の光が細い筋となり、巨体の中を一斉に駆け巡った。
輪郭をなぞるように。
あるいは、最後にその身体を撫でるように。
光が通り過ぎた場所から、薄暗い煙が立ち上る。
雨粒が煙を貫くたび、ぱっと小さな閃光が弾けた。弾けた光は、地面へ落ちるより早く消えていく。
毎回、思う。
綺麗だ、と。
どれほど醜悪な魔物でも。
どれほど多くのものを踏みにじってきた存在でも。
終わりだけは、不思議なほど美しい。
音もなく崩壊は進んでいく。巨体は光と煙へ変わり、その存在が最初からなかったかのように霧散しようとしていた。
その刹那。
頭蓋の内側を、何かにそっとなぞられた。
「――っ」
トウジは息を止めた。
痛みはない。
冷たくも、温かくもない。
音でもない。
言葉でもない。
けれど、確かに何かが触れてきた。
思考よりも深い場所へ、見えない指先を差し入れられたような感覚だった。
ほんの一瞬だけ現れ、細い余韻を残して消えていく。
トウジは目を閉じ、その感触を追った。
何かが伝わってくる。遠くで誰かに呼ばれたときのように、意識だけが一方向へ引かれていく。
誰が。
誰に。
何を伝えようとしている。
細い糸のような感覚が、頭の奥から虚空へ伸びていた。
掴もうとする。
だが、指をかけるよりも早く、それはすうっと消えた。
トクン。
心臓が小さく震えた。
意味は分からない。
こんなものは初めてだった。これまで数え切れないほど魔物を斃してきたが、こんな感触を残したものはいない。
トウジは剣の柄へ手を添えたまま、しばらくその場から動けなかった。
気づけば、魔物の巨体は跡形もなく消えていた。
青白い光も、薄暗い煙もない。残っているのは、空き地を満たす瘴気と、降り続く雨だけだった。
先ほどの感触も消えている。
耳へ届くのは、木々や泥を叩く雨音ばかりだ。それが、ことさら大きく聞こえた。
トウジは肺に溜まっていた息を、ゆっくりと吐き出した。濡れた前髪を乱暴に払い、空き地の外へ向かって踵を返す。
「終わったのですね」
瘴気と雨の帳の向こうから、突然声がした。少しだけ安堵を含んだ、女の声だった。
トウジは反射的に剣の柄を握り、声のした方へ振り向く。
「この辺りの瘴気はまだ濃い! すぐに離れてください!」
思わず声が強くなる。無理もなかった。
瘴気は、人族にとって毒だ。
トウジは何度も見てきた。瘴気に侵され、人が、人ではないものへ変わっていくところを。
「トウジ。私です」
雨の向こうで白い影が揺れた。木々の間から、白を基調とした聖騎士の軽装鎧を身につけた女が姿を現す。
「エスト」
トウジは握っていた剣の柄から手を離した。
エストの銀髪は雨に濡れ、頬へ張りついていた。白い鎧も泥で汚れている。それでも、不思議なくらい絵になっていた。
エストは足早にこちらへ近づいてくる。トウジの顔を見た瞬間、その肩からほんの少しだけ力が抜けた。
「様子を見に来たのですが、さすがです。無窮の――」
言葉が止まった。エストが無言になる。
その視線が、トウジの顔から胸元へ、さらにゆっくりと下がっていく。
嫌な予感がした。
「どうしたの?」
返事はない。エストは何かを言おうと口を開き、結局何も言わずに閉じた。
恐る恐る、トウジも自分の身体を見下ろす。
皮製の防具は、胸のあたりが大きく砕けていた。
上着は脇腹から腰にかけて裂け、辛うじて残った布が雨を吸って肌へ張りついている。ズボンにも、触手に引き裂かれた大きな裂け目があった。
あ。
やばい。
「……トウジ」
エストが静かに名前を呼んだ。怒鳴られるよりも、そちらのほうがずっと怖かった。




