代償
訓練場の喧騒が遠ざかる。
カイは教官の後ろを無言で歩いていた。
石造りの廊下はひんやりとしていて、外の熱気が嘘のように消えている。
連れてこられたのは、訓練施設の奥――
普段は立ち入り禁止の区域だった。
「ここだ」
重い扉が開く。
中は、何もない部屋だった。
床も壁も、均一な灰色。
窓はなく、外界との繋がりを感じさせない閉鎖空間。
ただ中央に、小さな台座が一つ。
その上に――歪みがあった。
カイの視界が、わずかに揺れる。
(……強い)
第1話で見たものとは比べものにならない。
ノイズが濃い。密度が違う。
「見えるか」
教官が振り返らずに言う。
「はい」
即答だった。
教官は数秒だけ沈黙した。
「……そうか」
その一言は、わずかに重かった。
「触ってみろ」
カイは一瞬だけ躊躇した。
だが、足は自然と前に出る。
台座に近づくにつれて、“それ”は形を持ち始めた。
裂け目のようにも、影のようにも見える。
存在しているのに、存在が定義されていない。
(これが……バグ)
手を伸ばす。
空気に触れているはずなのに、感触が違う。
“引っかかる”。
現実に、指が沈む。
その瞬間――
視界が弾けた。
無数の線。
無数の記号。
無数の“あり得たはずの分岐”。
カイは息を呑む。
(これ……全部、可能性?)
同じ部屋が何百通りも重なっている。
微妙に位置が違う。形が違う。時間がズレている。
バグは、それらが“重なったまま固定されている状態”だった。
「……なるほど」
カイは小さく呟く。
理解できる。
完全ではない。だが構造は掴める。
「直せるか」
背後から教官の声。
カイは振り返らない。
「やってみます」
指先に意識を集中させる。
必要なのは――“正しい位置”。
ズレたものを、戻す。
(基準は……これだ)
最も安定している層を見つける。
他はすべて“例外”。
「――揃えろ」
カイはそう言った。
言葉に意味はない。
だが、意識を固定するために必要だった。
歪みが震える。
抵抗。
当然だ。
これは“複数の現実”がせめぎ合っている状態。
一つに固定するということは、他を否定すること。
(でも――)
カイは指を押し込む。
「……決める」
その瞬間。
バチン、と音がした。
歪みが収束する。
線が消える。
ノイズが消える。
世界が一つになる。
静寂。
カイは手を引いた。
台座の上には、もう何もない。
完全な“正常”。
「……成功、です」
振り返る。
教官は、無表情でそれを見ていた。
だがその目は、明らかに変わっていた。
「もう一度だ」
短く言う。
直後、空間が歪む。
今度は、部屋の隅。
さっきよりも小さい。
だが、性質が違う。
(ランダム……?)
形が定まらない。
絶えず変化している。
「これも、やれ」
カイは頷く。
今度は慎重に近づく。
さっきのような“基準”が見えない。
安定層が存在しない。
(なら……)
カイは考える。
“作る”しかない。
「……固定する」
空間に触れる。
暴れるバグを、無理やり押さえ込む。
反発が強い。
さっきとは比べものにならない。
「っ……!」
腕が震える。
視界が揺れる。
だが――
(ここだ)
一瞬だけ、静止する点。
そこに合わせる。
「――止まれ」
バグが、止まる。
完全ではない。
だが、収束する。
やがて、それも消えた。
カイは大きく息を吐く。
「……終わりました」
沈黙。
教官がゆっくりと歩み寄る。
台座と、部屋の隅。
両方を確認する。
異常なし。
完全な正常。
「……お前のスキル名は何だ」
カイは少し考えた。
正式な名称は知らない。
だが、今やっていることは一つだ。
「デバグ、です」
教官は目を細めた。
「ふざけているのか?」
「いえ。本気です」
即答。
教官はしばらくカイを見つめる。
やがて、息を吐いた。
「いいだろう」
踵を返す。
「ついてこい」
「どこへ?」
カイの問いに、教官は短く答えた。
「お前の価値を決める場所だ」
扉が開く。
その先は、さらに奥――
選ばれた者しか入れない領域。
カイは一歩踏み出す。
その瞬間、わずかに違和感を覚えた。
(……今の修正)
完全だったはず。
だがほんの微かに――
“何かを消しすぎた”感覚。
カイは振り返る。
部屋は静かだ。
何もおかしくない。
「どうした」
教官の声。
カイは首を振る。
「いえ」
気のせいだ。
そう判断して、前を向く。
だがその違和感は、確かに残っていた。
まるで――
“本来あったはずの何か”が、最初から存在しなかったかのように。
カイは知らない。
それが、デバグの代償の始まりだということを。




