(二十)
バロックは研修生のネエちゃんを甚く気に入っていた。確かに彼
女の透き通った声はすばらしかった。彼女は研修中だった居酒屋の
アルバイトをあっさり辞めて、今はバロックに就いてストリートミ
ュージシャンの研修中だった。整った顔立ちの美人では無かったが
、歌の上手い女性独特の愛くるしさがあって、歌に集中すると更に
それが際立った。彼女の声の魅力はバロックだけでなく、彼女の歌
を耳にした往来の男たちにも、足を止めずにその場を通り過ぎるこ
とが後で悔やまれると思わせるほど男の気持ちを揺さぶった。御蔭
で、私とバロックの「サイモンとガーファンクル」は引退を余儀な
くされ、私は肩の荷が下りたが、代わりにバロックと研修生の「カ
ーペンターズ」が熱烈な歓迎を受けて路上デビューした。ただ研修
生は「カーペンターズ」の名前は知っていても歌を知らなかったの
で、いつも歌詞カードを見ながら唄っていたので、私が「『カンペ
』ターズ」と命名した。
「アート、仕事取ってごめんね」
私は絵を描いていることから彼女から「アート」と呼ばれたが、バ
ロックは、ポール・サイモンと別れて路頭に迷うアート・ガーファ
ンクルの「アート」だと言った。確かに世間一般で言う、ちゃんと
した仕事には就いていないが、また振り出しに戻って奴隷からやり
直す訳にはいかなかった。バロックの言う4つの選択の中、奴隷と
ホームレスには戻りたくなかった。後は一発当てるか死ぬかしか残
されていない。ただ絵を描いて一発当てようなどとは思っていない
が、小林秀雄が「近代絵画」の中で画家ジョルジュ・ルオーの言葉
を紹介して、「人に教えられて上手く生きるよりも、自分のやり方
で失敗したほうがましだ」みたいなことを書いてあって、(間違っ
てたらゴメン)それが気に入ってそういう生き方をしようと覚悟を
決めた。
「絵、上手くなったらモデルになったげるね」
彼女は腰を横に突き出してその骨盤に手の甲を掛けて、もう一方の
手を悩ましい表情の顔に添えた。それはあの居酒屋で退屈そうに接
客をしている研修生とは別人だった。彼女は生き々々とした表情を
していて、その「生き々々している」という意味がこんなにも性的
な匂いを秘めているとは思わなかった。そして女性にとっての生き
甲斐と男の生き甲斐はやはり根本的に違っているのかもしれないと
思った。体内に子宮があって周期的な排卵による月経というフィジ
カルな現実に付き合わされて、「存在への懐疑」などというメタフ
ィジカルな愚問に悩んだりはしない。彼女らは厳然たる現実を生き
ているのだ。たとえばデカルトは、痔からの出血があったかもしれ
ないが、確実に訪れる月経や、妊娠や出産に煩わされなかったから
こそ懐疑主義を究められたんだと思う。
(つづく)




