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パソコンを持って街を棄てろ!  作者: ケケロ脱走兵
49/58

(四十九)

 私は、間近に迫った個展の為にバロックのメールに付き合えな

かった。二十号の絵はほぼ完成したが、その間に画廊の女社長が

仕組んだ雑誌のインタビューを、あの高名な評論家から受けなけ

ればならなかった。私は仕方なく宇宙服に身体を入れて、女社長

から貰った赤地に筆で墨を引いた様な頼りないストライプのネク

タイをして、例の宇宙ステーションホテルへと向かった。そして

ホテルのラウンジで女社長と待ち合わせて客室に入った。女社長

は私のネクタイに気付いたが「似合わない」とは言えなかった。

しばらくすると先生が現れて、私は早速立ち上がってホテルでの

無礼を詫びた。老先生は「なぁに!」と言って手を振った。同行

して来た出版社の一人が、誌面の都合上すべてを記事にしない旨

の断りをしてからテーブルに置いたレコーダーをONにした。そ

して、

「先生、フランスですごい人気だそうですね」

と会話の糸口を開いた。私は「先生」などと呼ばれたことが無か

ったので、てっきり老先生のことだと思って黙っていると、気付

いた老先生が「君のことだよ」と無愛想に教えてくれた。私は慌

ててしまい、初めて「先生」と呼ばれたので自分の事だとは思わ

なかったと弁解すると皆が笑った。そして私も連られて笑うと、

もう一人のカメラマンが私の笑い顔をすかさず連写した。私は前

回の失敗に懲りて気後れだけはしまいと自分に言い聞かせていた

が、自分の笑い顔が雑誌に載ると思うと落ち込まずにはいられな

かった。というのは、子供の頃、生え変わった前歯の永久歯を舌

で確かめるのが癖になり、止む事のない干渉に隙間が生じ、やが

て僅かだった隙間も成長するに従って、その歯の下に身を委ねた

小魚などは断首を逃れるほどのスキッ歯に為ってしまった。普段

は口を閉じていれば人は気付かないが、一度笑ったりして真ん中

が空いた歯並びが見えると、その場の緊張が緩むのが判った。さ

らに母親は他人事の様に「卑しさは口元に出る」と言った五味康

祐の人相学に心酔していて、元はと言えばアンタの責任じゃない

かと言いたかったが、他人を観察すると結構言い得てるフシがあ

って納得した。そんな訳で私は自分の笑い顔を他人に見られるこ

とを甚く気にした。当たり障りのない会話は進んでいたが、私が

上の空で、老先生のご高説に相槌ばかり打っている事を訝った出

版社の人が間に入ってきて、

「先生の方からも何か気にしてる事があれば言っていただけませ

んか?」

と言ったので、私は咄嗟に、

「笑い顔の写真は載せないで欲しい」

と言うと、編集者はすぐには何のことか分らずにポカンとしてい

たが、

「もちろん先生の了解をもらわずに載せたりしません」、

と説明した。対談は飲み物が届いたので少し休憩することになっ

た。そして再び彼のホイッスルでゲームは始まったが、

「先生は、美についてどのようにお考えですか?」

と、年上の彼はいきなり掴みどころのない質問をしてきた。主審

の彼は明らかに私の緩慢なプレーに嫌気が挿し、このゲームに飽

きてしまい、さっさとPK戦で蹴りを着けようとしていた。私は、

「えっ!美?」

「ええ、美!」

「ちょっと、わからないですね」

すると老先生が口を挟んだ。

「君、それじゃあ余りにも漠然とし過ぎてるよ。大体画家は言葉

では描かないんだから」

「はっ、はい」

編集者は納得したがそれでは対談など成り立たなくなる。私はも

う一度気後れすまいと言い聞かて、普段自分が思っていることを

喋った。

「むかし読んだ小林秀雄の本で、彼は複製のゴッホの絵を見てそ

の場に立って居られないほどの衝撃を受けたが、後日、オランダ

まで行って期待して実物を観たら大して感動しなかったって書い

ていたけど、美というのはそういうものではないでしょうか。つ

まり、美は絵に在るのではなくて画家やその絵を観る人の心の中

にあると思います。だから、いくら美に接していてもいつも感動

するとは限らないんです」

すると老先生が言った。

「それじゃあ、君はどうしてその感動を与える絵を描けると思っ

ているんだい?」

「私は今まで巧く描くことを心掛けていましたが、だから巧いと

言われるともちろん嬉しいんですが、それは技巧を褒められてい

て、それって美とはすこし違うんじゃないかと思っています。た

とえばゴッホとかルオーとか絵は稚拙ですが、それでも深い感動

を受けます、画家の魂というか深い精神性のようなものが確かに

伝わってくる。そういう絵がどうすれば描けるようになれるかど

うか解りませんが、ただ、もう巧いだけの絵は描きたくないんで

す」

「それじゃあ墨をやめるのかい?」

「何れそうするつもりです。どうしても日本画は写実を重んじま

すから」

「抽象画へ行くのかい?」

「そこまでは思っていません」

すると、それを聞いていた女社長が椅子から立ち上がって、

「ちょっと、そんなこと聞いて無いわよ」

と大きな声で言った。

女社長の抗議は激しかった。彼女はベンチを飛び出してテクニカ

ルエリアを出てピッチの中まで入って来て、私の発言を非難した

「よくもそんなことを言えるわね、そんな勝手なことをしたら契

約違反よ」

と、私の言った事を実行すれば反則だと訴えた。主審の編集者は

慌てて女社長を止めに入ったが、彼女の怒りは治まらなかった。

彼女は間に入った主審越しに、

「まったく、誰のお蔭で売れたと思っているの」

と、私を罵倒した。堪らずに主審の編集者は、

「社長、ちょっと落ち着いて下さい。此処は私に任せて、そんな

話しは後でもゆっくり出来るじゃないですか」

と、レッドカードを示して彼女に退場を促がした。確かにそれま

で、私は彼女の画廊とどんな契約を結んでいるのかさえ知らなか

った。私の言った事が契約に反するなら謝らなければいけないが

、最後に言った「誰のお蔭で売れたと思っているの」は僅かばか

りの私の自尊心を傷つけた。彼女は老先生にも促がされて次第に

落ち着きを取り戻したが、私が述べた事を決して記事にはしない

ように編集者に迫った。そして、編集者の彼もあっさりとそれを

受け入れてしまった。そして、

「さあ、それじゃあもう一度始めからやりましょうか」

と、サドンデスへと突入したPK戦の笛を鳴らしたが、今度は私

が納得いかないと主審に食い下がった。

「今喋った事がダメならもう他に喋る事なんてありませんよ」

すると主審は縋るような目をして、

「そんな事言わないで、ねっ、ほら、ホームレスだった時の話し

とか聞かせてくれませんか」

と、美術とは全く係わりのない、しかも私が決して話したくない

過去の話しを求めてきた。私は「一杯のかけそば」のような情に

訴える浪花節を語りたくないのだ。そこには必ず虚飾に彩られた

語りが生まれる。現実の悲哀には安っぽい感情など入り込む余

地などない。つまり、他人事だから同情出来るのだ。感涙に耐え

られなくなった聞き手に隠れて彼等はしてやったりと小さく舌を

出しているのだ。それにしても近頃は同情を誘う小説が多すぎな

いか。私はそういった小説を「一杯のかけそば」小説と呼んでい

る。

「それが絵画とどんな関係があるのですか!もう何も話す事はあ

りません」

私は怒りを露にしてピッチを後にした。


                         (つづく)

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