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パソコンを持って街を棄てろ!  作者: ケケロ脱走兵
54/58

(五十四)

 しばらくして老先生との対談が載った雑誌が送られてきた。対談

が短すぎて予定していたページが埋まらず、断わりなく顔写真を載

せた旨のメモが入っていた。早速ページを開いたら、特集記事の表

紙には、私の笑った口から剥き出しになったスキッ歯が惜しげもな

く曝されていた。私は、人の意見を信用するかどうかと云う時に、

必ずその人の顔つきを見て判断した。それは恐らくマンガを描いて

いたからだと思うが、つまりキャラクターが人格を表すと信じるか

らだ。ところが、この雑誌に載っている間抜けなスキッ歯の私の写

真を見て、誰が私の美術論に納得するだろうか。言ってる事と風貌

が合っていない、つまり言「貌」不一致なのだ。メディアの発達に

よって言論さえもキャラクターを無視できなくなったが、例えば、

容貌が直ぐに浮かんでくる作家の恋愛小説は、作家のキャラクター

の印象が邪魔をして作品のイメージが拡がらない事がある。もちろ

んその逆もあるだろうが、小説を創作する者は決して自らの肖像を

曝してはいけない。いくら美しい文章を書いても作者の肖像がそれ

に相応しくなければ、虚構は現実に駆逐されてしまう。

 対談で埋められなかった特集は丸々一ページを使ってスキっ歯が

丸出しのズームアップした私の顔の写真が惜しげもなく挟まれてい

た。それでもまだ足りなかったらしく対談とは別に老先生の美術論

が、それは書き下ろしではなく彼の名を一躍知らしめた過去の美術

評論だったが、しかし、それも全文ではなく前半の一部だけが付け

足しのように載せられていた。

 老先生は早朝の散歩を日課にしていて、それは掛かり付けの医者

から歩くことを強く勧められたからだった。始めのうちは街の様子

や公園の景色も目新しく映って気も晴れたが、しばらくすると飽き

てしまい、遂に雨が続いた朝に億劫になって止めてしまった。そし

てホテルに在るフィットネスクラブのウォーキングマシンの上を前

に進むことなく歩いたが、それも結局馬鹿らしくなって、また退屈

な散歩へ戻ることにした。

「用もないのに歩くようになったら人間は終いだよ」

そう言いながらも、用がある時は決して歩かずに、近くてもタクシ

ーを使った。つまり、歩行は手段ではなく目的になってしまった。

健康のためには歩くことが大事と分かっていても、

「ただ歩くために歩くのは実に虚しい」

と言った。私はその話しを聞きながら「歩く」を「生きる」に置き

換えて考えた。それは目的を見失った今の時代を象徴しているよう

に思えた。

 車社会に適応させた街造りは歩行する者にとっては素気ない街で

ある。マンションの壁やガードレールに仕切られた歩道の先を見渡

しても、何もかもが直線的で興味を引くものの何もない、工場で大

量生産された直線と平面だけでできた街だ。それは車に乗って走り

去る者にとっては安全で軽快かもしれないが、ゆっくり歩く者にと

っては退屈な街だ。つまり、都市は車社会のスピードに適応するた

めに創られているのだ。確かにそれらは合理的ではあるかもしれな

いが、我々は合理的な存在ではない。我々自身の合理性を証す合理

的な視点などどこにもない。合理性を高めようとする社会に疑いを

感じた者は、つまり人間性を取り戻した者は、気が付けば無機質な

直線や平面に囲まれて逃げ場を失い、便器に落ちた蟻のように這い

上がれないままレバーを下げられて処理場へ流される。ホームレス

になって彷徨っている時も、まるで自動販売機の中に迷い込んだキ

リギリスの様に、自慢だった鳴き声はまったく役に立たなかった。

ひしめく華やかなショップも、枯葉を札束に化かす術を習得しなか

ったただの狸にとっては藪の中から恨めしく眺めるしかなかった。

それは、コントロールされた食欲とコントロールする必要がなくな

った性欲を恨めしく思いながら、健康のために歩くだけの老先生と

思いが通ずるところがある。しばらくして、例の出版社が中国の現

代アートの特集をするので、老先生に中国行きの話しを持ち掛けて

来た。老先生は中国なら散歩しても厭きないだろうと、健康上の理

由から同意した。老先生が腰に万歩計をぶら下げて中国の景勝地を

ブラブラしているころ、

「先生はしばらく居ないからそんなに慌てなくていいわよ」

私は、女社長の粘膜から発せられた甘い誘惑に、交尾の後に命を終

える生き物の覚悟に似た決断で、心の奥底に隠していた彼女への思

いに動かされ、欲情を超えた抑えることの出来ない愛しさから、彼

女を確かめた。

 恋愛は、愛を確かめ合ってから始まる。想いが通じたからといっ

て想いが解消した訳ではなかった。今日が終わると明日が始まる様

に、眠りから目覚めると新たな想いが芽生えていた。否それどころ

か更に想いが募って遂には耐えられなくなった。頭の中で次々と記

憶を甦らせて、彼女の言動に隠された本心を読み解こうとしていた

。つまり、彼女は私と同じように私のことを想っているのだろうか

?それは自分勝手な妄想かもしれないが、確かめずには居れなくな

って電話をした。しかし、社長としての彼女の何とも冷たい応対は

、私の逆上せ上がった想いを鎮めさせるのに充分だった。私は、も

しかしてあの夜の記憶は幻想だったかもしれないと思ったほどだっ

た。人は言葉遣いや顔付きでも意志を伝える。彼女は仕事中はその

表情に微塵も女らしさを見せなかった。電話の声はまさにその時の

声だった。もしかして私は最終の実技審査で落選したのかもしれな

い。男には常にその不安が過ぎる。私は自分勝手な欲望を充たすば

かりで、彼女の偽らざる想いなど知る術もなかった。聞いても恐ら

く本音を語る訳などないだろう。男はこうして勘違いに気付かない

まま、距離を置く女性に苛立つのだ。女性は多くの襞を持つ。男は

暗黙の審査に耐えなければならない。帰るという彼女を朝まで引き

止めたのは自分だった。今度は自分の身勝手な言動が甦ってきて、

果てしなく落ち込んだ。私は冷静に考えて辛いことだが一夜限りの

事と忘れようと思った。するとそれまで見えなかった周りの事が見

え始めた。彼女には子供が居て、画廊の社長という仕事もあった。

さらに老先生という公私に亘るパートナーがいた。私はと謂えばマ

スコミに取り上げられて幸運にも絵が売れたが、それは決して自分

の絵が認められた訳ではなかった。この国ではマスコミが取り上げ

たらバカでも人気になるのだ。私は自分の思い上がりに気付き、彼

女への想いをまた心の奥底へ封じ込めようと思った。気を紛らわす

心算で、墨の濃淡だけで抽象画を描いた。それは以前から考えてい

た試みだった。書から文字の意味をなくせば画として伝わるのでは

ないか?無心に取り組んでいるうちに次第に彼女のことは忘れかけ

ていた。そして三日後に、女社長から電話が来た。

「会いたい」

それは画廊を取り仕切る社長の声ではなかった、女の声だった。


                     (つづく)  

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