因果のズレ
こんにちはこんばんはおはようございます
誰も、すぐには動けなかった。
目の前に“戻ったはずの男”がいる。
だが、その中身は――空白に近い。
「……俺、誰だ?」
もう一度、同じ問い。
声は確かに人間のものだ。
だが、そこに積み重ねられていたはずの“何か”が、ごっそり抜け落ちている。
「医療班!」
教官の声で、ようやく周囲が動く。
男は担架に乗せられ、運ばれていく。
その視線が、ほんの一瞬だけカイに向いた。
理由のわからない、不安だけを残して。
扉が閉まる。
喧騒が、少しずつ遠ざかる。
残ったのは、カイとリゼと教官。
そして――
“やってしまった”という感覚。
カイは、何も言えなかった。
リゼが先に口を開く。
「落ち込んでる?」
軽い調子。
だが目は笑っていない。
「……はい」
カイは正直に答える。
「戻せると思ってました」
「無理だよ」
即答だった。
「完全に消えた“情報”は、戻らない」
一歩、空白だった場所に近づく。
もう何も残っていない。
「私が覚えてるのは“輪郭”だけ。中身までは保証できない」
カイは拳を握る。
「じゃあ、あれは……」
「別人に近い何か」
はっきりと言い切る。
逃げ場を与えない言葉。
教官が低く問う。
「……では、やる意味はあるのか」
リゼは少しだけ考える。
そして肩をすくめた。
「ゼロよりはマシ」
その言い方は現実的だった。
「完全消失より、“欠けた存在”の方がまだ扱える」
「扱う、か」
教官の声に、わずかな棘が混じる。
「人間をな」
リゼは視線を逸らさない。
「じゃあ聞くけど」
一歩、教官に近づく。
「完全に消えた方がいい?」
沈黙。
答えは出ている。
「……いや」
教官が短く言う。
リゼは頷く。
「でしょ」
そして、カイを見る。
「だから選ぶしかない」
その言葉に、さっきの話が重なる。
「“どこまで戻すか”」
カイは顔を上げる。
「……どこまで?」
「全部は無理」
リゼは指を立てる。
「でも、“一部”なら戻せる」
「一部……」
「優先順位つけるの」
淡々と続ける。
「名前、記憶、感情、技能……全部は無理でも、どれかは残せる可能性がある」
カイの目がわずかに開く。
「……選べるんですか」
「たぶんね」
少しだけ曖昧に言う。
「まだ試してないけど」
教官が腕を組む。
「理論はあるのか」
「ない」
即答。
「でも感覚はある」
軽く頭を叩く。
「こっち系」
カイは少しだけ息を吐く。
「……賭けですね」
「そう」
リゼが笑う。
今度はほんの少しだけ、楽しそうだった。
「だから面白い」
教官が深く息を吐く。
そして決断するように言う。
「……いいだろう」
二人を見る。
「お前たちに任せる」
カイが驚く。
「いいんですか」
「状況は最悪だ」
短く言う。
「すでに“消失”が起きている」
一拍。
「ならば、中途半端でも“戻せる手段”を持つ方がマシだ」
リゼが小さく頷く。
「現実的」
教官は続ける。
「ただし条件がある」
視線が鋭くなる。
「必ず記録を取れ」
カイが反応する。
「記録……」
「何を削り、何を残したか」
一語一語、はっきりと言う。
「それが積み重ならなければ、ただの“再現不能な奇跡”で終わる」
リゼがニヤッとする。
「研究っぽくなってきた」
「遊びではない」
教官が一蹴する。
「これは“管理”だ」
その言葉に、カイは少しだけ引っかかる。
(管理……)
世界を、管理する。
人を、選別する。
その響きの重さを、まだ完全には理解できない。
そのとき。
再び、慌ただしい足音。
別の兵士が飛び込んでくる。
「報告!」
息を切らしながら叫ぶ。
「第二区画でも“消失”が発生しました!」
空気が一気に張り詰める。
「今度は……」
兵士が一瞬だけ言い淀む。
「複数人です!」
カイとリゼの視線がぶつかる。
さっきとは違う。
規模が拡大している。
「……行くぞ」
教官が即座に動く。
カイも続こうとして――
足が止まる。
(さっきの……)
“消しすぎた”感覚。
まさか。
「どうした」
教官が振り返る。
カイは一瞬迷って、言う。
「……これ、連鎖してるかもしれません」
リゼが目を細める。
「連鎖?」
「はい」
カイは自分の手を見る。
「一箇所直した影響が、別の場所に出てる可能性があります」
教官の表情が固まる。
「……因果のズレか」
リゼが小さく笑う。
「やばいね、それ」
軽い口調とは裏腹に、目は真剣だった。
「つまり――」
一歩、前に出る。
「一人戻すたびに、どこかで誰か消えるかもしれないってこと?」
沈黙。
誰も否定できない。
カイの喉がわずかに鳴る。
(俺が……やった?)
その可能性が、現実味を帯びる。
教官が低く言う。
「……確認する」
視線がカイに向く。
「それでも、やるか」
重い問い。
選択。
カイは目を閉じる。
数秒。
そして、開く。
「……やります」
迷いは、完全には消えていない。
だが、それでも。
「今止めたら、もっとわからなくなる」
リゼが横で頷く。
「同意」
軽く言う。
「どうせ止めても止まらないでしょ、これ」
教官は二人を見て。
小さく息を吐いた。
「……ならば」
踵を返す。
「責任を持て」
その言葉だけを残して、走り出す。
カイとリゼも続く。
廊下を駆けながら。
リゼが横目でカイを見る。
「ねえ」
「はい」
「いいコンビかもね、私たち」
突然の言葉。
カイは少しだけ戸惑う。
「……そうですか?」
「うん」
前を向いたまま言う。
「最悪だけど」
その言い方に、少しだけ温度があった。
「だから、ちょうどいい」
カイはわずかに息を吐く。
(最悪か……)
否定できない。
でも。
一人じゃない。
それだけで、少しだけ――
マシだった。
その先で待っているのが、さらに大きな“消失”だとしても。




