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1-1 残滓

 剣を引き抜いた瞬間、雨の音が戻ってきた。


 それまで世界から切り離されていたみたいに遠のいていた雨音が、ざあざあと一気に押し寄せてくる。トウジはようやく息を吐いた。


 魔物との戦いが始まってから、もう4日目。魔法で雨を降らせ続けるのだと聞いてはいたが、さすがにやりすぎだろう、とは思う。顔に打ちつける雨粒が、今はとりわけ鬱陶しかった。


 長丁場に加えて山場も越え、集中力がほぼ切れかけていた。


 ピクリッ


 急所を貫かれて動きを止めていた魔物の巨体が、震えた。


「っ……!」


 反射的に後ろへ飛び退く。着地と同時に剣を構え直し、トウジは目の前の異形を睨み据えた。


 でかい――改めて見ても、やっぱりそう思う。トウジの身体など軽く三つ分はありそうな巨体が、今は力なく静止していた。


 歪に膨れ上がった躯体のあちこちから、触手が何本も生えている。そのいくつかには眼球までついていて、雨に打たれながらぼんやりと光を放っていた。ついさっきまで、その眼と触手の全部が、執拗にトウジを追い回していたのだ。思い出すだけで胃が重くなる。


 だが今は違う。


 触手は力なく垂れ下がり、もう動く気配はない。虚ろな瞳が濡れて見えるのは、雨のせいだろう。……たぶん。




 森の奥のそのまた奥にわずかに開けた空間に、濃い瘴気が満ちていた。


 黒ずんだ薄墨色の靄が、地面から滲み出るように揺らめき、雨に打たれてもなお消えずに残り続けている。身体にまとわりつくそれは、動けば動きに合わせて形を変えながら、しかし決して離れない。生き物のように、あるいは生き物だったものの残滓のように、ねっとりとまとわりついてくる。


 息を吸えば、舌の奥に鉄と腐葉土を混ぜたような匂いと味が広がった。嫌な味だ。最初にこの瘴気を吸ったとき、トウジは三日間まともに食えなかった。


 嫌なはずなのに、慣れてしまっている。その事実のほうが、少しだけ嫌だった。




 やがて、魔物の輪郭が崩れ始めた。


 突起物だらけの表面がまず消えていった。幾重にも並んでいた凸凹が、雨と瘴気の向こうでぼやけていく。墨を水に垂らしたみたいに、輪郭がゆっくりと解けていく。崩れているようにも、瘴気へ還っていくようにも見える。


 見慣れた終わり方だ。


 トウジは剣を鞘に収めた。もう、必要ない。


 巨体が曖昧になり、目も口も判別できなくなった頃。躯体のあちこちに、青白い光がぽつり、ぽつりと灯り始めた。次の瞬間、それは無数の光の筋となって巨体を駆け巡る。輪郭をなぞるように。撫でるように。


 光が通り過ぎた場所から、薄暗い煙が立ち上る。雨粒がその煙を抜けるたび、ぱっと小さな閃光が弾けて、すぐに消えた。


 毎回思う。綺麗だ、と。


 どれだけ醜悪な魔物でも。どれだけ多くのものを踏みにじってきた存在でも。終わりだけは、不思議なほど美しい。


 赦しだ、とエストは言っていた。聖騎士らしい言葉だと思った。懲罰だろ、とオルドは鼻で笑った。それもオルドらしかった。輪廻の儀式だと老師がもっともらしく語っていた気もする。正直、どれもそれっぽい。だから余計に正解にたどり着けない。




 音もなく崩壊は進み、その存在が最初からなかったかのように、すべてが霧散しようとした、その刹那。


 何かが、触れた。


 トウジの頭の奥に。


 音ではない。言葉でもない。映像でも、気配でも、声でも、ない。けれど確かに、何かが触れてきた。思考よりも、もっと深い場所。そこへ指先でそっとなぞられたような触感。冷たくも温かくもない。痛くもない。


 一瞬だけ現れて、わずかな余韻を残して消えていく。


 息を止めて、その気配を追う。何かを伝えようとしている。誰に?。何を?。細い糸のような感覚が虚空へ伸び――掴むより早く、すうっと消えた。


 トクン……


 心臓が小さく震えた。


 意味はわからない。こんなのは初めてだ。これまで数えきれないほど魔物を斃してきたが、こんなものを残したやつはいなかった。


 しばらくトウジは動けなかった。




 気づけば、魔物の巨体は跡形もなく消えていた。


 あの感触もなくなっていた。残っているのは漂う瘴気と、降り続く雨だけ。


 トウジは濡れた前髪を乱暴に払って、踵を返す。


「終わったのか?」


 瘴気と雨の帳の向こうから、いきなり声がかけられた。


「この辺りの瘴気はまだ濃い! すぐ離れてください!」

 

 反射的に声を張る。少し語気が強くなる。無理もない。瘴気は人族にとって毒だ。何度も見てきた。人が、人でなくなっていくところを。


「……一般人がこんなところに来るかよ」


 呆れた声。続いて、


「ふぉっふぉっふぉ。勇者殿も、随分と気が昂っておるようじゃの」


 聞き慣れた老人の笑い声が重なる。


 瘴気の霞の向こうから二つの影が近づいてくる。背に大剣を負った筋骨隆々の大男と、粗いローブをまとった細身の老人。見慣れた顔に、トウジはようやく肩の力を抜いた。


「老師、オルドさん!」

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