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スピンオフ駿と蓮の物語 駿と蓮編

『今日もどこかで花が咲く』を読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。


この物語では、駿と蓮が出会うまでを描いています。


二人の時間が重なり始める、その瞬間を楽しんでいただけたら嬉しいです。

長野県・合宿所。


ヴァイオリンレッスン室。


講師――リチャード。


⸻


駿は、もっと近くで聴きたくなった。


あの音を。


午後のレッスンにも

参加することを決める。


⸻


まずは――駿。


弓を引く。

音が、流れる。


どこまでも滑らかに。

どこまでも美しく。


広がりながら、

空間を満たしていく旋律。


聴く者を惹きつけ、離さない。


まるで――

時が、止まったかのように。


⸻


そして。


蓮。


弓が、走る。


速い。

荒い。


整っていない。


感情が、

そのまま剥き出しになった音。


ぶつけるように。

叩きつけるように。


それでも――

目が離せない。


引きずり込まれる。


駿の音とは、まるで対照的だった。


数日。

駿は、蓮の演奏を聴き続けた。


そして、ある瞬間。

ふと、頭をよぎる。


「似てる」


あの言葉。


(……まさかな)


否定しようとした、その時。


――フラッシュバック。

一瞬、脳裏に浮かぶ光景。


(なっ……!?)


理解が追いつかない。


激しく弾き続ける蓮の音を背に、

駿はそっとレッスン室を出た。


外の空気。

それでも、頭の中は整理できない。


(どういうことだ……)


言葉が、堂々巡りする。


(……直接、聞くしかないのか)


レッスン後の昼休み。


駿は、蓮を探した。

見つけたのは、芝生の上。


楽譜を顔に乗せ、

腕枕で寝転がっている。


駿は、その頭の上に立つ。


「お前……なんて名前?」


沈黙。


一瞬、無視しようとした気配。


やがて、楽譜がずらされる。

差し込む光に、目を細めながら――


「人に名前聞くならさ」


低く、面倒くさそうな声。


「自分から名乗れよ」


駿は、少しだけ考えた。


そして――

「……じゃあ、質問を変える」


一歩、踏み込む。


「お前の父親……ヴァイオリニストだろ」


その瞬間。


蓮が、勢いよく飛び起きた。


「なっ……なんで知ってんだよ!」


空気が、一気に張り詰める。


駿は、静かに言った。


「……俺もだ」


わずかな間。


そして――


「木戸孝臣」


蓮の動きが、止まる。


遠い記憶が、引きずり出される。


母のレコード。

後ろ姿のヴァイオリニスト。


そして――

拒絶された、あの日。


言葉が、出ない。


駿は続ける。


「で、さっきの質問だ」


ほんの少しだけ間を置いて。


「俺の名前は……木戸駿」


まっすぐに見据える。


「お前は?」


沈黙。


やがて、蓮が口を開く。


「……上野、蓮」


風が、二人の間を抜ける。


「蓮……」

「……駿」

名前をなぞるように、互いに呼ぶ。


その間を――


見えない影が、静かに巡っていた。

父という存在。

切り離せない、共通の影。


出会いは――


最悪だった。


駿、十八歳。

蓮、十七歳の夏。


⸻


数日後。


⸻


長野県・合宿所。


ヴァイオリンレッスン室。


講師――リチャード。


⸻


蓮の音は、さらに激しさを増していた。


弓が、荒れる。

抑えが効かない。


頭の中で、何度も繰り返される。


“木戸孝臣”


