(三)
風が川面を叩いて春を告げ水面は目覚めて軽く波立つ、そんな長
閑な朝の始まりが立つ瀬を失った自分の面にも少しは生きる歓びを
目覚めさせ、鳥のさえずりさえ笑っているかのように聴こえて、私
も心が少しは沸き立って水面へ到る斜面の土手の草むらにバックを
置いて仰臥した。街の喧騒も少し外れるとまだこんなところがある
のだ。
「何が?」
「永遠が!」
遠くに掛かる陸橋に列を切らずに続く車の流れに、今の自分が置か
れた境遇が、まるで先頭集団から離されていく後続のマラソン選手
の焦りに似た不安を感じさせたが、どうすることも出来ないあきら
めが逆に気を楽にさせて、寝転んで両手を伸ばすと欠伸が出た。そ
れからバックの中から一冊の本を取り出した。それは、資源ゴミの
集積場に無造作に捨てられていた八冊の中の一冊で、そのタイトル
を見た時、それまで私の脳血管を閉塞していた血栓が消滅したかの
如く積年の苦悩が一瞬にして解決した。それは「実存は本質に先行
する」、フランスの哲学者サルトルの本だった。そのあとの本文は
私にとってどうでもよかった、というよりこの一文は強烈だった。
実際図書館で「嘔吐」も読んではみたが全く理解出来なかった。翻
訳の難しさもあるのだろうが、なんでアロエだかマロニエだかの木
の根っこを見て「吐き気」を催したのか皆目判らなかった。「存在
と無」は最初のページを繰らずに置いた。「実存は本質に先行する
」、これだけで充分だった。つまり、私はずーっと「実存には本質
が先行している」と思っていたのだ。そもそも実存主義の本を読ん
でいても使われる哲学用語が全然頭に入ってこないし、さらに文化
と翻訳の壁があり、日常の言葉で語れない思想が日常に広まる訳が
無い。突き詰めると「ものごと」は狭義に拘らざるを得ないのは判
るが、突き詰められた真理が深海の海底では光輝いていても引き上
げて見るとただのガラス瓶だったでは見向きもされないだろう。
つまり存在には「意味がある」と思っていた。しかし「意味があ
る」とすれば意味を与える存在がなければならない。「生きる意味
」だとか「何の為に」とかの問いは、常に自分の外に答えを求める
ことになる。私はサルトルの「実存は本質に先行する」という言葉
から、本質、つまり生きることの意味を問うことの無意味さを悟っ
た。
(つづく)




