2-10 王都(第2章エピローグ)
ずっと、丘の稜線しか見えていなかった。
街道が、ふいに高みに抜けた瞬間、風が一段強くなる。
いきなり、視界が広がった。
視線を遮るものが消え、その先に広がるものを、トウジは思わず足を止めて見渡した。
視界いっぱいの平野が、広がっている。
ただ広いだけではない、整えられた広がりだった。
一面に敷かれた農地は、まるで織物のように整然と並び、畝が一定の間隔で続いている。
冬の色を帯びた麦はまだ背が低く、土の色を多く残しているが、その一つ一つがきちんと手入れされているのが遠目にも分かる。
風が吹けば、かすかに揺れ、その揺らぎがゆっくりと面を伝っていく。
収穫には、まだ少し早い。だが、その成長の途中にあることが、逆にこの土地の豊かさを示していた。
荒れている場所がない。欠けている場所がない。
人の手が、隅々まで行き届いている。
その向こうに、王都があった。
高い城壁が、街をぐるりと囲んでいる。石は白に近く、冬の光を受けて鈍く輝いている。その内側には、びっしりと建物が詰まり、屋根の色が重なり合い、ひとつの塊のように見える。
ところどころから尖塔が突き出し、煙突からは煙が細く立ち上り、街が生きていることを遠くからでも感じさせる。
その上を横切るように、水道橋が伸びている。いくつもだ。
周囲の山々から、弧を描く石の列が王都へと繋がっている。連なるアーチが等間隔に並び、その上を水が流れているのがかすかに見える。遠目には細い線のようでありながら、確かな存在感を持って街へと水を運んでいる。
そして、そのさらに奥。
小高い山の麓に、王城があった。
荘厳といってもいいかもしれない。城壁とは違う、別の静けさを纏っている。高く、広く、余白を持って建てられているためか、周囲の密集した街並みから切り離されたように見える。
白い壁と高い塔が、空を背景にくっきりと浮かび上がり、その存在だけで、この場所がこの国の中心であることを示していた。
トウジは、しばらく動かなかった。
目に入るものの多さに、言葉が追いつかない。
「……あいかわらず、でけぇ風景だぜ」
横でオルドが呟く。同じ景色を見ている。
「トウジは、初めてか」
「はい」
短く答える。それ以上は出てこない。
ただ、見ている。
行軍は続く。
高台を下り、平野へと入る。
近づくにつれて、景色が細かくなっていく。
畝の一本一本。土の湿り気。麦の葉の色の違い。
農民たちが働いている。
腰をかがめ、手を動かし、土を整える。衣服は粗末ではない。汚れてはいるが、擦り切れてはいない。 道具も整っている。無駄のない動きで作業を続けている。
こちらに気づく者もいる。
顔を上げる。手を止める。そして、手を振る者、軽く会釈をする者がいる。
怯えはない。慣れている。この軍勢の通過にも、この土地の営みにも。
豊かさは、そういうところに出るのだと、トウジは思った。
やがて、城壁が近づく。
高さが、実感になる。見上げる形になる。
門が見える。大きい。開け放たれている。
重厚な扉が両側に引かれ、通路が広く確保されている。石の壁には旗が掲げられ、色とりどりの布が風に揺れる。その間に、花が飾られている。生花だ。季節外れに見えるほど鮮やかな色が、灰色の石壁に映える。
人が集まっている。
門の内外に、群れをなしている。討伐軍の到着を待っているのだと、一目で分かる。
ざわめきが、こちらへ流れてくる。声が重なる。期待と高揚が、混ざっている。
列が進む。
門へと入る。
その瞬間、声が上がる。
大きい。一斉に、壁に反射し、さらに膨らむ。
花びらが舞う。
上から、降ってくる。
白。赤。淡い色が、空中で散り、風に乗って流れ、鎧や肩や髪に落ちる。
誰かが笑っている。誰かが叫んでいる。名前を呼ぶ声もある。
討伐軍は、その中を進む。止まらない。一定の速度で、門をくぐる。
トウジは、その中にいた。
視界が、色で埋まる。
音が、重なる。
近い。すべてが、近い。
門を越える。
影を抜ける。
光が広がる。
王都の中へ。
歓声は、まだ続いていた。
王都に入った翌朝。
まだ陽は低く、窓から差し込む光も柔らかい。宿の廊下は静かで、遠くからかすかに聞こえる人の気配だけが、この街がすでに動き出していることを知らせていた。
トウジは布団の中で目を閉じていた。
起きてはいる。だが、起きたくない。
今日は、約束の日だ。
解隊式に出るための正装を用意する日。忘れるな、とエストに念を押された日。
思い出した時点で、もう少し寝ていようと決めた。
そのとき、
扉が叩かれた。遠慮がない。一定の間隔で、正確に。
「……」
無視する。
叩く音が、少し強くなる。
「トウジ」
聞き慣れている。逃げ場がない方の声。
「……起きてます」
諦めて答える。
