九、川下りにて(1)
メル隊は、クラル川の入り口で、装甲艇「バルキル」に乗り換えた。装甲艇は、本来は警備のための巡回や、部隊の上陸時の護衛に使う小船だが、今回は敵地に接近するために商船に偽装していた。
クラル川は敵国ルーデシアまで一直線に進む大河で、国境線手前で左に折れ曲がり、あとはそのまま線に沿って続いている。だからこれを下れば、自動的に国境に着く。
隊員たちは一人を除き全員が河川での任務は経験済みであり、その一人にとっては初任務になるので、その緊張はすさまじいものがあった。夜、せまい風呂場でのこと。
「シュカちゃん、その……」と、ウシャニパッドが背中を流しながら、言いにくそうに「怪我しないように、ね……」
しかし、少女には聞こえていなかった。恐怖を紛らすには、これしかない。
(自分も、最初の戦闘の晩はやったが)(ここまでしつこくはなかったと思う。たぶん)
ため息をつくウシャニパッド。ここ数日、風呂のたびにこれらしい。それも厄介なことに、目的地に近づくにつれて、激しさを増している。昨日、風呂を担当したレーベによると、異常興奮で白目むきそうな勢いだったという。
しかし十歳の子供では、初戦のストレスに耐えろ、という方が無理だろう。これから生死にかかわる地獄へ行くのである。それも生まれて初めて。
マトゥーシュカは実際には、大量殺人という戦場に近い修羅場は経験していたが、そこで父親を殺害して以来、この手の行為はいっさいやっていなかった。家にいたころのような過剰すぎる重圧がなかったおかげだが、今、いよいよ戦場での「本番」を迎えるにあたり、恐怖によって再びそれが噴き出してしまったのだった。二度の列車破壊のときは確かに自慰行為をしたが、それは溜まりに溜まったストレスからで、好きでやったわけではなかった。
そして今も。
ふらふらになってやっと終わると、正気に戻って、泣きながら「ごめんなさい」を繰り返すのが、また哀れだった。しかし自慰ができるのは、ヘルメットを唯一脱がせてもらえる風呂の時間しかない。自分の部屋なんかで、かぶったままでやろうとすれば、メットの電流で地獄を見る。それでは戦う前に戦死しかねない。
だが、実はメットを脱げる環境が、本番を除いて、ほかにもう一つあった。
「れ、練習、したい、で……す……」
「ダメだ。昨日やったばかりだろう」
シュカの願い出に、隊長は即答した。
「風呂で毎晩、気持ちよくなってるだろう。これ以上はいかん」
念動力の練習→メットを脱ぐ→済んだらオナニー、という魂胆だが、むろんメル隊長にはお見通しだった。自慰すること自体は構わなかったが、癖になるのはまずい。敵を殺したり、施設や武器を破壊するたびにいちいちやられては、作戦行動に支障が出る。最悪、隊員たちの身の危険につながる。
とはいえ、シュカにとっては切羽詰まった欲求と、精一杯の勇気を振り絞った行為だった。すがる思いの申し出を却下されて絶望し、涙があふれた。
するとメルは、少女の身を引き寄せて、ぐっと抱きしめた。
「大丈夫だ」と、小さな背を手でゆっくりぽんぽんする。「おまえを絶対に傷つけさせはしない。誰にもだ……」
早かった鼓動が収まると、彼女は身を離して優しく微笑みかけた。シュカはやっと安堵したようで、うっすらと笑った。
だがシュカが部屋を出た後、メルはさっきのこわばった体を思い、眉をひそめた。
(酷い虐待を受けて育った子だ)(基本、私も父親と同じに思われているはずだ)
親が信じられなかった人間は、誰も信じられないことが基本になる。それでも、なんとかしなくてはならない。あの恐怖と苦痛に固まる体をほぐし、自由に羽ばたく翼を得させたい。部隊の全員が生き残るためには、信頼と団結が必要だ。
個々の違いはあれ、生まれてから、ひたすら生き延びるために戦ってきた我々だ。だから気づけば、普通は避けて通るはずの、厳しい殺し合いの世界にいた。もう、ここまで来てしまったのだ。
そして、これは自分が始めたゲームだ。
メルは椅子から立つと、窓からどす黒い夜の闇を眺めた。生い茂る森は塗りつぶされたように見えず、聞こえるのは、船のゆるいエンジン音と、かき分けられる波の音。
そうだ、そのゲームに、シュカを含めたみんなを巻き込んだのも、また自分。最後まで面倒を見る覚悟はできている。




