(四十四)
「個展をやらない?」
画廊の女社長から電話があった。私は一瞬喜んだが、すぐ、分に過
ぎる話しだと思った。
「まだ無理ですよ」
と言った後で、「まだ」と言ったことが恥ずかしくなった。そこで
散々言い訳をしていると、痺れを切らした女社長が、
「やりたいの、やりたくないの、どっち?」
と言ったので、私は、
「やりたいです」
と恥ずかしがらずに言った。
「じゃ、こっちへいらっしゃい」
女社長はやさしくそう言って電話を切った。
私は早速こんな日のために量販店で買ったスーツを着て、前回のよ
うな無重力体験はするまいと、ネクタイを締め、下ろしたての革靴
に足を入れると、まるで宇宙服を着ているような不自由さを感じた
。着慣れない宇宙服に手間取っていると、約束した時間には間に合
わないことが判った。仕方が無いのでタクシーを拾って画廊へ向か
った。
「急ぐようでしたら高速使います?」
と言うドライバーの誘いに乗って、ネクタイで締められた喉元が気
取って「ええ」と洩らしてしまった。ところが、間もなく出口だと
いう所で車の流れがバッタリと止まり、
「どうも事故みたいですね、動きませんわ」
と他人事みたいに言われた時には、ドアを開けて拘束道路を走ろう
かと思った。女社長にデンワをして事情を説明すると、彼女も急ぐ
ので出掛けるが、事務員が応対するとのことだった。
約束の時間に大幅に遅れて画廊へ入ると、女社長は既に居なかっ
た。油絵が隙間無く並んだギャラリーの奥で、事務の女性が私を待
っていた。私が謝ろうとすると彼女は気さくに、
「いい、いい」
と何度も手を振りながら言った。私は救われた気持ちで、
「社長は、何処へ行かれたのですか?」
と聞くと、女事務員はこともなげに、
「フランス」
と言った。
「フッ、フランス」
その女事務員に依れば、女社長は年に数回はフランスに行くらしい
。もちろん仕事らしいが、日本では無名の画を持って行き、馴染み
の画廊に預けて、そして向うの目ぼしい画を買って戻るのだ。フラ
ンスは今や日本ブームで、こっちでは無名の価値のない版画や掛け
軸が驚くような値段で売れるらしい。さらに、向うでは贋作紛いの
油絵が日本では儲けを荒くしても捌けるというのだ。事務員はま
るで阿漕な商売を告発するかのように密かに告げた。女社長とは
差の無い年恰好だったが、それでも女社長に気を遣ってかかなり地
味な身なりだった。ただ驚くほどざっくばらんな女性だった。
「コーヒー飲む?」
私が何も言わない内に、
「いいのよ、気い遣わなくっても」
「それじゃあ、頂きます」
私は完全装備の宇宙服が全く役に立たなかったことに虚しさを覚え
たが、更に彼女のくだけた応対がその虚しさを際立たせた。
「タバコ吸っていい?」
女事務員が聞いてきた。
「あっ、いいですよ」
「貴方、吸わないの?」
「今は止めてます」
「あらっ、じゃあ吸ったらいけない?」
「いいえ、構いません。どうぞ吸ってください」
私はマンガを描いている頃にタバコを吸わずに居れなくなり、徹夜を
して朝方には頭が暈やけているのが分かるようになってからは何度も
止めた。つまり禁煙することが出来なかった。ただ、出先とか絵の仕
事をしない時は我慢が出来た。
彼女は私の前でタバコを燻らせながらテーブルに契約書を広げて個
展の説明を始めた。個展は三ヵ月後だった。あらましの説明の後サイ
ンを求められた。
「驚いたでしょ、個展するなんて」
「ええ」
「暇なのよ、ずーっと」
「それで?」
彼女が言うには、この夏以降、急にギャラリーの予約が減ったらしい。
空けたままでは勿体ないので、普段は貸さない値段で勧めているがそれ
でも埋まらなかった。「それで」私はもう一度言った。恐らく今のとこ
ろ私の後には誰も借りる者が居ないのだ。
それでも、女社長は水墨画に関心の高いフランスなら私の画でも売れる
と踏んでいるらしい。だから今回のフランス便には私の画も送ったとい
う。つまり日本では儲けにならないが、フランスなら騙せるという魂胆
なのだ。女社長が私に「売るのよ」と言った意味が解った。
「期待されてんだから、頑張って」
ただ、経歴が薄いから個展の一度くらいはした方がハッタリが掛け易いと
いうことで決まったのだ。私の個展はアリバイを作るためのものだった。
つまり、極道が箔を付ける為にムショに入るようなものだった。私はもう
何も言わずにネクタイを緩めて、彼女から貰ったタバコを何日振りかで吸
った。
(つづく)




