(十九)
牛乳の宅配は新聞配達とは違って日曜日の配達はない。土曜日に
日曜日の分を配達するからだ。ホームレスから曲がりなりにもマイ
ルームを手にしたことで、雑用に時間を取られてしまいバロックに
もしばらく会えずにいた。バロックに会いに駅前の広場に行くと、
やがて彼の歌声が耳に届いてきて、さらに近づくとその周りには多
くの人々が取り囲んでいて、私はしばらくその様子を群衆の後ろか
ら眺めていたが、熱唱するバロックは恐らく気が付かないだろうと
思うほど彼は人気を博していた。私は仕方なく少し離れたベンチに
腰を下ろして、久しぶりに彼のシガーボイスを聴いていた。やがて
曲が終わり、拍手が起こり、収まり、しばらく間があって、次の曲
のイントロが弾かれて、ボーカルが歌い始めた、ら、その声は女性
だった!「えっ、バロックじゃない!」私は慌ててその声の女性を
確かめようと、もう一度群衆の後ろからその歌声の女性を見て驚い
た、あの居酒屋の「研修生」のネエちゃんだった、カーペンターズ
だと思う、上手かった、透き通る高音が滑らかで、思わず自分が居
る場所を忘れてしまうほどだった。
彼女のイエスタディ・ワンス・モアを聴きながら、近頃は極端に
耳にしなくなった洋楽の事が気になった。まるで経済のグローバル
化と軌を一にして、アメリカンソングは何故流行らなくなったんだ
ろう?事情は分らないがアメリカでも盛り上がっていないのかな?
ひと夏だけホテルのビヤガーデンでエレベーター係りのアルバイ
トをした事があった。館内のエレベーターは屋上への直通にできな
かったので、ビアガーデンへ行く客がエレベーターのボタンを押し
て客室フロアに勝手に降りないように、係員が操作してビアガーデ
ンの客を屋上まで運ぶ仕事だった。ある時、アメリカ人のツアーが
ホテルに宿泊して、その中の数人がビアガーデンに行く為にエレベ
ーターに乗って来た。二十歳前後の若くて美しい女の子が5,6人
居て、その中に高齢の婦人が一人居た。女の子達ははしゃぎながら
乗って来て、エレベーターの中でもはしゃいでいた。私は毎日酔っ
払いを相手にしているので気にもしなかったが、突然、その高齢の
婦人が騒いでる女の子を叱責しながら思いっ切りビンタを浴びせた
。私は唖然としたが、その婦人は女の子に「彼に謝れ!」と言って
私の前に彼女を連れ出した。女の子は大泣きしながら私に「アイム
ソリー」と言った。私はあの毅然とした婦人の行いを目にして、ア
メリカ人に古くから培われた公徳心に、伝えられるアメリカ人のイ
メージとは違った強い精神性を感じた。おそらく先生と生徒の関係
だと思ったが、詳細は解からない。私は女の子と共に謝る婦人に「
ここはビアガーデンで誰もが楽しむ所なんだから、それくらいのこ
とを気にされなくてもいいですよ。さっ、お気にされずにどうぞ楽
しいひと時をお過ごし下さい」と言いたかったが、もちろん言えな
いので、ただ「ドントウオリー、ドントウオリー」と言った。我々
は矮小化された一面だけのアメリカだけで、アメリカが養ってきた
精神を知りもせずに侮ってはいけないと思った。
研修生の歌が終わって少し人が離れていった。バロックが私に気
付いて手を上げた。そして、
「ちょっと、ゴメン、休憩させて」
とオーディエンスに言った。私は彼のそばへ行った。
(つづく)