あの名前。


浮かんだ瞬間――


バンッ。


弦が、切れた。


静まり返る室内。


蓮は、

何も言わずにヴァイオリンを下ろす。


この合宿所には、楽器の修理室がある。


蓮はそのまま、そこへ向かった。

修理には、少し時間がかかる。


手持ち無沙汰のまま、外へ出る。


テラス。

風が、少しだけ涼しい。


ふと、視線の先に――

駿の姿があった。

一人、楽譜を読んでいる。


その姿を見つけた瞬間。


蓮は、迷わなかった。

まっすぐ歩いていく。


目の前の椅子を――

ガッ、と強く引いた。

そのまま、横向きに座る。


駿が、ちらりと視線をよこす。

それだけ。

何も言わない。


沈黙。


風の音だけが、二人の間を通り抜ける。


やがて。


「……弦、切れた」


蓮が、ぽつりと口を開いた。


駿は、楽譜から目を離さない。


「……俺のせいじゃねぇ」


短く、返す。


少しの間。


蓮が続ける。


「大学……どこ?」


「東京音楽大学」


淡々とした声。


「……受ける」


駿は、何も言わない。

ただページをめくる音だけが響く。


そして――


蓮


「……打ち負かしてやる」


その一言で、空気が変わった。


駿の手が止まる。

ゆっくりと、顔を上げる。

初めて、真正面から蓮を見る。


しばらくの沈黙。


やがて――


楽譜を、閉じた。


「……へぇ」


わずかに口角が上がる。


「面白いこと言うな」


挑むような目。


そのまま立ち上がり、歩き出す。

振り返らない。


蓮は、その背中を睨み続けた。


姿が見えなくなっても、なお。

視線だけが、その場に残る。


静かに。


けれど、確実に。

火は、ついた。


⸻


駿、十八歳。

蓮、十七歳の夏。


⸻


東京音楽大学。


ヴァイオリン科。


⸻


Aクラス。


駿を含む、選ばれた数名。


講師――バルト。


⸻


Bクラス。


蓮を含む、同じく数名。


講師――ハーン。


⸻


蓮は、約束通りこの大学を選んだ。


同じ場所。

同じ舞台。

駿と、同じヴァイオリン科。


けれど――


蓮は、ほとんどレッスンに出なかった。

真面目に受けたのは、最初の三日だけ。


それ以降は。


キャンパスで、

寝転がっていることが多かった。


空を見上げながら。


何を考えているのかは、

誰にも分からない。


ただ一つだけ。

欠かさず出るものがあった。


三ヶ月に一度の、合同レッスン。


AクラスとBクラスが、

同じ空間に集まる日。


その日だけは――

必ず、現れる。


レッスン室。


まずは、蓮。

譜面を一瞥する。


そして――


弾く。


荒い。

速い。

整っていない。


けれど。


感情のままに、音をぶつける。

初見とは思えない勢いで。


その音は――

確実に、人を惹きつける。


続いて。


⸻


駿。


静かに構える。

弓を置く。


一音。

そして、また一音。

丁寧に。

確実に。


音が、広がる。

深く。

美しく。


まるで、意志を持っているかのように。


その旋律もまた――

聴く者を、離さない。


対照的な二つの音。


同じ空間で、ぶつかり合う。


その時。


蓮は、初めて――

真正面から、駿の音を聴いた。


胸の奥が、ざわつく。

遠い記憶。

忘れたはずの、何か。


あの音。


母が聴いていた音。

――重なる。


(……なんだよ、これ)


