(十五)
バロックの部屋は仕事を探すのに助かった。履歴書ひとつ書くに
しても、まず住所を書ける事が有り難かった。名前の次は住所を書
く欄になっていた、ホームレスの時はそこで履歴書を書くのを止め
た。もちろんここもバロックが借りていて、私は依然ホームレスだ
ったが、役人の言い訳のように誤魔化すことが出来るだろう。ただ
、いざ仕事となると自分は何をしたいのか分からず、とりあえず住
み込みで働ける仕事を探していたら、牛乳の宅配の仕事で、早朝だ
けの仕事にもかかわらず個室を借りることが出来ると載っていた。
しかも近くだったので、早速電話をしてすぐに面接を受けることに
なった。電車に乗れば二駅だったが、そのために駅へ向かうのが逆
方向だったので電車に乗らずに歩いて行った。川沿いを行くと、や
がて河川敷の近くにしては奇妙な小高い山が現れ、その樹木の青葉
の中より大きな寺院の瓦屋根が見えた。日蓮宗の名刹らしい。さら
に近づくと参道に出て、それを駅に向かって歩いた。駅のすぐ傍に
四階建ての建物がすぐに目に入った。面接はすぐに終わった。
「仕事、決まったよ」
私はすぐにバロックに電話した。
「えっ、決まった」
「しかも部屋付き」
部屋はその建物の上に四部屋あった。四畳半くらいの広さでフロー
リングになっていた。炊事場とトイレは二部屋共同だったが、ホー
ムレスの私には文句は言えなかった。
「就職祝いしようぜっ」
「ありがとう」
私は彼の「就職祝い」と言う言葉が、受刑者が刑期を終えてシャバ
へ戻る「出所祝い」に聞こえたが、まあ、あまり変わらないなと思
った。帰りは迎えに来た電車に乗って、バロックの処へ向かった。
迎えの電車は結構込んでいて、まえから乗っていた若い美しい女性
を奥へ押し込んで、私は彼女とドアの間に入った。すぐに電車は動
き出した。私はドアに身体を寄せたが背中の彼女のことが少し気に
なった。ドアの窓から流れる景色を見ながら、ただ、頭の中ではお
かしな事を考えていた。
人間は、なぜ性行為を快楽を伴って行うのだろう?動物がそうで
あるのは分かるが、そろそろ人間は性行為に大きな苦痛を払って行
うべきではないだろうか?快楽に導かれて生を得た子らは、今後こ
の世界の峻厳に立ち向かえるのだろうか?人間の生命は快楽によっ
て繋がれてきたが、我々の種はその怪しさにそろそろ気付き始めた
のではないだろうか?我々の不正であれ虚偽であれ怯惰であれ、も
のごとを誤らせる根本は快楽にある。我々は快楽という枝葉末節に
取り憑かれて、本来の進化をおざなりにしてきた。やがて危惧の念
を持った本能は、性交の快楽物質を痛みの物質に作り変えて、我々
の性欲を苦痛の中心に据えるに違いない。それでも子孫を望むなら
、自らの死を犠牲にしても「然り」といえる者だけが生むべき時が
来るに違いない。人間は幸せになるために生きているんじゃない。
たとえ苦しみばかりでも生きようとするのが生命だ。我々はその生
命の外で生きているのではないか。背中に若い女性の気配を感じな
がら、私はそんなことを考えていた。
(つづく)




