消しすぎ
こんにちはこんばんはおはようございます
沈黙が、重く沈む。
誰もすぐには口を開かなかった。
先に動いたのは、教官だった。
「……本日の評価は以上だ」
その一言で、場の緊張がわずかに崩れる。
だが完全には解けない。
「後は我々で引き継ぐ」
机の奥に座っていた男が言う。
「お前は下がれ」
教官は数秒だけ、カイを見る。
何かを言いかけて――やめた。
「……カイ、来い」
そのまま踵を返す。
カイは従う。
部屋を出る直前、背後から視線が刺さる。
測るような、切り分けるような視線。
(……実験体、みたいだな)
そう思った瞬間。
さっきの違和感が、またわずかに強くなる。
だが、振り返らない。
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、空気が変わった。
ほんの少しだけ、“ノイズ”が戻る。
カイは小さく息を吐いた。
「……いいんですか」
歩きながら、カイが言う。
教官は答えない。
「さっきの、命令に完全には従ってません」
「わかっている」
即答だった。
カイは少し驚く。
「でも、止めませんでした」
「止めるべきだったか?」
教官は足を止める。
振り返る。
その目は、試すようでもあり――確かめるようでもあった。
カイは少し考える。
そして、首を振った。
「……わかりません」
正直な答え。
教官はわずかに目を細める。
「だろうな」
再び歩き出す。
「お前はまだ、自分が何をしているか理解していない」
「……そう、ですか」
「ああ」
短い沈黙。
靴音だけが響く。
やがて、人気のない小部屋に入る。
簡素な机と椅子。
それだけの空間。
「座れ」
カイは従う。
教官は立ったまま、腕を組む。
「確認する」
その声は、先ほどよりも低い。
「お前は、あの歪みを“消した”のではないな」
「はい」
「では何をした」
カイは少し迷う。
言葉にしづらい感覚。
だが、無理やり形にする。
「……繋がってる“線”を、切りました」
教官の目が鋭くなる。
「線、か」
「全部を消すと、他も消えそうだったので」
そこまで言って、カイは止まる。
さっきの違和感。
「……一回、やりました」
「何をだ」
「全部、揃えました」
教官は何も言わない。
だが沈黙が、続きを促している。
「そのあと……少しだけ、変な感じが残ってて」
カイは自分の手を見る。
「何かを、消しすぎた気がするんです」
教官の視線が、一瞬だけ揺れた。
ほんのわずかに。
「……具体的には?」
「わかりません」
即答だった。
「でも、“あったはずのもの”が無い感じです」
教官はゆっくりと息を吐く。
そして、初めて椅子に腰を下ろした。
「いいか、カイ」
その声は、これまでで一番静かだった。
「この施設はな、“バグ”を排除するためにある」
カイは黙って聞く。
「だが――」
一拍。
「排除されたものが、本当に“不要だった”かは、誰も保証しない」
空気が冷える。
「世界はな、完全じゃないから成立している」
教官の視線が、まっすぐカイを射抜く。
「お前の力は、その“不完全さ”を消せる」
カイは小さく息を呑む。
「だがそれは同時に――」
「世界を壊す力でもある」
言葉が、重く落ちた。
沈黙。
カイは視線を落とす。
自分の指先を見る。
(壊す……)
実感はない。
だが、さっきの違和感だけは確かにある。
「……どうすればいいですか」
カイの問いは、静かだった。
教官は少し考える。
すぐには答えない。
そして。
「選べ」
そう言った。
「何を残して、何を消すか」
カイは顔を上げる。
「それを決めるのは、お前だ」
「でも、それって――」
「責任だ」
即座に返る。
「お前が避けられないものだ」
また、沈黙。
だが今度は、重さの質が違った。
逃げ場のない重さ。
そのとき――
コン、と小さな音がした。
部屋の隅。
カイの視線が動く。
(……今の)
ほんの一瞬。
微かな歪み。
だがすぐに消える。
教官は気づいていない。
(違う)
さっきまで見ていた“バグ”とは違う。
もっと薄い。
もっと曖昧なもの。
まるで――
“消え残り”。
カイはゆっくりと立ち上がる。
「どうした」
教官が問う。
カイは部屋の隅を見る。
「……残ってます」
「何がだ」
「さっきの、影響です」
教官の表情が変わる。
「場所は」
カイは指を向ける。
「ここです」
教官が近づく。
だが、何も見えない。
「……俺には何も」
「見えます」
カイは一歩踏み出す。
(これ……)
触れるかどうか、迷う。
さっき言われたばかりだ。
消すか、残すか。
選べ、と。
(どうする)
歪みは、弱い。
放置しても問題ないかもしれない。
だが――
微かに、繋がっている。
どこかへ。
(また、線……)
カイは手を伸ばす。
今度は、すぐには触れない。
じっと見る。
選ぶ。
そして――
指先が、わずかに動いた。
触れるのではなく。
“なぞる”。
切らない。
消さない。
ただ、形を整える。
歪みが、静かにほどける。
消えない。
だが、暴れなくなる。
安定する。
カイは手を引いた。
「……抑えました」
教官は何も言わない。
ただ、その様子を見ていた。
長い沈黙のあと。
「……それだ」
ぽつりと呟く。
「それが、お前のやるべきことだ」
カイは振り返る。
教官の目は、先ほどまでと違っていた。
評価でも、警戒でもない。
「調整だ」
その言葉は、静かだった。
だが確かだった。
「壊すな。だが、放置もするな」
一拍。
「“整えろ”」
カイはその言葉を、ゆっくりと飲み込む。
整える。
消すでもなく。
残すでもなく。
(……難しいな)
だが、不思議と。
さっきよりも、しっくりきた。
そのとき。
廊下の向こうで、慌ただしい足音が響いた。
誰かが走ってくる。
ノックもなく、扉が開く。
「教官!」
息を切らした兵士。
「収容区画で異常が発生しました!」
教官が立ち上がる。
「規模は」
「……不明です。ですが――」
兵士が、わずかに言い淀む。
「“消失”が起きています」
空気が凍る。
カイの背筋に、嫌な予感が走る。
「消失?」
「はい。人が……“最初からいなかったことになっている”と」
沈黙。
カイの頭に、さっきの感覚がよぎる。
“消しすぎた”。
教官がゆっくりとカイを見る。
その目に、はっきりとした確信が宿る。
「……行くぞ」
短く言う。
「お前も来い」
カイは頷く。
心臓が、少しだけ速くなる。
これは――
ただのバグじゃない。
自分が触れた“何か”の続きだ。
そう直感していた。




