四、機関兵、ウシャニパッド・ジーニ
隊長はテーブルの下に落ちているヘルメットと、覆いを外された壁の排気口を見て、すぐに現状を把握したが、少なくとも五分は早くここへ戻れてしかるべきだったので、眉をひそめた。監視カメラには特にトラブルはないので、本来ならば少女の脱走シーンを見た監視員の報告があるはずだが、それはなかった。(またか)と思ったが、今はそんな場合ではないので、後回しだ。
彼女が眉をひそめたわけは、ほかにもある。「間違っても自力で脱ぐことはできません。特に子供にはね」と豪語したメット製作者のルゴシ博士にも相応の罰が必要で、場合によっては軍法会議ものである。
マトゥーシュカ・ピッピは十歳のガキとはいえ、超能力を持つ大量殺人鬼だ。野放しになったら死人が出る可能性は極めて高い。そうなれば、いま樽のように床に転がっているこいつを、「軍事史上に残る大発明だ」とゴリ押ししたルゴシが殺したも同然である。
側近の部下に、吠えるように命じる。
「基地内の全員に伝えろ! 幼女を見つけたらすぐに報告し、その場を離れること! 絶対に、手を出してはならん! 死にたくなければな!」
基地全体に響くけたたましい警報で、監視室のウシャニパッドはやっと目を覚ました。いつものように眠りこけていた。
夢を見ていた。いつもの悪夢だ。都心のアパートの汚らしい路地裏で、ボロボロになったママとダディが、自分になだれこんでくるところで目が覚める。ママはネズミに全身をかじられて死んだ。ダディは野犬に喉笛を食いちぎられて死んだ。家族でホームレスになって一週間目のことだった。奇跡的に自分だけケモノたちに見つからずに生き残ってしまい、泣いているところを近所のヤクザに拾われて育った。
黒髪でアラブ系の目の鋭い少女は、こうしてスラムで犯罪のエキスパートとしてどんな悪事でもやった。だがある日、視察に来ていたメル大尉のジープから銃を盗もうとしたところを捕まり、これで人生がやっと終わると確信していたら、メル大尉は本部まで彼女を連れていった。そこで生い立ちや、なにができるかをあれこれ聞いたあと、その整った顔に微笑を浮かべて、こう言った。
「ウシャニパッド・ジーニ、十代でそれだけやれるなら、うちで働け。そうすれば、今までお前が犯したすべての罪を帳消しにしてやる」
コソ泥や詐欺で食いつなぐのにうんざりしていたので、二つ返事で了解した。軍人になれば、でかい銃も使えて面白そう、とも思った。人生は限りなくすさんでいたが、根は前向きだった。ただ目を離すとすぐなまける癖があり、居眠りは一人にすると高確率で起きた。そのたびに怒鳴られたり、ど突かれて目を覚ましたが、まだ決定的な失態は起こしていなかった。
だが今回のこれは、下手すれば重営倉送りかもしれない。
(メル大尉――いや隊長は、たしか子供のエスパーを引き取った、と言ってたな)
監視室の黒革椅子であくびしながら、ウシャニパッドは思った。
(どうしたんだろ。逃がしたんかな。まあ、エスパーじゃしょうがないか)
メルが、本部の大尉から第八十三小隊(通称メル隊)の隊長になってから、まだ一か月だった。自分がこの陸軍基地に配属になってからは丸二年で、あと三か月で二十歳である。
(まだ家があったころは、ママとダディが誕生日のお祝いしてくれたっけな)(ケーキなんか買えないから、毎年、ビスケット三枚でハッピーバースデーとか歌ってくれて)(ここじゃ、そんなんないけど)と伸びをする。(二十歳のお祝いなら、してくれるかもな)(隊長、そういうとこ律義だし……)
思いめぐらしていて、椅子からずり落ちかけた。いきなり天井板の一枚が外れ、上から何かでかい塊が降ってきて、膝にどんと乗ったのだ。スラムで鳴らしたつわものも、これには驚いた。
「うわああー!」
思わず叫んだが、自分の胸にすがりついてきたそれが、十歳ほどの幼女と知ると、彼女は悟った。
(こいつが、あのエスパーか?!)
ウシャニパッドは、泣いてすがってくるマトゥーシュカに、精一杯優しく聞いた。
「どうした、かわいこちゃん。どこから来た?」
マトゥーシュカは、相手の浅黒い腕をつかんだまま、目をうるませて、ただ「かえりたい」と言った。
「そうか」
ここへ連れてこられるからには、どうせ何かやらかしたんだろうな、とは思ったが、黙っていた。その小さな足が計器のボタンにふれ、並ぶいくつかのモニター画面の一つに、今日の映像が再生された。メル隊長が少女にあれこれ説明して取調室を出るところから、少女のヘルメットが脱げたあと、壁の排気口を見つめる場面になった。誰も手を触ないのに、すべてのネジが勝手に飛んで覆いがはずれ、少女はその中に入って消えた。目を見張るウシャニパッド。
(これが、噂の超能力か……!)
「あ、あの人……」
マトゥーシュカが言いかけたので、ウシャニパッドが「メル隊長のこと?」と聞くと、こくんとうなずいた。それきりなので、続けて聞いた。
「こわい?」
「こわい……けど」
言って、表情がゆるむ。
「やさしい……」
それを聞き、ウシャニパッドも顔がうっすらゆるむ。
「ああ、そうだね」
確かに、それは正しい。といって、最初に雇ってもらったこと以外に、特別になにかをしてもらった記憶がない。だが不思議なことに、それでもこの少女の意見には、素直にうなずけるのだった。
にしても、会って数分くらいで、もうここまで餌付けしてやがるんだから、メルさんは恐ろしい人である。
「あたしはウシャニパッド。メル隊の機関兵だよ」
キカンヘイったって意味は分からないだろうが、それでも名乗った。
「あんたは?」
「ま、マトゥーシュカ・ピッピ」
「かわいい名前だね。よろしく」
握手した。膝に乗せたまま。素性もなにも分からんが、どうせ仲間になるに決まってるから。と思った。
だが、少女が天井をじっと見つめているのに気づいたとき、右端のモニター画面に数名の兵士が映るのが見えた。それは、この監視室のドアの前の映像だった。バン! と派手な音を立てて彼らがここへ入った直後、マトゥーシュカの体は、糸で引っ張ったように、ひょいと天井の穴へ飛んで消えた。ウシャニパッドは、そっちに手を振って、大声で叫んだ。
「がんばれよー、ピッピちゃーん! つかまんなよー!」




