(九)
朝も8時を回ると仕事場へ向かう亡骸の群れは、ステンレスのシ
ンクを流れる水のように駅の改札に流れ込んだ。私は流れに取り残
された生ゴミのように、排水口には向かわずに駅前のコンビニへ入
った。別に、駅にもコンビニにも用は無かったが当ても無く時間を
遣り過すには大勢の人の中いる方が気楽だった。群集の中に居ると
自分の境遇を忘れて一人の社会人として振舞うことができた。独り
で居ると不安に苛まれる毎日を束の間でも忘れさせ、関心が外の世
界に向いて自分自身と向き合わなくてよかった。集団は個人の不安
から生まれる。何故ホームレスは他人の眼に曝される恥辱を忘れて
までも競争の苛酷な都会に住み着くのか常々疑問に思っていたが、
いざ自分がその身に為ってみると到底人里離れた山の中で世間を捨
てて独りで自分自身と向き合うことに耐えられないことが解った。
群衆の中で私は私の考えを封印して群衆の一人として考える。群衆
と状況を共有しやがて感情も同化して我が身の憂慮を忘れて気楽に
なれる。例えば、電車の中で偶然にも非常識な出来事に遭遇しても
、人は個人の行動を封印させられているのだから、すぐに自分に返
って事態を把握して行動することなど出来る訳がない。まして日本
人は生まれてより自分の色を消して「朱に交わる」よう教えられて
きた。我々は群衆の中で自分を隠す擬態は得意であるが、模す対象
を取り上げられ一個の生き方を問われてもどうしていいのかわから
ない。独りで山道を歩く時は誰でも自分の考えを巡らして細心の注
意を心掛けるだろうが、人の数が増えていけば比例して考えを人に
預けるのは生き物の本能かもしれない。社会は個人の切迫した状況
を忘れさせる。我々は自分自身と社会人を使い分けていきている。
こうしてホームレスも犯罪の容疑者も人の眼があっても群衆の中に
紛れ込んで、社会人に成り済まして自分からも自分自身を隠そうと
する。
とはいっても私の頭の中心は二日酔いのせいで前後左右に揺れて
、周りの人々に合わせて善良な社会人に成り済ます余裕が無く、た
だ頭が転げ落ちないように頭の動く方へ体を従わせて歩いていたの
で自分の思う方へ真っ直ぐには行けなかった。駅前のコンビニは誰
もがこの場所に居ることが時間の浪費だと云わんばかりに慌しく行
き来していた。毎日が時間の浪費の私はゆっくりと右側の雑誌の棚
へ向かった。こう見えてもついこの前まで出版社に出入りしていた
のだ。私が投稿していたマンガ雑誌の発売日はやっぱり気になった
。そのマンガ雑誌を手に取ろうとしたが二人のフリーター風の男が
その本の前で周りを気にもせず立ち読みに耽っていた。もとより私
も買う気など更々なかったので、つまり私も彼等と穴を同じくする
者なので、後屁を拝す者の礼儀として慎ましく席が空くのを待って
いたが埒が明かないので、遂に、店より正式に許可された購買者の
振る舞いで、
「すみません」
と言ってから、二人の間に半身を入れて、頭が落ちないように注意
しながら、腕を延ばして強引に目指す本に手を掛けた。すると二人
の男は私を避けながら、排便を覗かれた者が返す様な怪訝な目で私
を睨んだが、私は粛々と許可を与えられた者の権利を執行した。た
だ、そこまでして手にした雑誌を彼等と連るんで立ち読みする訳に
もいかず、仕方がないのでその雑誌を持ってレジに行った。そして
レジのカウンターに雑誌を置いた時に、初めてそれがイカガワしい
雑誌であることに気付いた。
「ええっ!」
二日酔いの頭の中で、接続不良を起こしていた神経が緊急事態で甦
り、滞っていた電気信号が私の社会人としての安全装置を稼動させ
た。カウンターの真ん中に置かれた雑誌には、あどけない少女が許
される限りの裸身を曝け出して出勤前の会社員でごった返すコンビ
ニの店内には相応しくない天真の笑顔で、無表情なレジの女性を見
ていた。レジの女性はその微笑みに応えることも無く、私の緊急事
態を察することもなく平然とバーコードを通して、私に、
「袋に入れますか?」
と聞いた。私は慌てて、
「あっ!すみませんっ!これ、間違っちゃった!」
と言ったが、レジの女性は、
「もう、バーコードを通しましたけど!」
と不愛想に言った。私は、その雑誌のお金で充分一日の食費が賄え
たので支払いを躊躇してると、すぐ後ろに若い女性が並んで居てそ
の遣り取りを腕を組んで聞いていた。するとレジの女性は、私のあ
どけない少女が微笑む卑猥な雑誌を汚らわしいモノを扱うようにカ
ウンターの端に除けながら、私の後ろで不機嫌そうに腕組みをして
いる若い女性に向かって、
「どうぞっ、次の方っ!」
と私の肩越しに言った。若い女性はすかさずに、
「すみません」
と、どっちにともなく言いながらレジの前に出てきたので、私は仕
方なく横へズレた。三人の真ん中で、あどけない少女が卑猥な微笑
みを空気を読まないで投げかけていた。若い女性はカウンターのそ
の雑誌の横に怪訝そうに菓子パンと缶コーヒーを並べて置いた。私
が背を向けているうちに精算を済まして、頭を下げながら急いで店
を出た。私はさすがにメゲて、裸で微笑むあどけない少女を仕方な
く身受けした。ただ、それから二日酔いが醒めて私の頭が首から外
れ落ちる心配は無くなった。私は関わっているうちに多少愛着を感
じる様になったあられもない姿で明るく微笑むあどけない少女が表
紙のイカガワしい雑誌を持ってゆっくりと店を出た。
(つづく)