目を逸らせない。

認めたくないのに。

どこかで、理解してしまう。


その音の意味を。


駿、十九歳。

蓮、十八歳の春。


———


夏休み。

二人は、再び長野の合宿所にいた。


昼下がり。


駿は、

友人たちと昼食後の談笑をしていた。

穏やかな時間。


その空気を――


叫び声が、切り裂いた。


「――っ!!」


視線が、一斉に向く。


少し離れた場所。


そこにいたのは――

蓮だった。


誰かに、掴みかかっている。


ただ事ではない。


駿は、友人と顔を見合わせ、

その場へ向かった。


だが――


その途中で。

蓮が、ちらりと駿を見る。


一瞬だけ。


そして。

そのまま、手を離し――


背を向けた。


何もなかったかのように、

立ち去っていく。


残されたのは、掴まれていた男。


「なんだよ、あいつ!」


男は憤慨したまま足元を見た。


「人が苦労して手に入れた

コンサートチケット見せただけで、

いきなりだぞ!?」


地面には

一枚のチケットが落ちている。


風に揺れるそれを、駿は拾い上げる。


そこに書かれていた名前。


——TAKAOMI KIDO


一瞬、視線が止まる。


そして。

駿は、蓮が去っていった方を振り向いた。


騒ぎが収まったあと。

駿は、一人で蓮を探した。


やがて見つける。


池のほとり。

水面を見つめる、背中。


少し距離を置いたまま、駿は口を開く。


「……同じだな」


わずかな間。


「俺と」


蓮の肩が、ぴくりと動く。


振り向く。


その目には、苛立ちが滲んでいた。

今にも、掴みかかりそうな勢いで。


「……お前に、何が分かるんだよ!」


吐き捨てるような声。


駿は、動じない。


静かに、言葉を返す。


「あの男の影は」


一歩も動かず。


「振り切っても、振り切っても

ついてくる」


短く、息を吐く。


「腹が立つくらいにな」


沈黙。


蓮は、何も言わなかった。


ただ――

鋭く、駿を睨む。


そのまま、踵を返した。

何も言わずに、その場を離れる。


去り際。

頭の中に、さっきの言葉が残る。


(……影が、ついてくる)


(同じ……?)


歩きながら、奥歯を噛み締める。


(くそっ……

分かったようなこと言いやがって)