「開けてください」
間がない。
トウジは、ゆっくりと起き上がる。隣の寝台に目をやる。
空だ。オルドはいない。
昨日の夜、「朝は早いからな」とだけ言っていた気がする。どこへ行くかは聞いていない。たぶん、聞いても教えなかっただろう。
老師は、さらに早い。王都に入った直後、「やることが山ほどあるでな」と言って、そのまま人混みに消えた。
「……」
分かっていた。こうなることは。
トウジは立ち上がり、扉を開けた。
エストが立っていた。
鎧でも神官服でもない、見慣れない姿だが、すでに支度は整っている。動きやすく整えられた服装で、朝の空気の中でも揺るぎがない。
「おはようございます」
「……おはようございます」
視線が合う。ますます逃げ道がなくなる。
「約束、覚えていますね」
トウジは一瞬だけ目を逸らし、それから小さく頷いた。
「……はい」
「では、行きます」
「ちょっと待ってください、まだ心の準備が――」
「時間がありません」
「いや、でも――」
「行きます」
「……はい」
問答無用だった。
通りは、朝の顔をしていた。
店は開き始め、軒先では水を撒く音がしている。焼きたてのパンの匂いが漂い、荷を運ぶ者たちが忙しく行き交う。昨日の喧騒とは違い、整った活気がある。
トウジはその中を歩きながら、どこか落ち着かないまま周囲を見ていた。
「朝、早すぎませんか?」
「すぎません」
エストは前を見たまま答える。
「採寸と仕立てに時間がかかりますので」
「今日じゃなくても……」
「明日です」
一刀両断。
トウジは口を閉じる。
商業地区と呼ばれる一角にある店は、こじんまりとした佇まいだが、高級感が漂っている。
トウジには、一生縁のなさそうな店だった。
「いらっしゃいませ」
店主が出てくる。視線がトウジに向く。一瞬で、全身を測られる。
「ほう」
軽く頷く。
「昨日、お話をしたように」
エストが告げる。すでに、話が通っていた。
逃げ道など、最初からなかった。
採寸は手早かった。
肩幅、腕の長さ、背丈、胸囲。布の巻尺が正確に動き、トウジはそのたびにわずかに身を引く。聖騎士エストの目が光る。
「動かないでください」
「動いてないです」
「動いています」
トウジは観念した。
いくつかの布が運ばれてくる。
深い紺。落ち着いた灰。控えめな銀糸の刺繍。
派手ではないが、どれも質が高い。光の受け方が違う。
「こちらがよろしいかと」
店主が差し出す。
エストは一瞬だけ見て、決めた。
「これで」
迷いがない。
「え、もう?」
「問題ありません」
「いや、でもこれ、動きにくくない?」
トウジが布の端をつまむ。しっかりしている。軽いが、少し硬い。
「戦いません」
「いや、でも――」
「立っているだけです」
そこで終わる。
「……そうなんですけど」
仕立ての間、試着を何度となく繰りかえす。
そして、服が仕上がる。
普段とは違う装い。袖を通すだけで、感覚が変わる。身体に沿う。無駄がない。だが、どこか落ち着かない。
鏡の前に立つ。見慣れない。自分なのに、少し違う。
濃紺の上衣は体に合わせて仕立てられ、肩の線がすっきりと出る。無駄な装飾はなく、襟元と袖口にだけ細い銀糸が走っている。動けば光を拾い、静かに存在を主張する。
腰には同系色の帯が巻かれ、全体が引き締まる。
軽い。
だが、気が抜けない。
エストが近づく。
無言で見る。
視線が上から下へと流れる。
確認。
「……どうですか」
トウジが聞く。
「問題ありません」
短い。
「え、それだけ?」
「?」 「それ以上、なにを言えと?」
エストがさらに一歩近づく。襟元に手を伸ばす。ほんの少しだけ、ずれている。
指先が触れる。距離が近い。
トウジは一瞬、息を止める。そのまま、何も言わない。エストも何も言わない。
整える。終わる。一歩下がる。
「これで大丈夫です」
「……はい」
店を出る頃には、荷物が増えていた。
替えの衣装。外套。靴。細かな備品。まとめられているが、量は多い。
「……これ全部、持って帰るんですか」
「はい」
当然のように言われる。
トウジは、両腕に抱えた荷物を見下ろす。
すでに前が少し見えない。
「……多くないですか」
「必要なものです」
「いや、でも――」
「行きましょう」
「……はい」
店を出て、歩き出す。
外は、もう夕暮れ近くになっていた。時間が経つのは、思いのほか早かったようだ。
荷物が揺れる。バランスが悪い。人を避けるたびに、少しよろける。
エストはその横を、何事もないように歩いている。
ほんのわずかに、歩調が軽い。
人の流れが増え、音が重なり、色が広がる。
王都の喧騒に身を任せ、その流れに浸る。
っと。
ポツンと一瞬、周囲の音だけが遠のいた。
あれ……。気づいたときには、もうそれは消えていた。




