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パソコンを持って街を棄てろ!  作者: ケケロ脱走兵
38/58

(三十八)

 美術評論家の老人はこのホテルに長期滞在していた。恐らく、住

まいが東京になくて行き来が面倒になってそうしているのだろう。

今では大きな仕事をしていなかったが、それでも知名度を頼って一

文を乞う編集者は少なくなかった。中でもデパートが企画した小学

生の絵画コンクールは、彼が理事長として毎年夏休みに開かれてい

たが、何度もテレビのニュースで紹介されていたので私も良く知っ

ていた。仮に、彼が私の絵を取り上げてくれるだけで、私の絵が破

格で売り買いされることは間違いなかった。しかし、彼もそう易々

とお墨付きを与えては、築き上げた信用を失うことになるので、そ

ういう利害から身を引いて、専ら、子供相手に絵を楽しんでいた。

ところが、私は卑しい算段が頭をもたげてきて、それを覚られたく

ない姑息さから気兼ねなく話すことができなかった。すると、女社

長がその沈黙を破ってくれた。

「この人、随分苦労なすったのよ」

すると老人は、

「そりゃあ、絵が売れなきゃ苦労するさ」

老人のこの言葉に、私はホームレスに炊き出しをしてくれる教会の

ボランティアの人たちに対するシンパシーのようなものを感じた。

 ホームレスに救いの手を差し伸べて希望を与えてくれたのは、残

念ながら、キリスト教会だった。こんなことを言うのはおこがまし

いが、途上国の飢餓に苦しむ人々の食糧援助には、諸外国への対面

を気にしてか理解を示す政府も、こと自国の飢餓に苦しむホームレ

スには汚染米の一粒も恵もうとはしない。さらに、仏教会はといえ

ば、衆生救済はあの世へ逝ってからのことで、ただ念仏を唱えるば

かりで何の役にも立たない。衆生は極楽への免罪符を売り飛ばして

も今生の幸せを求めているのだ。

 テーブルではワインが選ばれてグラスに注がれた。女社長と老人

はグラスを持ち上げて私を見ていた。気付いた私は慌ててグラスを

取って持ち上げた。すると、女社長が「この出会いに幸運がありま

す様に、乾杯!」と言った。

 ラウンジでの食事は、私が日頃コンビニで済ます「ご飯」ではな

かった。それは正に横文字の「DINNER」だった。私は生まれ

て此の方「DINNER」をしたことがなかった。女社長の気の利

いた乾杯の「音頭」に、私はいつもの自分を隠して、マンガで培っ

た精一杯の気取った演技を心掛けようと思ったが、ワインを口にし

た途端に、今まで意識したことがなかった重力が解かれて自分だけ

が浮遊しているような不思議な感覚になった。それは、まるで無重

力の宇宙空間を漂っているようだった。ラウンジは宇宙ステーショ

ンのように地上から遊離していた。思うに任せられない無重力空間

の中で、私は二度ナイフを落としてしまった。始めは慌ててそのナ

イフを拾おうとしたら、ウエイターが飛んで来て先に拾って、すぐ

に別のナイフを用意してくれた。彼はまるで地上に居るかの様に素

早やかった。私はバツの悪さを感じながらも平静を装おうとして更

にワインを飲んだが、そのグラスを不安定な場所に戻したらしく、

ワインの入ったグラスがゆっくりと倒れて、赤ワインが純白のテー

ブルクロスを勢いよく朱色に染めた。女社長は、自分の方へワイン

が押し寄せて来たので「キヤッア―!」とラウンジ中に響くほどの

大きな声を上げた。私はその声に驚いて二度目のナイフ投げをしで

かした。ホールはほぼ満席だったので、ホールの誰もが彼女の方を

見た。またまた、地上に居るウエイターが素早くやって来て冷静に

対応したのでそれ以上の騒ぎにはならなかった。ウエイターは新し

いナイフを渡す時に、「私どものナイフは幾ら投げてもスプーンの

ようには曲がりませんので」と、機知に富んだセリフを自慢げに告

げた。私はすぐには意味が分らなかったが、どうもスプーン曲げに

擬えてそう言ったのだ。彼は中々洒落たウエイターだった。私が金

持ちなら間違いなくチップを弾んだ。そして、ウエイターは、

ワインで汚れたクロスを代えましょうと冷静に提案したが、女社長

がさすが美術家らしく「この朱色すてきじゃない」と言ったので、

そのまま食事が続けられることになった。お陰で私と女社長の前に

は朱色に染まったテーブルクロスが事の顛末を生々しく伝えていて、

私はその朱色を見る度に恐縮のあまり何を食べているのかさえ分か

らないほど自閉した。いぶかしげに様子を見ていた老先生は、

「君は、そのーっ、ホームレスだったのかい?」

と言った。私は、何もこんな時にそんな事を持ち出さなくてもと思

ったが、抗弁する気力も失せてただ黙って頷いた。


                         (つづく)

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