消えない苛立ち。

けれど――

どこかで、引っかかっている。


一方。


池のほとりに残された駿。

揺れる水面を見つめながら、

ふと、思い出す。


母の言葉。


「恨んではいけない」


その言葉は、今も胸の奥にある。


だが、その言葉以上に

消えることのない火種は


静かに。

確かに、燃え続けている。


駿、十九歳。

蓮、十八歳の夏。


⸻


東京音楽大学。


ヴァイオリン科。


⸻


Aクラス――駿。

講師:バルト。


Bクラス――蓮。

講師:ハーン。


⸻


あの夏の合宿から、しばらくして。


蓮は、時折レッスンに

顔を出すようになっていた。


相変わらず不定期。


けれど――

確実に、何かが変わっていた。


そして。


合同レッスンの日。

AクラスとBクラスが一堂に集まる。


張り詰めた空気の中、

バルトとハーン、二人の講師が並んで立つ。


静寂。


やがて、バルトが口を開いた。


「来年の創立記念日」


低く、よく通る声。


「我々ヴァイオリン科は、コンサートを行う」


ざわめき。


すぐに、ハーンが続ける。


「演目は――」


「バッハ『二つのヴァイオリンのための協奏曲』」


空気が、変わる。

誰もが理解していた。

その曲の意味を。


二つのヴァイオリン。


対話。

調和。


そして――


衝突。


バルトの視線が、ゆっくりと動く。

一直線に。

二人へ向けられる。


「第一ヴァイオリン」


わずかな間。


「木戸駿」


空気が張り詰める。


続けて。


「第二ヴァイオリン……上野蓮」


完全な沈黙。


誰も、声を出さない。


当の本人たちは――

何も言わなかった。

顔も、合わせない。


ただ。


その場に、座ってるだけ。

逃げ場は、ない。


交わるはずのなかった二人が、

同じ音を奏でることになる。


それは、偶然ではない。

必然だった。


無謀なレッスンの幕が、上がる。


駿、十九歳。

蓮、十八歳の冬。


⸻


東京音楽大学。


創立記念日に向けて、

学内はどこか浮き足立っていた。


廊下。

食堂。

練習室前。


あちこちで、音と期待が交錯する。


その中心にいたのが――

駿と蓮だった。


駿は、誰とでも気軽に話す。

柔らかな笑顔。

爽やかな空気をまとった存在。


対して蓮は――

近寄りがたい。

無駄な言葉を発さない。

静かに距離を置くような存在。


正反対の二人。


そんな二人が、レッスン室に並ぶと

自然と、人だかりができた。


扉の向こう。

期待と好奇の視線。


だが。

その内側は――


最悪だった。


音は、噛み合わない。

視線も、交わらない。

会話すら、まともに成立しない。


「お前、合わせる気あんのか?」


駿の苛立ち。


蓮

「……ない」


間を置かず、蓮が返す。


「お前が合わせろよ?」


空気が、一瞬で冷える。


駿

「……ケンカ売ってんのか?」


こんな調子で

リハーサルは、一向に進まなかった。


そして。


創立記念日が、迫る。

ある日。


キャンパス


「――いい加減にしてくれ!」


駿の声が、響いた。


周囲にいた全員が、振り返る。


視線の先。

そこにいたのは、駿と記者。


「お父さんとの思い出、ひとつでも……」


食い下がる声。


駿の表情が、固まる。


「あの男のことで話すことなんか何もない」


低く、押し殺した声。


「……もう来んな」


空気が凍る。


記者は、それでも引かない。


「少しでいいんです――」


駿は、何も言わなかった。


ただ――

その場を、立ち去った。


その背中を。

蓮は、見ていた。


(……同じだな)


胸の奥で、言葉が浮かぶ。


(振り切れない影……)


気づけば。

蓮は、その背中を追っていた。


無意識に。

足が、動いていた。


やがて。


駿が立ち止まる。

マンションの前。


その時。


「……同じだな」


蓮の声。


静かに、届く。


「俺と」


駿が、振り返る。


わずかな沈黙。


視線が、交わる。


そして。


駿


「……入れよ」


短く、そう言った。


蓮は、一瞬だけ目を細める。

ふっと、笑った。


「あぁ」


二人は並んで、マンションへ入っていく。


部屋。

静かな空間。

蓮は、ゆっくりと見渡す。


「……いいとこ住んでんな」


ぽつりと呟く。


駿


「家でも弾くなら、防音は必須だからな」


少しだけ、間が空く。


そして――


「……一緒に住むか?」


蓮が、目を見開く。


「は? 男二人でか?」


一瞬の沈黙。


駿が、ふっと笑う。


「……それもそうだな」


それ以上は、何も言わない。


二人は、そのまま同じ空間にいた。

会話もなく。


けれど――

どこか、穏やかな空気。


その日を境に。

リハーサルは、少しずつ進み始めた。


駿、二十歳。

蓮、十九歳の春。


⸻


駿の音は、崩れない。


どこまでも、美しい旋律。

揺るがない軸。


対して――


蓮の音は、自由だった。


縛られない。

舞うように。

思うままに、弾く。


交わらない。

重ならない。


会話をする気もない、

二つのヴァイオリン。


それでも――


創立記念日の舞台は、幕を開けた。


講師二人が、

冷や汗をかきながら見守る中。


奇跡のように。

なんとか、最後まで演奏は続いた。


拍手。

歓声。

評価は――悪くない。


だが。


当の二人にとっては、

何も終わっていなかった。


大学は、再び日常へと戻っていく。


そして――


ある日。

クラス替えの発表。

レッスン室の前に貼り出された紙。


⸻


ヴァイオリン科。


⸻


Aクラス。


⸻


木戸駿。


上野蓮。


他、三名。


⸻


講師――バルト。


空気が、ざわめく。

逃げ場は、消えた。


波乱の幕が、再び上がる。


⸻


レッスン室。


音が、ぶつかる。

蓮の音は、走る。


周りを聴かない。

止まらない。


「違う」


駿の声。


「音を聴け」


蓮


「……必要ない」


即答。


駿


「合わせろ」


蓮は、わざとズラす。

意図的に、外す。

ぶつける。


空気が張り詰める。


駿の音が、止まった。

弓を下ろす。


静寂。


「……ナメてんのか?」


低い声。


次の瞬間。

蓮が、掴みかかった。


一気に、場が荒れる。

周囲の生徒たちが、慌てて止めに入る。


押さえられながらも、

視線だけは外さない。


蓮の中にあったのは――

苛立ちと。


もう一つ。


駿の音の中に、わずかに見えた。

あの男の影。


それが、消えない。

消せない。


⸻


***


⸻


授業の合間。


⸻


テラス。

駿は、一人で楽譜を読んでいた。

そこへ、友人がやってくる。


「なぁー」


軽い声。


「なんでアイツ、あんなにお前に

絡んでくるんだ?」


駿は、顔を上げない。

視線は、譜面のまま。


「……さあな」


短く答える。


だが。

内側では、違った。


(……似てるのか)

