二、虐殺(2)
母はとうに病気で死に、父は酒でそれどころではないので、週一で家に来るボランティアの女性がマトゥーシュカの世話をしていた。むろん、それで足りるはずもなく、いつも食うに困っていた。耐えかねたときは、家から少し離れたショッピングモールまで行って、得意の念動力でパンや菓子を万引きして飢えをしのぐ。
父は暴力は振るったがロリコンではなかったので、性的虐待は免れた。それでも、いつも体にあざや生傷が絶えないのはつらく、恨みも日々つのった。といって、この特殊能力を使って仕返ししよう、などとは思いもよらなかった。幼児にとって、親は神に等しい恐ろしい存在だったし、また、うかつにはできない事情もあった。
たとえば前述の万引きにおいては細心の注意が必要で、それも列車テロよりもはるかに慎重にかからねばならない。遠い距離で使うときと違い、店の陳列棚から商品を浮かせて失敬するのは、店員や他の客に見つかりやすいのもあったが、実はなによりも決定的なことがあった。彼女の超能力は、目で対象をとらえて念じだしてから発動するまで、少なくとも五秒間はかかるのである。意識を集中し、相手を五秒は見つめて、やっと動かすなり殺すなりができる。だからマンガや映画などであるような、出会った敵を瞬殺とかは無理である。そういう意味で、彼女は殺し屋としてはスナイパーに近かった。
時間がかかる。
これにより、誰よりも憎い父をどうこうする機会がなかった。敵はアル中だから、眠っているときなら難なくやれたろうが、高いびきの相手がいつ目覚めるかわからない恐怖には勝てなかった。日々殴られ蹴られしている普遍的トラウマが、哀れなマトゥーシュカの枷になって反撃を食い止めていた。その恨みは、代わりになんの罪もない列車の乗客たちに向けられた。
その日の晩も、父に張り倒されて壁に叩き付けられた腹いせに、いつもの線路へ向かった。いつもといっても、これでまだ三度目である。同じ場所だと疑われるかもしれない、と知恵を回して向かいの小高い丘にあがった。塀の裏で林と灌木が多く、子供なら楽に身を隠せる。
伏せって待っていると、家の方角に目がいった。ここからは周囲をぐるっと見渡せるが、塀の向こうの荒れ地に、ひとつの影が近づいてくる。おまわりか、とビビったが、姿がはっきりしてくるや、まるで違う意味で心臓がばくばくしだした。
(親父……!)(なんで来た……?!)
名前を連呼しているので、自分を探しているとわかった。いつものようにぶっ倒れることなく、娘がいないと気づいて出てきたのだ。この幼い娘にとって、電車よりも警察よりも、はるかに恐ろしい相手だった。いま父は塀の前で足を止めて左右をゆっくりと見まわしている。そのでっぷりした巨体は、彼女にとって人食い熊そのものだった。
いつもなら凍り付いて、隠れたままやり過ごし、列車も無事通過して何事もなく終わったろう。ところが、このときマトゥーシュカの胸のうちに、ぽっと悪魔がわいた。悪魔はみるみる風船のように膨らみ、その小さい体を動かした。
彼女は意識を父に集中させた。驚くほど冷静だった。心で強く念じる。
(裂けろ切れろちぎれろ! バラバラになれなれなれ……!)
父親がすぐどこかへ行けば効かなかったろうが、運命は悪魔に味方した。念じて六秒後、彼はいきなり胸をかきむしって苦しみだし、大きくのけぞった。そして、そのでかい肉体がさらに大きく膨れ上がったと思うと、風船のように破裂四散した。音はしなかったが、遠いので聞こえなかっただけかもしれない。街灯の白い光でも、飛び散る血の色がよく見えた。
初めての父への反抗、それも最悪の方法と取り返しのつかぬ結果に、マトゥーシュカは思わず飛びのき、目と歯を激しくむきだして、上ずった声をあげた。
「ひっ! ひっ! ひい、いいいい――っ!」
ふと股間に手をやると、失禁していると知った。
異常興奮に身を火照らせ、初めて永遠の自由を手にした余韻に震えていると、遠くから時間どおりに列車の音がしてきた。マトゥーシュカはわくわくしながら再び伏せると、茂みの陰から覗き、やってくる車両を見つめた。そして頭で、今までで最も強力に念を送った、
列車は、全車両がびゅんと飛び上がって丸い輪になり、外れた観覧車のごとく、ぐるぐる回ってレールを走った。中の客たちはシェイクされて皆ぐちゃぐちゃに潰れ、百メートルほど行ったところで輪は崩れて、鉄の塊になり、その場に溜まった。
停まると、すぐに発火して赤赤と燃えあがり、ダンゴ虫の死骸に火をつけたようになった。その鮮やかな光をうっとりと見ながら、マトゥーシュカは汗まみれでマスターベーションし、自分もこのまま焼け死ぬかと思うほどの、すさまじい恍惚に浸った。
車両が轟音をあげて爆発すると同時に絶頂に達し、白目をむいてあおむけに倒れ、しばし全身を痙攣させた。父への恐怖の反動で、この自慰の壮絶な快感は、宇宙の終わりのように彼女を襲った。
そのまま気絶しかかったものの、なんとか正気にかえり、起き上がった。這うように茂みから出た直後、頭に衝撃をうけ、すべてが真っ暗になった。




