(二十一)
人間は本能と理性で生きている。本能とはすべての生き物の中心
にあって生きる力である。本能は生きることの是非を問わず、ただ
ひたすら生きようとするが、予期せぬ危機に直面して死の恐怖が芽
生え、この恐怖が記憶され、再び繰り返されない様に意識され認識
が育まれる。この記憶と認識が繰り返されて理性が進化する。やが
て理性は本能に従って、生きることを脅かす様々な危機に対処して
本能を死の恐怖から遠ざける。我々の理性はこの様にして「生きよ
うとする」本能が死の恐怖から受けた記憶と認識から派生した。や
がて理性は社会で共有され高められ、本能から離れ自在性を得た理
性は世界を認識し、宇宙を認識して、意志を持つ。しかし、いかに
認識を高めても存在を超えたもの、つまり「生きる意味」について
は語る言葉を持たない。それは我々の理性が、ひたすら「生きよう
とする」本能から派生したからに違いない。そこで理性が生きるこ
との是非を問うことは驕りであり「生きようとする」本能への背信
である。何故なら、理性には「生きようとする」本能を否定するこ
とが出来ても、本能に取って代わる「生きる意味」を見つけ出せな
いからだ。自殺とは、「生きる意味」を見出せない理性が、ただひ
たすら「意味がなくとも生きようとする」本能に背く行為である。
理性はあくまでも本能が「生きる」ための手段であり目的ではない
。自殺とは、手段である武器を目的を見失った自分に向けることで
あり、手段と目的が倒錯した本末転倒の論理である。そもそも本能
は生きることに意味など求めない。つまりサルトル風に言うなら、
「生きようとする」本能は「意味がないという」理性に先行するの
だ。私はホームレスになって東京の街を彷徨いながら、生きていく
ことが憂ざくなって何度も自殺を考えた。それは私にも予知能力が
備わっているのかもしれないと思ったくらい、私の「嫌な予感」は
見事に的中した。奈落の淵を臨みながら、どうしても避けなければ
ならないと判っていながら、そこに落ちていく自分を他人事のよう
に見ていた。そういうことを繰り返していると、始めのうちは、恐
らく、もう私の人生には私が望むような幸福は訪れないだろうと落
ち込んだが、それは身近だった世間が引き映像のように遠退いて行
く感じ、ところが、生きてさえいれば多少の辛さはあっても、自分
が思っていたほどの崖っぷちではなかったり、冷静になって周りを
見渡せば這って上がれる程度のものだった。それに表向きは幸せそ
うに見える他人の暮らしにも、口にはしないが色々と悩み事があっ
て、何も自分だけが辛い思いをしている訳じゃないんだと気付いた
時に、孤独に苛まれた思いもむしろ柵のない身軽さに感謝して
もいいのかもしれないとさえ思うようになった。人は思い込みや雰
囲気に流されて、時としてどうしようもない絶望に見舞われること
があるが、幸不幸の基準ほど当てにならないものはない。それから
は不遇ではあったが、自分の境遇を世間に照らして悲観したり絶望
したりすることは止めようと思った。私の幸せは世間に決めてもら
うものじゃない、世間体だけのためにまた面白くも無い会社の奴隷
に戻る気はなかった。もう深淵の崖に立たされても恐くはなかった
。降り掛かる困難を楽しもうとさえ思った。私は理性を頼りに生き
ることの是非を問うことを止めて、「生きようとする」本能に縋っ
て意味なくただひたすら生きようと決意した。すると世間の浮き沈
みが、たとえば満員電車に乗って周りを気にせず座席に座る者と、
周りを気遣いながら立っている者の違いくらいにしか思えなかった
。つまりみんな同じ電車に乗って同じところに行こうとしているの
だ。電車の中で楽をしたいとは思わなくなった。そしてそう思うと
何故か幸せな気分にもなった。私はそれを絶対幸福と呼んだ。
(つづく)