(音……あの男に……)


無意識に、手が止まる。


(くそっ……)


否定しきれない何かが、残る。


友人の声は、遠い。


ただ一つ。

消えない感覚だけが、そこにあった。


駿、二十歳。

蓮、十九歳の秋。


⸻


年が明けた。


大学には、

少しずつ現実が流れ込んでくる。


就職。

進路。

それぞれが、

自分の未来を考え始めていた。


その中で――

駿にも、声がかかっていた。


音楽業界。

いくつものオーケストラ。


だが。

どこも同じだった。


「木戸孝臣の息子」


その肩書き。


その一言で、全てが決められている。

評価されているのは、自分じゃない。


その事実に――

苛立ちが募る。


そんな時だった。


後ろから声


「駿さー」


振り向くと、亮太がいた。


いつも通りの、軽い調子。


「お前、就職どこにすんの?」


「……まだ、なにも決めてない」


駿の答えを聞いた瞬間。


亮太の目が、ぱっと輝いた。


「じゃあさ!」


一歩、踏み出す。


「俺が作るオーケストラに入らないか?」


「……は?」


思わず、間の抜けた声が出る。


「お前が、作るのか?」


「そう!」


迷いのない声。


亮太は、まっすぐ言い切った。


「音楽ってさ」


「小さいとこでも、

どこでも鳴らせるだろ?」


ニコニコしながら駿を見る。


「だからさ――

旅するオーケストラを作りたいんだ」


一瞬。


駿の中で、何かが止まった。


そして――

弾ける。


(……どこでも、鳴らせる)


その言葉が、残る。

静かに。

深く。


「……他には?」


駿が、口を開く。


亮太は、

待ってましたと言わんばかりに笑った。


「和馬!」


「コンマスで声かけたら、もうOKもらってる」


「あと、チェロの水野圭一」


「フルートの曽我ゆり子」


嬉しそうに名前を挙げていく。


「で、お前」


にやりと笑う。


「まだ声かけてないやつもいるけどな」


「……指揮は?」


駿の問い。


「和馬が今、塩見仁に声かけてる」


相変わらず、楽しそうに笑っている。


しばらくの沈黙。


駿は、何も言わずに考える。

頭の中に浮かぶのは――


これまでの音。

否定された自分。

重ねられてきた名前。


(……俺の音で)


静かに、息を吐く。


(見返せたら)


拳を、わずかに握る。


(俺の音を、出せたら)


顔を上げる。


「……やる」


短く、はっきりと。


亮太の表情が、一気に明るくなる。


「よし!決まりな!」


肩を叩く。


「また決まったら連絡する!」


軽やかに去っていく背中。


その後ろ姿を、駿はしばらく見ていた。


胸の奥。

小さな火が、確かに燃え始めていた。


駿、二十一歳。

蓮、二十歳の春。


⸻


ヴァイオリン科。


Aクラス。


駿、蓮――


同じ場所にいるはずの二人は、

これまで一度も、交わることはなかった。


だが。


駿は、決めていた。

大学院へ進む。


(亮太のオーケストラに入って――)

(その間に、見つけられるものがあれば)


まだ、答えは出ていない。


だからこそ。

探しに行く。


そのための選択だった。


⸻


レッスン室。


いつものように、

仲間たちの声が響いている。


「駿、お前大学院行くんだって?」


「あぁ……」


軽く笑う。


「就職も氷河期だしな」


「お前なら、どこでも行けるだろ」


茶化すような声。


「モデルとかも出来るんじゃね?」


「んなもん出来るわけねぇだろ‼︎」


笑いが起きる。


いつもの空気。


――そのはずだった。


「なぁ」


声が落ちた。

空気が、変わる。


気づけば。

蓮が、そこに立っていた。


駿の前。


まっすぐに。

逃げ場を塞ぐように。


「……ガチでやらないか?」


一瞬。


レッスン室が、凍りつく。

誰も、息をしない。


駿は、ゆっくりと顔を上げる。


その目は――

もう、笑っていなかった。


「……曲は?」


低い声。


試すような響き。


蓮は、一歩も引かない。

むしろ、踏み込む。


「サラサーテ――」


間。


「ナヴァラ」


その瞬間。


ざわっ――

レッスン室が、一気に騒がしくなる。


無理だ。

無茶だ。

あれを、やるのか。


あの二人で。


その時。


ガチャ。

ドアが開く。


「ん?みんなどうしたの?」


バルトだった。


空気が、一瞬で切り替わる。


「い、いや……その……」


言いかけた学生に――


蓮の視線が刺さる。

鋭く。

黙れ、と言わんばかりに。


「……何でもありません」


ぎこちない返答。


違和感だけが残る中、

レッスンは何事もなく終わった。


やがて。

一人、また一人と帰っていく。


そして――


誰もいなくなる。

静まり返った、レッスン室。


残ったのは、二人。

言葉は、ない。

必要ない。


静かに。


同時に。

ヴァイオリンを構える。


弓が、弦に触れる。


――その瞬間。


止まっていた時間が、動き出した。


駿、二十一歳。

蓮、二十歳の秋。


⸻


夕暮れ。


人の気配が途絶えた大学に、

ヴァイオリンの音だけが響いていた。


「……誰だ?」

引き寄せられるように、

学生たちがレッスン室の前に集まる。


扉の向こう。


鳴っているのは――


ナヴァラ。


だが。

それは。


決して、美しい音ではなかった。


噛み合わない。

ぶつかる。

ねじれる。


まるで、会話にならない二つの音。


駿は、感じていた。

叩きつけるように、

激しく加速していく蓮のヴァイオリン。


(……止めるか?)


そう思った。


だが。


(なんで、この曲を選んだ?)


違和感。


そして――


(……聞いてほしいのか?)


駿は、目を閉じた。


外へ、外へと溢れ出す、

蓮の音。

荒く、制御もなく、


それでも確かに――

“何か”を叫んでいる音。


⸻


レッスン室の外。


「……なんだこれ」


困惑の声。


あまりにも噛み合わない演奏に、

ひとり、またひとりと、

人が離れていく。


やがて。


残ったのは――

二人だけ。


駿は。

最後まで弾かなかった。


音を、止める。


蓮もまた、止めた。


静寂。


そして――

視線が、ぶつかる。


「……来年は」


駿が、口を開く。


「大学院に行く」


間。


「といっても、ほとんどここには来ない」


淡々とした声。


だがその奥に、何かがある。


「それから――」


少しだけ、笑う。


「亮太っていう、ふざけたヤツがさ」

「“旅するオーケストラ”ってのを作ったらしい」


蓮は、黙って聞いている。


「音楽って、小さいとこでも、どこでも鳴らせるって」

あいつが言ったんだ、と。


一瞬。


駿の視線が、遠くを見る。


そして。

戻る。


まっすぐに、蓮へ。


「……蓮」


低く。


確かな声で。


「俺は――」


間。


「俺の音を、奪いに行く」


沈黙。


長い、沈黙。


やがて。


駿はポケットに手を入れる。

何かを取り出し――

放った。


カラン。


軽い音。

蓮の手の中に、収まる。


鍵。


「部屋、あんまり帰らないかもしれないから」


「好きに使え」


一瞬の静止。


そして。


蓮


「……誰が」


低く、吐き捨てるように。


「お前の世話になんかなるかよ‼︎」


振り返らず、レッスン室を出ていく。

足音が、遠ざかる。


「……だったら置いてけよ、鍵!」


返事はない。


静寂。


ふっと、駿は笑う。


(……素直じゃねぇな)


再び、ヴァイオリンを構える。


弓を置く。

音が、鳴る。


その頃。


歩きながら、蓮は気づいていた。

背後から聞こえる音。


さっきまでとは――

ほんの少しだけ、違う。


⸻


駿、二十一歳。

蓮、二十歳の秋。


駿と蓮の物語 完。

お読みいただきありがとうございます。

第0楽章 番外編 亮太へ——

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